第103話
カイは、久方ぶりにその口を閉じた。その瞳は、じっと水面へと向けられたままだった。長なら自分を信じてくれるだろうと、悲痛な祈りが込められていた。
外で雷鳴が響いた。強さを増した雨は、床を叩いて水滴を散らす。一度白く光ったあとは、その灰色の下は混沌とした暗さを滲ませていた。明かりの灯る室内へ、そこから逃げるように水滴が押し寄せる。
「……どうして」
水面は絞り出した後、咳き込んだ。息を整えたあと、脇腹を抱え項垂れる上半身を、僅かにあげて続けた。
「どうして……林檎が死んだと報告した時に、それを言わなかったんだ」
「すべて報告しようとしていました。でもその前に、あなたが部屋を飛び出していってしまったんです」
カイは少し眉尻を下げた。
「じゃあ……」
水面は肩で息をしながら、再び口を開いた。その瞳は怪我による痛みに全く屈しておらず、いつもと同じく標的を鋭く射貫いていた。
「どうして……お前は、猫が財団に関係していることを、知っているんだ」
カイの瞳が、僅かに見開かれた。
「あたしはお前に……猫のことを話してない」
「……」
カイは、自身の言葉を信じてくれていない長へと再び口を開いた。
「朱宮からききました」
真実は自分にあると、そう訴えるかのようだった。
水面は、ゆっくりと、首を横へと振った。
「林檎は……あいつは、そんなことは、しない。あいつは、常に慎重で……不用意に、大事な情報を口にしたり、しない。……そういう、奴なんだ」
その瞳は揺るがなかった。何が真実か、はっきりと捉えている顔だった。
「そうです」
苦し気な声の先を続けるように、高らかに声が響く。銃口を当てられたままの、たまかだった。
「水面さんがカイさんに猫さんの情報を伝えていないのならば……やはり、おかしいです。どうしてカイさんは、林檎さんや私が口にする前から、猫さんの情報を知っている素振りだったのですか?」
命をカイに握られているとは思えない、毅然とした口調だった。
「貴方は水面さんから猫さんの情報をきかされていたと勘違いをしていた。でも、実際には水面さんは貴方へ猫さんのことを教えていなかった。つまり貴方は最初から、猫さんのことを知っていたことになります。……財団のスパイは、貴方です」
「……」
たまかからはカイの表情は窺えない。たまかははっきりとした口調で続けた。
「林檎さんはきっと、水面さんがカイさんへ猫さんの情報を告げていないと信じていました。ですから、林檎さんはわざと鎌を掛けたんです。あえて猫さんの情報を告げて……カイさんが乗ってくるか試した。結果、カイさんは猫さんの情報を知っているかのように会話を続けました。林檎さんは自身の情報網とその知力で、カイさんが財団のスパイであると疑っていたのでしょう。彼女はそれを確信へと変えるために、猫さんのことをあえて隠さずに話題にあげたのです」
カイは何も言わなかった。彼女と密着した状態で、たまかは自身の推理を続けた。
「林檎さんは昨夜、徹夜で遺書を遺しました。まるで今日自分が死ぬことがわかっていたかのようでした。もともと彼女は今日、私を連れて猫さんを探す予定でした。つまり林檎さんは、その猫探しで命を落とすことを確信していた。……なぜなら、猫探しの日に銀行強盗の決行日が被ったからです。銀行強盗の決行日と被ってしまったとき、猫探しに間違いなく影響するものがあります。それは……」
『レッド』の一室、林檎の入った柩のある部屋で、四人の声が揃って告げた言葉を、今度はたまか一人の声で紡ぎ出す。
「護衛役の人員です」
『レッド』の三人の叡智が、たまかの推察を後押しする。たまかの言葉は、確信を滲ませてはっきりと部屋に響いた。
