第109話
「……ノートパソコン?」
姫月がノートパソコンを開き、電源ボタンを押した。ぼうっと画面が明るくなる。バッテリーは残っているようだった。その横で、たまかは資料を手にして、手あたり次第捲り始めた。
「三組織の借金の状況の詳細……取り立ての明細……。……三組織の長、暗殺計画!?」
たまかは声を裏返らせた。一枚一枚を詳細まで追うことは出来なかったが、恐ろしい内容が山ほど載っているようだった。
「これは……通信記録ですね。相手は外の国でしょうか……英語と中国語と……フランス語、アラビア語? 内容はわかりませんが、夥しい桁の数字がよく出てきます……」
予想通り、外の国との取引や三組織の借金の根幹に関わる資料は、ここにまとめて封印されていたのだ。人は欲望のためにここまでやるのかと思う程の記載がどんどんと顔を出した。食い入るように資料を捲り続けるたまかの後ろで、水面が階段の細い手すりへと腰をあずけて寄りかかった。ふうと大きく息を漏らす顔は、怪我によって血色が良くない。ミナミは心配するように、長に寄り添っていた。狭い空間に四人は定員オーバーのようで、お互いの距離は密着しそうな程狭かった。丸椅子に一人座っている姫月のパニエが膨らみ、横のたまかと後ろの水面を押し出すように存在を主張していた。
たまかが資料を確認し終えて顔をあげたのと、姫月が難しい顔で唸り声をあげたのは同時だった。たまかは資料を台の上に戻し、姫月の顔の隣へと、二つ結びの白髪をどかして顔を寄せた。画面には、小さくウィンドウが表示されていた。入力画面のようで、四桁分あった。
「パスワードの入力画面だ」
姫月は眉を寄せながら人差し指を動かし、キーを四回優しく叩いた。ゼロ、キュウ、ニ、ゼロ。無言のまま、エンターキーを叩く。画面には、『パスワードが違います』という文言が表示された。姫月は小さく唇を突き出して眉を寄せたままだった。
「……何の数字ですか?」
「……」
姫月は答えなかった。ただ憮然とした顔のまま、画面と睨めっこをしていた。水面がぼそっと、「姫月の誕生日だ」と後方から呟いた。たまかはああ、と横の姫月へと顔を向けた。多くの父親ならば、大切なパスワードに自分の娘の誕生日を設定することは普通だろう。姫月もそう思って、自分の誕生日を入力してみたのだろう。結果は画面の通りである。無機質な画面を映す瞳は、失望を通り越して一種の諦観すら感じ取れた。
続けて、姫月は先程とは異なる四桁を入力し、エンターを押した。『パスワードが違います』。続けて、さらに異なる数字を入力する。画面には同じ表示が出力された。
「パパの誕生日でも、ママの誕生日でもない……」
姫月は苦い顔で言い、再び試行を繰り返そうとした。そして、指が止まった。『パスワードを入力してください』という文言の下に、ある一文が追加されていることに気付いたからだった。
「『セキュリティ保護……あと二回』?」
姫月の読み上げた文言に続き、『パスワードを規定回数誤入力した場合、初期化を開始します』と記載されてあった。
「な……なにそれ、後だしずるいじゃん!」
姫月は画面へ身を乗り出し、目の前の不条理へと叫んだ。彼女の着ているパニエの膨らみが押し出され、後ろの水面に激突した。
「片っ端から試す、ということは出来ないみたいですね……」
四桁ならゼロゼロゼロゼロからキュウキュウキュウキュウまで全てを試すことも考えていたが、それはばっちりと対策がされていた。たまかは画面の放つ光に顔を染めながら、苦い顔をした。
「四桁……四桁……ええと……」
姫月はぶつぶつと呟いていたが、やがて顔をあげ、たまかと水面、奥のミナミを振り向いた。
「財団の創立記念日。……入力してみてもいい?」
たまかは真剣な顔で頷いた。もとより、たまかには思い浮かぶ数字もなかった。水面とミナミが、たまかの後方と横でそれぞれ頷いた気配がした。
姫月は顔の向きをパソコンへと戻した。そしてゼロ、キュウ、ゼロ、イチ、と入力し、エンターキーを祈るように押した。画面には『パスワードが違います』と何度も見た無情な文言が表示された。
「創立記念日でもない……あと一回」
姫月は悔しそうにそう言った。
「でも……もう本当に心当たりがないよ。……この部屋に隠されていたんだから、絶対重要な情報が入ってるはずなのに……!」
歯軋りをしながら、姫月は食い入るように画面を見つめた。『パスワードを入力してください』という文言、そして点滅する最初の一桁の枠。表示された画面は、画面を見つめる者達の感情など全く考慮することはない。
「……拷問が得意なのだろう? 意識が戻ったあと、上の男を拷問するのはどうだ?」
ずっと黙っていたミナミが、真面目な顔でとんでもないことを提案した。
「駄目。あいつは拷問くらいじゃ絶対に口を割らない。そういう奴なの」
姫月は焦りを滲ませた顔のまま、首を振った。桃色と紫色の入った白髪が、姫月の顔が振られる度にぴしぴしとたまかへと当たった。
「『レッド』に倣って、自白剤でも打ってみたらどうだ?」
「それでも駄目。そんなのがきくような奴じゃないの。試してみてもいいけど……たぶん、無駄に終わる」
「四桁……四桁……」
物騒な会話の横で、たまかも姫月のように譫言の如く繰り返した。四桁となれば、真っ先に思いつくのはやはり日付である。しかし本人の誕生日、娘や妻の誕生日、財団の記念日もパスワードではないようだった。大切なものを隠すとき、そのパスワードに、一体どんなものを設定する? もし自分がその立場だったとき、一体どのような日付を選ぶ?
「……」
たまかは悩むが、なかなかぴんとくる答えは見つからなかった。たまかなら、自分か大切な人の誕生日を設定して終わりである。
部屋が、しんと静まり返った。部屋の者達は皆難しい顔で、無機質に光る画面に視線を奪われたままだった。ノートパソコンから駆動音が鈍く鳴っているのが、嫌にはっきりと耳に残った。突如として、その静寂を破るように、上が騒がしくなった。階段や天井が一定間隔で軋み、衝撃がたまか達の身体にも伝わってきた。いくつかの足音のようだった。




