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第1話


 どんよりとした深い灰色の空から、大量の雫が滴り落ちていた。降りしきる雨の中に、一つの赤い傘が咲く。少女の小走りの足は、白い靴が塗れるのも厭わずに、水溜まりをちゃぷんと跳ねさせた。白い靴の後ろについた純白のリボンに、茶色の水玉模様がプリントされた。

 雨のザーザーという音、引切り無しに傘に雫が跳ねるポツポツという音、靴が水溜まりを跳ねるちゃぷんという音。それ以外に音はなく、まるで世界に一人だけ取り残されたような寂寥感が街を支配していた。

 ……早く戻らないと。

 少女は厚い雲の覆う空を傘から見上げ、少し困ったように眉尻を下げた。幼さの残る顔、小柄な体躯が一瞬の間に雨に晒される。その身体は、全身白に包まれていた。揺れる膝上のスカート、ナースキャップを象った髪飾り、ニーハイソックス……この制服は医療従事者を示す大事な服装なのだが、今となっては濡れて不快感を伴う布切れと化していた。少女は傘の中へ顔を戻し、片手に抱えた紙袋を抱え直した。中の食材が当たって、ゴツンと音をたてた。

 再び、自身の住む寮への道を走り出す。

「ニ……」

「……ん?」

 再び水を掻き分け出した足を、ぴたりと止める。……今、何か声がしたような。

 少女はきょろきょろと辺りを見渡した。雨で視界が悪く、薄暗い。人影はないようだった。

「……誰かいるんですか?」

 霧の中へ、一応声を掛けてみる。しかし、ザアザアという雨の無感情な音しか返事はなかった。

 少女はそこで立ち去るようなことはせず、顔つきを真剣なものへと変えた。そして、再び口を開く。今度は張り上げるように、声を大きくした。

「……どこか怪我をしているのですか? 私は『不可侵の医師団』の者です。どなたかいるのでしたら、近くのもので音をたてられませんか」

 雨の音が響く。少女は赤を咲かせながら、その場に突っ立って耳を澄まし続けた。しかし、一向に返事はなかった。

「……聞き間違いかな。今日この辺りで抗争があったって話もきいてないし……」

 少女は一人ごちた。降り続ける雨に、身体の熱も奪われ続けている。少し肌寒くなったことを意識し、少女は紙袋を抱える力を強めた。

 ……帰ろう。

 このまま突っ立っているわけにもいかない。白い靴を動かし、再び帰路へと足を踏み出した。その時、再びか細い声がきこえてきた。

「!」

 今度は聞き逃さなかった。小さな小さな声が聞こえてきた方へ、全力で駆け出す。バシャバシャと水溜まりを跳ね除け、角を曲がった。そこは、行き止まりだった。白い塀と飾りのついたフェンスを両脇に携えた、駐車場にすら使えないような狭いデッドスペースだった。目線を下ろすと、暗がりの隅に、一匹の三毛猫が横たわっていた。雨に全身を打ち付けられ、毛はボサボサ、赤黒く血に染まっている。その目は苦し気に閉じられていた。腹の上下は目を凝らしてやっと分かるという程小さく、生命の灯が消えそうなことは明白だった。

「大変……ッ!」

 少女は泥に塗れるのも厭わずしゃがみ込んだ。自身の傘の位置を調整し、猫を入れてやる。同時に、もう片方の腕に抱えていた紙袋がコンクリートへと落ちていった。中身がゴロゴロと路上に転がるのに見向きもせず、少女は口をきゅっと結んだ。猫をじっと観察し、空いた手でそっと猫へと触れた。

「まだ生きてる……?」

 少女はすぐさま治療を始めた。死の淵を彷徨っている者は、動物であれ行き倒れであれ皆治療対象だ。少女は救うことを躊躇ったりしない。それが自身の医療従事者としての信念だからだ。

「大丈夫だよ……頑張れ……!」

 目の前の患者に声を掛けながら、少女は必死に治療を続けた。

 暗い街に、雨が降り続ける。生死を彷徨う患者と、治療の手を止めない少女を嘲笑うかのようだった。




 厚い灰色の雲を掻き分けて、街に陽が差す。水溜まりに光が反射し、澄んだ空気が辺りに漂う。時折、軒先から雫が落ちて、濡れたコンクリートへと跳ねていった。

「ふう」

 少女は腕で自身の額を拭った。横には途中から投げ出された赤い傘、医療用水を入れていた容器、そしてびしょ濡れの紙袋と汚れた食材が散乱している。

 少女の前に横たわる三毛猫は、白い大きなガーゼを巻かれて目を閉じていた。少女は心配そうにそれを見下ろす。閉じられた目が開くことはなかった。しかし、僅かではあるが確かに身体がゆっくりと上下している。苦し気なものではない、緩慢な規則正しい動きだった。それを確認して、少女は張り詰めた顔を解き、微笑みを浮かべた。そして安堵と共にふと床へと視線を投げ、「あ!」と声をあげた。

「た、大変。頼まれてた食材が……」

 コンクリートの上に泥まみれで転がる食材の数々。慌てて拾い上げようとして、ボロ雑巾のようになっている紙袋に気付いて頭を抱えた。

「腕で抱えて帰りますか……」

 ため息交じりに肩を落としてから、横たわる猫へと振り返った。

「ごめんなさい、猫さん。一旦寮へ帰って、貴方を包めるタオルか入れられるもの、用意してきますね」

 治療済みとはいえ、大怪我を負った猫を不用意に抱えて、傷に障ってしまうのは怖かった。幸い、ここから寮まではそこまで遠くはない。必要な道具を取ってきて、また戻ろう。

 傘を拾い上げて閉じ、紙袋を摘まみ上げると、まとめて隅っこに置いた。空の容器を腰に装着したあと、床に散乱した泥だらけの食材を一つ一つ拾い上げ、腕へと抱えていく。じゃがいも、にんじん、たまねぎ、りんご、さつまいも、小松菜……。両手いっぱいに食材を抱え、最後にもう一度猫へと視線を落とした。猫はすやすやと眠っている。少女は優し気な笑みを零し、顔をあげた。遠くの空で、薄っすらと虹が掛かっていた。空には爽やかな青と白が戻ってきている。少女は泥だらけの白い靴を蹴り上げ、雨上がりの街を小走りで駆けて行ったのだった。




***





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