「猫探しは、『ブルー』の護衛役がつくことが条件に設定されていました。しかし銀行強盗に人手が奪われ、その護衛役に任命される人物は限られました。腕の立つ者は全員、私が銀行強盗の作戦へと駆り出してしまっていたからです。カイさんは『ブルー』において、最前線へ立つような人員ではありませんでした。それは『ブルー』の方から私へと伝えられていて、私はカイさんを作戦から外していました。そこで水面さんは、猫探しの護衛役にカイさんを任命しました。カイさんは『ブルー』にしては珍しく、荒っぽい性格ではありません。『レッド』の者と共同で任務を遂行するにはぴったりの逸材、自然な流れでしょう。そしてその流れを、すべて林檎さんは察しました」
独奏者が変わっても、部屋の者達はノイズを立てなかった。皆、黙ってたまかの言葉に耳を傾けている。
「猫探しにおいて、財団のスパイと私が一緒にいることになるのですから、財団にとってはこれ以上ない絶好の機会です。財団はこの機会に、確実に私を殺すでしょう。林檎さんはしかし、それを別日にはしませんでした。突然別日にすればカイさんを疑っていることが明白ですし、それに何より——彼女は、自分が舞台上から消える必要がありました。……彼女は、自分の命を賭して私を守ることにしたのです」
部屋が一瞬、白く光る。遅れて雷が落ちた音が、けたたましく鳴り響いた。
「林檎さんは、確実に狙いを自分に向ける策を持っていました。それは、『不可侵の医師団』襲撃事件の真相を話すことです。『不可侵の医師団』を襲撃したのは……カイさん。貴方ですね?」
たまかの後ろからは、声は返ってこなかった。
「林檎さんは、車内で『不可侵の医師団』襲撃事件について切り出しました。犯人達が残してしまった痕跡を、暈しながらも口に出したのです。まるで自分は全てわかっているとでも言うかのようでした。対して私は、それだけではあまりピンときていませんでした。あの時カイさんは、ルームミラーで私の顔を確認していました。あれは、私が『不可侵の医師団』襲撃事件の犯人に気付いていないことを確かめていたのですよね?」
林檎は『不可侵の医師団』襲撃事件のヒントを、たまかへ向けて言ったわけではなかった。本当に伝えたい相手は、運転席で黙ってきいていたカイだった。そして、だからこそ林檎は、真相を全て話すわけにはいかなかった。林檎は真相に気付き、たまかは真相に気付いていない。それを明確にアピールする必要があったからだ。
「カイさんは自分が『不可侵の医師団』襲撃事件の犯人だとバレることを、どうしても避けたかったのでしょう。そしてそれは、私の殺害よりも優先度が高かった。カイさんは、私から林檎さんへと殺害のターゲットを変えました。もちろん、猫さんや私も殺害対象ではあったと思いますが……カイさんの中で、確実に始末する相手は林檎さんへと明確に変化した」
林檎はたまかへ向いていた銃口を、確実に自分へと変えさせた。彼女の得意とする、策と言葉によって。
「あの場に忍んでいた財団の者は、猫さんに向けて発砲していました。ですが、二発目は確実に林檎さんを殺すために撃たれていた。林檎さんを殺すために撃ったのは、カイさん。……貴方でしょう」
林檎をあの場ですぐにでも始末したい人間は、限られていた。財団の隠れていた者たちは、それに当てはまらない。財団の者達は全員、あくまでも猫とたまかを殺害対象としていたのだから。林檎を殺害し、たまかを生かす選択をする人間など、一人しかいない。
「恐らく貴方は車に戻るふりをして、隠れて私達を窺っていたのでしょう。財団の仲間が林檎さんに撃たれたあと、カイさんは本当に始末したかった相手を狙って撃ったのです。そして何食わぬ顔で私達に合流しました。カイさんの中で、『不可侵の医師団』襲撃事件の真相に気が付いていない私は、殺害の優先度が下がっていました。それに私は、水面さんから護衛を命じられた相手です。私を殺すことは、その任務が失敗することを意味します。『ブルー』での立場が危うくなることも容易に想像がつく。……つまり、林檎さんを殺したのも、私を生かしたのも、すべて自分の保身のためだったのです。違いますか?」
やはり、返事は返ってこなかった。




