第38話
白い『不可侵の医師団』の建物。その玄関を出ると、目の前に広がるのは、透き通る青空だった。
たまかは広がる晴天に、胸いっぱい深呼吸をした。ついでに伸びもして、疲れた身体を解した。真っ白いナース服からすらりと細い両腕を天へと伸ばし、弧を描くように下ろす。ナースキャップを象った髪飾りと薄桃色の内巻きの髪を揺らし、広大な青と脱脂綿のような白を見上げた。
『不可侵の医師団』が襲撃されてから、しばらくの月日が流れた。今日はたまかにとって、久々の休日だった。治療の日々に休みはないが、最近はらんやすずの身体が元に近い状態まで戻り、動けるようにまでなっていた。他の怪我をした面々も回復傾向にあり、徐々に人手も戻り始めていた。『不可侵の医師団』が正常な機能を戻すまで、然程時間は掛からないだろう。そう確信するようになるほどには、日常を取り戻し始めていた。
そんなわけで、たまかにも久々に『休み』が与えられることになった。最近は毎日抗争をしている三組織のメンバーではなく、襲撃を受けた『不可侵の医師団』に属する者を対象として治療をしていたため、『不可侵の医師団』の建物内に籠り切りだった。そのため外に出るのは、随分と久方振りだった。
(それこそ、襲撃されて三組織を渡り歩いた時以来でしょうか……)
まるで遠く昔のことのように感じられた。あれは夢だったと言われれば信じられるほどに、あの日々は非日常だった。日常に戻って、初めてあの日々の異質さが際立ち、幻だったのかと錯覚してしまいそうだった。
でも、どれも本物だった。『不可侵の医師団』が襲撃されたことだって、『ブルー』にひっとらえられたことだって、ミナミに部屋に泊めて貰ったことだって、ソラに蔑む目を向けられたことだって、水面の暴力を目の当たりにしたことだって、イロハに『ブルー』脱出を手引きされたことだって。サクラに『ブルー』から連れ出されたことだって、アカリに呼吸をしない友達を紹介されたことだって、林檎と寝起き頭に秘密の話し合いをしたことだって、アカネと再会したことだって。ナナに両足を切り落とされそうになったことだって、ノアとお茶会をしたことだって、姫月とツーショットを撮ったことだって。どれも、どうしようもないくらい現実だった。
『ラビット』を抜け出し、『レッド』のサクラとアカリと別れてから、たまかは『不可侵の医師団』の寮へと無事に戻った。たまかは『レッド』にとって用済みであるため、口封じに殺されるのではないかという可能性も頭にはあったが、二人は言葉通りに無事にたまかを帰してくれた。『不可侵の医師団』ではたまかと同じ様にたまたま寮にいなかった人や、寮生ではなかったために襲撃を免れた人達が中心となって、懸命な治療が行われていた。そのお陰で、幸い死人が広がることはなかった。ただそれでも、襲撃によって十人近い死者が出た。戻ったたまかは、三組織での非日常を忘れ必死に治療を行った。
らんやすずは命を取り留め、その後は他の人達同様、回復傾向にあった。二人はしばらく『不可侵の医師団』を離れていたたまかの事情をフォローしてくれていたらしく、たまかが帰ったあとも特に御咎めはなかった。寮へ戻ったたまか、そしてらんとすずは、互いの無事を確認し、ベッドの上で抱き合って喜んだのだった。
たまかは眩しい陽射しに目を細め、手で日陰を作った。
(スーパーに買い物に出掛けましょう。冷蔵庫の中がすっからかんですからね)
治療に追われる日々を送っていたため、自身の生活が疎かになっていた。寮には食堂もあるため冷蔵庫の中に何もなくても問題はないのだが、食堂の時間は決まっているため、治療が長引いた夜などはくいっぱぐれる可能性があるのだ。たまかは冷蔵庫に久々に食材を補充するため、貴重な休日を使ってスーパーに出かけることにしたのだった。
街は相変わらずのんびりとしていた。抗争の影がなければ、こんなにもこの街は穏やかでゆるやかな時間が流れているのだ。たまに見かける通行人の足取りはどれもゆっくりで、複数人でいる者は談笑をしている。時折穏やかな風が吹きぬけて、街路樹をさわさわと揺らした。
たまかは木漏れ日の中に、猫の姿がないかときょろきょろと見渡した。小鳥がたまに顔を覗かせるくらいで、長い尻尾は見当たらなかった。
