80 信仰告白
登場人物
・久保田友恵(トモちゃん)中一女子
・稲垣良美(ガッちゃん)久保田友恵の同級生でクリスチャン
・児玉くん 久保田友恵の同級生で稲垣良美の片想い相手
「お待たせ」とガッちゃんは隣りに座ったなり、紅茶も飲まずに話し始めた。
「じつはあたし、このあいだ洗礼を受けたの」
「〈洗礼を受けた〉って、なんかの試合でこっぴどくやられたりしたの?」
わたしが真顔でそう尋ねると、ガッちゃんは頭を抱えた。
「〈洗礼〉っていうのは、クリスチャンになる儀式のことを言うの」
「そうなんだ。じゃあ、ガッちゃんはクリスチャンになりたてホヤホヤなんだね」
「ちがうよ」
ガッちゃんはおだやかな声でそう言うと、もう一度ロザリオを上着の内ポケットから取り出した。今度はチラ見せではなく、右手でとても大事そうに握ったままでいる。
「あたしは生まれたときから教会に通っていたの。でも、普通は赤ちゃんのときに洗礼を受けるんだけど、あたしの親はそれをさせなかったの」
「なんで?」
「うちの親は、あんまり言わないけど、日本でクリスチャンとして生きていくのがけっこう大変だったみたいなの。いろいろ言われたりして。だからなにもわからない赤ちゃんを親の意思だけでクリスチャンにしたりはしたくなかったんだ、って言ってた」
「なるほどね。ガッちゃん家のほうが正しい気がする」
「そして自分の子どもには、もしクリスチャンになったら苦労するだろうということもわかった上で、なるかならないかを自分の意思で決めてほしかったんだ、って」
「いいご両親だね」
「うちはカトリックなんだけど、こういうのはとってもプロテスタント的な考え方だから、教会ではけっこう白い目で見られたみたい。だけどうちの親、あたしの何倍も頑固だから……」
わたしは吹き出した。ガッちゃんの何倍も頑固って、どんだけ頑固なんだろ?
「ガッちゃんのご両親、ちょっと遠くから眺めてみたい気がするよ」
「なんで遠くから?」
「鬼のように頑固なんでしょ」
「大丈夫だよ。勧誘とかまったくしないし。っていうか〈クリスチャンなんてなるんじゃないよ〉って会う人みんなに言ってるし」
「面白い人だね」
「頑固なんだ」
ガッちゃんは話を続けた。
「教会ではね、神が七日で世界を作ったとか、マリア様が処女懐胎したとか、イエス様は死んで三日後に復活したとか、そんな無茶苦茶なことを、信じます、って毎週言わされるの」
「ってことは、ガッちゃんは信じていないの?」
「信じるなんてムリだよ。絶対ムリ。世界を作ったのは神じゃなくビッグバンだし、処女懐胎なんて生物学的にありえないし、イエス様はただみじめに死んでいったの。まあそんなこと、教会じゃ怖くて口にできないけどね」
「じゃあ、ぜんぜん信者だって言えないじゃない」
「ちがうんだ」
ガッちゃんは視線を右手に下ろした。その右手の中でロザリオがころころと転がっている。
「自分が堅物だって、頑固者だって言われているのはわかってる。それはね、あたしにはもう、聖書にあるような考え方しかできなくなっているからなの」
「ごめん、あたし、聖書なんて開くどころか、見たことすらないんだ」
「キリスト教っていうのはね、強大なローマ帝国に支配された、砂漠で貧しく暮らす弱小民族の宗教なの。からっからに乾いた土地で、教えを信じた清らかな人たちがゴミのように次々と殉教していく教えなの」
「シビアだね」
「外敵もいなくて、裸踊りでぜんぶ丸く収まっちゃうような、豊かな自然の中で生まれた日本神道とはまるっきり違うんだ」
「そうなんだ。ぜんぜん知らなかったよ」
「そんな絶望しかない砂漠の中、互いに愛し合いましょう、神の国は近いのだから、とイエス様が命を捨てて仰り、たくさんの人がその言葉をすがるように信じた。それがあたしにとってのキリスト教。そしてあたしはそれを正しいと思った──いや、ちがうな」
「正しいと思わないの?」
「気づくとあたしは、イエス様に追いすがる人たちの一人になっていたんだ。正しいとか正しくないとかじゃない。理屈抜きにそうなっちゃってたんだ。心がクサクサした夜は自然と聖書を開いちゃうし。そうすると心が落ち着くんだ」
「ふうん」
「だから、あたしの場合は〈信じる〉とかじゃなくて〈そうなっちゃっていた〉って言ったほうがしっくりくるかな。そのことが、もう言い逃れできないほどはっきりわかったから、あたしは自分の意思で洗礼を受けてきたんだ」
「そうなんだ」
「そして毎年十二月は聖書しか読まないって決めているから、図書室には行かないの」
「もしかして、クリスマスだから?」
「そう」
けっきょくガッちゃんは陽がとっぷり暮れるまで楽しそうに話し続けた。
キリスト教といえば結婚式場のインチキ牧師のイメージがすべてだったわたしには、ガッちゃんの言っていることはほとんど何もわからなかった。しかしガッちゃんが今まで見たことのないような晴れやかな顔で嬉々として話すので、わたしはその様子をただ眺めているだけでとてもしあわせで、退屈なんかぜんぜんしなかった。
「けっきょく児玉くんのこと何にも話さなかったね」とわたしは帰り際に言った。
「あっ!」
「あたしもちょっと考えてみるよ」
わたしは心からそう口にした。こんなわたしでも人助けをしてみたくなったのだ。
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