第100話
車は門を潜り、私有地と思われる場所を真っ直ぐと進んだ。やがて駐車場が見えてきて、その一角に姫月は車を止めた。厚底を鳴らして降り立ち乱暴に車のドアを閉めると、「ついてきて」と言って走り出す。たまかもその後に続いて駆けて行った。傘も差さず飛び出した二人を、冷たい雨が襲った。
緑の覆う小道を抜けた先は、大きい建物が並んでいた。白を基調としている年季の入った建物は、たまかには見覚えがあった。
(姫月さんの部屋で見た、お父さんと写った写真……。ここで撮られたんですね)
旧式の玄関、前時代的な自動ドア。社名の書かれた銘板は、雨に打ち付けられて雫が滴り落ちていた。二人は屋内へ飛び込んだ。自動ドアの反応が遅く、もどかしかった。
開いた先の光景に、姫月もたまかも急いでいた足を思わず止めた。鉢植えに収まって客を出迎える観葉植物は、その葉先にべっとりと血をつけていた。
「これ……っ!」
奥に続く白い廊下には、数多の人が倒れていた。至るところが血で赤く染まり、銃や刃物、脱げたパンプスなどが散乱している。出血している者もいれば、腕や足があらぬ方向へ曲がっている者もいる。そのほとんどが灰色のスーツに身を包んでおり、財団側の人間だということが見て取れた。意識がある者も僅かにいるようだが、その者は例外なく怪我の状態がひどく、立ち上がれないで苦痛の声を漏らすばかりだった。天井や床には弾痕が黒く散り、窓は一部割れて粉々になっている。壁は何かがめり込んだような跡が広がり、所々破壊されていた。
「もしかして、全部水面さんが……!?」
見えているだけでこの僅かな空間に二十人はいる。財団の者は皆手練れのようだった。それを水面はただ一人で乗り込んで、多勢相手にすべてを蹴散らしていったようだった。
(私は水面さんが本気で戦っているところを、実際に見たことがありませんでしたが……屈強な『ブルー』の面々に強いと慕われているのも頷けます)
『ブルー』の面々の評価は、誇張でもなんでもなかった。たまかは自らの目を以ってそれを実感した。たまかが『ラビット』に居た時、財団の少女達が三人で乗り込んできた。たった三人、しかもこちらは倍以上の人数で応戦したというのに、あの時はかなりの苦戦を強いられた。それと比べると、水面の規格外の強さが嫌でもわかった。
「一階出入口から廊下、見えている範囲で二十三人。手前から順に重症度、A、A、S……」
「おい、それは後だ。先に水面……!」
愕然とした表情で、譫言のように『不可侵の医師団』としての職務を全うし始める。そんなたまかの横で、姫月が険しい顔で走り出した。倒れている身体を避けるように、厚底を高く跳ね上げる。厚底が窓ガラスの破片を踏みつけて嫌な音が響いた時、たまかも我に返った。急いでその後を駆け出す。
「あとで治療しに戻ります……!」
その場に残した言葉には、もちろん返事はなかった。たまかは『不可侵の医師団』としてここに来たわけではない、警戒されて当然である。姫月とたまかは人や物を避けながら、倒れている人を目印に進んでいった。廊下から突き当たり、階段を上がり二階、三階、曲がって、再び廊下。段々と血の量が増えていった。
最終的に、滴り落ちる血は一つの部屋の中へと向かっていっていた。もう何人目かわからない倒れたスーツ姿の少女の横を通り過ぎ、姫月とたまかは徐々に走るスピードを落とした。扉は開け放たれていた。中から明かりが漏れている。赤い血に導かれるように、姫月、そしてたまかはゆっくりと、その部屋の前へと進んだ。
開かれた扉の向こうには、二人の人物がいた。奥の窓から覗く景色は雨で霧がかっていて視界が悪い。一面模様の踊る両脇の壁の前には、資料の入った本棚が鎮座している。立派な机の上の資料は一部散って、床に散乱していた。そこから距離をあけた手前では、血が白一色の床に溜まっていて、赤い雫がその上に落ちてぴちゃんと跳ねた。
たまかの目の先には、水面の背中があった。結ばれた太い帯は、所々切れていた。破れたプリーツスカートの下は、刃物が食い込んだままで、そこから真っ赤な血が足元へと流れ落ちていた。二枚歯が特徴的な履き物は、血がべっとりと付着していて本来の色がわからない。その上の長く垂れた袂は穴が空いて切り裂かれ、血で染まっている。伸びた手が抑える脇腹は、血が滲んで薄群青色を染め上げていた。その指は何本かあらぬ方向へ曲がり、青紫が広がっていた。もう片方の手は銃を握り、真っ直ぐと伸ばされている。その指は引き金に掛かっていて、安全装置も外されているようだった。彼女は肩で荒く息をしていた。息遣いだけが、部屋に響いている。
机を挟んでその銃口の先には、一人の男性が立っていた。灰色のスーツで包まれたふくよかながたい、年齢により白くなっている髪と髭。五十代くらいのようだが、気品と貫禄によってさらに上の歳にも見えた。厳格な顔付きは、一分の隙も感じさせない。その姫月と似ている目元と口元は、たまかには見覚えがあった。
(姫月さんの写真に写っていた人……!)
彼は右手に銃を手にし、水面と合わせ鏡のようにその腕を伸ばしていた。銃口の先は、怪我を負っている『ブルー』の少女だ。二人の持つ銃口は、お互いの頭を精確に捉えていた。
「み、水面……っ」
たまかの横で、姫月が一歩、身を乗り出した。厚底が床を叩く。
「何してるの……っ」
「何、って……」
水面は肩で息をしながら、苦しさを堪えるように声をあげた。その間も、顔は前の標的に向けられたままだった。
「林檎の、敵、討ち…………」
「な、なにを……」
「お前は、違うの……?」
その声には驚愕と失望の色が混じっていた。姫月は一度、息を詰まらせた。
「お……落ち着いて水面。パパはその相手じゃないでしょ……!」
姫月の上擦った叫びは、水面の伸ばされた腕を下ろすことはなかった。
「だけど……」
苦しさを紛れさせるように、大きく息を吸って、水面は続けた。獲物を狙う豹のように研ぎ澄まされた瞳は、目の前の人物を怒りに満ちて捉えている。
「林檎が、コイツが怪しい、って、言ってたんだから……」
あの時の三者会談。林檎は執拗に姫月へ注意を促していた。お父様を信用するな、と。
「だったら、コイツが、犯人だ……」
荒い息遣いに合わせて揺れる銃口の先、男は微動だにしていなかった。ただその高圧的な目を細め、水面を真っ直ぐと射貫くばかりだ。
たまかの横で、姫月は言葉を失っていた。水面のボロボロの背中へ、何か声を掛けなければいけないと口を開くものの、そこからは何も紡がれることはなかった。
「久しいな、姫月」
代わりに声を発したのは男だった。渋い声色は、威圧感を隠そうともしていない。視線を自分の娘に僅かに向けたものの、銃の捉える先はそのままだった。
「お……お久しぶりです。お父様」
姫月はたどたどしく返した。
「あ……あの。今回の件……」
「お前が来てくれて手間が省けた」
姫月の言葉を遮り、男は淡々と告げた。
「早く縹を撃て」




