8 エラ・フィッツジェラルド
登場人物
・柊響(ひびきちゃん)中一女子
・早川智子(チーちゃん)中三女子
・早川貴子(キーちゃん)高三女子で早川智子の姉
放課後。
「おう平木、今日はなんだ?」
「柊です。もう、わざとですよね」
「バレたか。アハハハ」
「キーちゃんのことなんですけど」
「お、ついにお前も〈キーちゃん〉って言えるようになったか?」
「ご本人にLINEで許可をもらいました」
「そうか。キーちゃん、内気で友だち少ないから喜ぶぞ」
わたしたちは神通川沿いをゆっくり歩いた。
文化祭が終わって秋はぐっと深まった。
富山の空は雲が重く垂れ込め、もう春がくるまでめったに晴れることはない。
まるで受験生の心のように。
知らんけど。
わたしは、キーちゃんは歌の幅をもっと広げるべきだ、と主張した。
そうしないとキーちゃんは〈湯川潮音に似ている人〉で終わってしまう、というのはいくらなんでも、と思って口にはしなかった。
「あたりさわりのない歌だけでなく、もっと攻めないと、注目されないと思うんです」
「〈あたりさわりのない歌〉って、あのCDのことだよな。あれはな、著作権料が発生しない歌を選んだだけなんだ」
「そうだったんですか」
「ただなあ……」
そう何かを言いかけて、チーちゃんは浮かない顔をした。
「柊」
「はい」
「お前、そんなキリリと引き締まった顔をしやがって。なんか考えがあるんだろ。言ってみな」
チーちゃんは察しがいい。わたしはそんな頭のいいチーちゃんが大好きだ。
わたしはカバンからワイヤレスイヤホンを取り出し、チーちゃんに渡した。
「キーちゃんに、この曲を歌ってほしいんです」
わたしはスマホのプレイボタンを押した。
It don't mean a thing (スウィングしなけりゃ意味がない)──歌うのはエラ・フィッツジェラルド。
父さん曰く、エラという人は、孤児でホームレスでギャングの下働きというヒサンな境遇から、天性の陽気なノリノリの歌声だけでジャズボーカル界の頂点に登り詰めたという、とてつもないおばちゃんだ。
しかし、そんな能書なんかエラの歌にはぜんぜんいらない。
聴けばわかる。
小さな子どもでも。
歌唱力だけなら、ジェームス・ブラウンでもかなわないとわたしは思う。
「……圧倒的だな」
「はい、圧倒的です」
「で、これを、キーちゃんに歌えっていうのか?」
「そうです。難易度は激ムズですが、キーちゃんなら音程はとれるハズです」
するとチーちゃんは頭を抱えて言った。
「あのさ、音程はとれても、キーちゃんはこんなにノリノリに張っちゃけたりできないぞ」
「やってみないとわかりませんよ」
「いいや、無理だね。だいいち、ちっともキーちゃんらしくない」
チーちゃんはワイヤレスイヤホンを耳から外してわたしに返そうとした。
チーちゃんは男子のようなしゃべりかたをするくせに、その手がとても小さく、華奢で、爪なんか小さすぎてまるで小学生みたいだったので、わたしは誘惑に負けてその手にわたしの手を重ねた。
「おい、なんだよ」
「チーちゃんは、小島麻由美がものすごくシャイな人だって知ってますか」
「ああ。ライブ映像じゃいつも棒立ちだ。〈早く家に帰りたい〉って顔して歌ってる」
「しかし、音楽は全然おとなしくないです」
「ああ」
「むしろ、傲慢ですらある」
「いい意味でな」
「チーちゃんみたいに」
チーちゃんがわたしのこめかみをグーでぐりぐりした。わたしは、痛いです、とウソを言いながら、背中を丸め、チーちゃんの平たい胸に顔を近づけた。ほのかに甘いような、汗臭いような、いい匂いがした。
チーちゃんがふいに手を離した。
「あー、そっか」
※ エラ・フィッツジェラルドの「It don't mean a thing (スウィングしなけりゃ意味がない)」はこちらで聴けます。https://www.youtube.com/watch?v=GGesQyNTwIo
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