結局、治療を施した猫との再会は叶わなかった。らんとすずの無事を確認した後、真っ先に寮の窓に張り付いて猫を探してみたが、一匹たりとも見つからなかった。たまかは落胆したが、それでも心の中では信じていた。猫さんの、元気に走り回る姿を。きっと、『不可侵の医師団』の寮周辺は縄張りの範囲外なのだ。その範囲の外、発見した場所の周辺で、今も元気に過ごしてくれているはずだ。たまかはそう信じていた。その意思は、外に出て姿を見つけられなかった今でも、変わることはなかった。
(この辺には来ていないようですね。無事に食べ物にありつけているといいのですが)
たまかは周辺を詮索することを止め、足を進めた。愛らしい大きな瞳、そしてキュートな模様の三色の毛、怪我の治った桃色の肉球。その足で大地を踏み締め、軽やかに駆けていく様を想像する。最後まで世話をすることは出来なかったが、それは大きな問題ではない。猫さんが元気でいてくれれば、それだけでいいのだ。
遠くで子供の笑い声が響いた。たまかが顔を向けると、小さい女の子が二人、遠くで笑いながら走っていった。たまかは平和な光景に、思わず微笑んだ。
通りを真っ直ぐと進んでいると、スーパーの看板が見えてきた。たまかは頭の中で、買う物リストを思い起こし、改めて入念にチェックを始めた。
(玉ねぎ、にんじん、じゃがいも……)
ふと、視線を横へと移した。何気なく、本当にたまたまのことだった。
(さつまいも……)
頭では買い物リストを思い起こし、足もスーパーへの道を歩み続けたままだった。そんな中不意に視界に映った光景は、長く垂れ緻密な模様が彩る袂を振り乱し、その薄群青色の制服のミニスカートを荒ぶらせながら建物に乗り込む、そして人を殴り蹴りつける集団の姿だった。
(豚肉…………)
たまかの思考はそこでストップした。迷いなく歩を進めていた純白の靴が止まった。たまかは遠目にその光景を目に映し、茫然と立ち尽くした。
周りの人々は気が付いていないようで、談笑したり犬の散歩をしたり目的地へ急いだりと各々の行動をしていた。たまかだけが、道の端で見てはいけないものを見てしまったかのように棒立ちをしていた。
遠目に見ても、わかる。あの特徴的な制服の集団は、間違いなく『ブルー』である。
(……)
たまかは立ち尽くしたまま、目を釘付けにされたように顔を一点へと固定していた。
(ま、まずいです。『ブルー』の襲撃現場に、一般通過してしまいました……)
……ここで、見て見ぬふりをして立ち去ってしまうのは簡単だ。何せ、先日捕まって怪し気な先に引き渡されそうになった組織である。たまかはその目を以ってして、『ブルー』の野蛮で危険で暴力的な実態を目の当たりにした。関わらないのが吉だ。幸い、現場からは距離があり、向こうもたまかのことなど気付いていない。
(ですが……)
遠目でもわかる。振袖が何度も舞っている先には、倒れている人間がいる。『ブルー』の者達は、乗り込んだ先の者達に暴力を振るっている。何度も殴り、複数人で蹴り倒している。……傷ついている人間が、あそこにいる。たまかは顔を歪めた。
(……)
心の中に、迷いが生じていた。両手の拳を、ぎゅっと握る。三組織と関わった日々は遠い過去、もう変に関渉することはないと思っていた。たまかは無事に日常を取り戻し、ある程度平和で穏やかな日々が戻ってくると信じていた。蘇生の件などは完全に解決しなかったが、それでも最終的に三組織はたまかの身をどうこうしようとはしなかった。ならばそれを享受し、一切を知らなかったことにすることもいいのではないか。あの日々は忘れ、治療の日々に戻り、目の前の患者のことだけを考える毎日を取り戻すのだ。蘇生? 抗争? そんなの、一般人のたまかには関係ない。非日常だったなー、蘇生って何よー、三組織怖いよー、とほほ。それで終わりにするのは容易いはずだ。
……しかし。
「…………ええい、ままよ!」
たまかは半分やけくそになって叫んだ。スーパーに向かっていたはずの靴先を急カーブさせ、ずんずんと現場へと歩き出す。車道越しに通行人がたまかを不思議そうに眺めていたが、たまかはそんなことには気付かず、お構いなしに『ブルー』に襲撃されている建物へと突き進んだ。たまかの頭の中では、襲撃された時の『不可侵の医師団』の惨状がちらついていた。もう二度と目にしたくない光景が、目の前の景色と重なった気がした。
真っ白な制服が近づいていることなど、『ブルー』の者達は微塵も気付かないでいた。馬乗りになって殴りつける先の頬と、二枚歯の先で踏みつける腹のことしか見えていないようだった。




