【レン】リックを抱き上げる
俺にすがりつき、涙を流しながら女王は言った。
「イリーナの病が重くなり、いよいよ死の淵をさまよい始めたら......。
そうなったら、大蛇の子どもの生き血を分けて欲しい」
女王は今は、低姿勢で俺に「お願い」をしている。
だが、イリーナさまが床に臥せれば、女王軍を動員して力ずくでリチャードを奪いに来るだろう。
(このことをアリッサに話さないといけない)
だが俺は、アリッサに言い出せずにいた。
(早く話さないといけないのは、分かっているんだけど)
俺の腕のなかで静かな寝息をたてているアリッサの髪をそっとなでた。
アリッサは一糸まとわぬ姿で、ぐっすり眠り込んでいる。
彼女の柔らかでしっとりした肌が吸い付くように自分の肌に密着して、心地いい。
安心しきったような寝顔だった。
アリッサには、この穏やかな顔でずっといて欲しい。
彼女を不安にさせるのは、なるべく避けたい。
俺は女王の「願い」をアリッサに話すことを、先延ばしにし続けていた。
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「リック、こっちにおいで。
がんばって」
アリッサが手を叩いてリチャードを呼び寄せる。
リチャードはふらふらしながら、ゆっくり立ち上がった。
そして両手をバンザイのように広げながら、歩き始める。
「もう歩けるようになったんだな」
俺は、懸命に歩くリックを見て驚いた。
「そうなの。
もうすぐ一歳になるものね」
「そうか......」
人間の赤子の成長は早いものだ。
リチャードの成長を見ていると人間の寿命がいかに短いものか......身にしみて感じるようになった。
俺とアリッサは、バルコニーに出て、朝食を取っていた。
そこに乳母と遊んでいたリックが「ハイハイ」してやってきたのだ。
「リック!こっちよ」
アリッサに呼ばれてリックはふらふらしながらも、ゆっくりと立ち上がったのだ。
アリッサは両手を広げて、よちよちと歩いてくるリチャードを抱きとめようとしている。
だがリックはなぜか、アリッサのほうへは歩いていかなかった。
俺に向かって一直線に歩いてきた。
「俺の方へ向かってくるな......」
「そ、そうね」
アリッサも戸惑っている。
今にも倒れそうになりながら、必死に俺の方へと向かってくるリック。
リックは俺の足元までくると、両手をバンザイして俺の顔を見上げた。
「......」
アリッサは気まずそうに俺の顔をみている。
そして
「リック、ママはこっちよ」
と上ずった声で言っている。
アリッサは、リックが大蛇との間に生まれた子どもであることを後ろめたく思っているようだった。
子どもの世話は乳母とアリッサの二人で行い、俺に手伝いを求めることはなかった。
もっとも、育児に父親が手出しするという風習は貴族には無いのだが。
アリッサに赤子をあやすように頼まれたことも、寝かしつけるように言われたことも、一切なかった。
(アリッサは、俺に遠慮している。
そんな必要はないのに......)
俺は足元で両手を広げて抱っこを要求するリックの目を見た。
灰色の目......そして輝くような銀髪。
俺にもアリッサにも似ていない。
大蛇のフィリップにそっくりだった。
「あぶー」
リックは、俺の目をじっと見つめ返した。
俺とリックの目がしっかりと合った。
そのとき、胸の中になにか温かいものが流れるのを感じた。
(なんだろう......この気持ち。
初めて感じる......)
「よし、抱っこしてやろう」
泣かれたらどうしよう。
そんな不安が大きかったが、思い切ってリックの方へと両手を伸ばす。
赤子の脇の下に手を入れて、ひょいと持ち上げた。
(軽い......それに柔らかいんだな)
アリッサは隣で不安そうな顔をしてみている。
「アブー、キャキャキャ」
リックは嬉しそうに笑った。
リックは俺の鼻を器用につまむと、喜んでいる。
「あ、だめよ、リック。
レンのお鼻が痛いわよ」
「大丈夫だ」
俺は食事中、ずっとリックを抱っこしていた。
乳母やアリッサが抱こうとしても、リックは俺にしがみついて離れなかったのだ。




