59 前進
登場人物
・柊響(ひびきちゃん)中一女子
・バンド〈デッド・ムーン〉メンバー
・りさりさ(式波里砂)(クール担当、ベース)
・えりな(谷絵里奈)(顔面担当、ドラム)
・ホリー(堀井千代子)(びびり担当、ギター)
「ホリーはどうなの?」と私は尋ねた。
「え? どうって……」
「ひびきちゃんなんか現れなかったらよかったのに、ってホリーは思わないの?」
私がそう言い終えると同時に、
「りさりさッ!」
えりなが両手で机をバン!と叩き、ものすごい剣幕で怒鳴った。
「今度そんなこと言ったら張り倒すからな!」
弟の岳が最悪のタイミングで紅茶を持って入ってきた。
「姉ちゃん」
「お、ありがと」
「じゃ」
「ああ」
おしゃべりの岳は何も訊かずに二階の自室へ引っ込んでいった。
私は少し震える手でティーポットを持ち、三つのティーカップへ、こぼさないよう慎重に紅茶を注ぐ。
そして二人の前に無言でカップをそっと置く。
なのに、こんなときですらオレンジペコの香りは芳しい。
あまりに場違いな、力強い高貴な香り──。
えりなは懸命に怒りを鎮めようとしている。ホリーは動揺して目が泳いでいる。
私たちは義務のように無言で紅茶をすすった。
「ごめんよ」
私のせいで重苦しい空気にしてしまった。
えりながあんなに怒るなんて思いもしなかったんだ。
「えりなはひびきちゃんのことが好きだったんだね」
私がそう言うと、えりなは私をキッと睨んだ。
「あーもう、もう、もう、もう!」
えりなが顔を歪め、髪をかきむしる。
「りさりさの……」
えりなはそこで口をきゅっと閉じると、立ち上がって
「ちょっとお庭を見てくる!」
と言い放ち、部屋を出ていった。
私はどうしたらいいのかさっぱり分からないまま、ただじっと座ってえりなの背中をむなしく目で追った。
「ねえ」とホリーが声をかけた。「紅茶おいしいね。ティーバッグとはぜんぜん違う」
「ごめん……」
「岳ちんにあとでお礼言っといて」
「うん、わかった」
「りさりさ」
ホリーは優しい声で私の名前を呼んだ。
「えりなちゃんはね、最近とってもいい人なの」
最近?
「あたしたちが後ろを向いてると、今は前だけ見ろ、って本気で怒ってくれるの」
ああ、だから怒ってたのか。
〈好き〉とか〈嫌い〉でしか物事を考えられない自分の間抜けさをホリーに見られて、私は心底恥ずかしかった。
〈ひびきちゃんなんか現れなかったら〉なんて考えても、ひびきちゃんが現れた過去は変えられない。文化祭以前の私たちを美化しても不毛なだけだ。今の私たちは、美化された過去へ後退するのではなく、危うくなった現在から前進しないといけないのだ。
とくに私は、なんとしてでも。
「もしかして、ホリーも怒られたの?」
私は尋ねてみた。
「うん、そうだよ」
ホリーは明るくそう言った。
「もう吹っ切れたの?」
「ぜんぜん。だからあんまり触れないでほしいんだ」
「……ごめん」
「りさりさ」
そう言ってホリーは私の肩をポンポンと叩いた。
「あたしはりさりさが大好き」
「あたしもホリーが好きだよ」
「だから絶対に一緒の高校に行きたい。別々の高校なんて絶対に嫌だ。もしそんなことになったら、あたしはりさりさを絶対に許さない」
「がんばるよ」
「がんばるのは当たり前よ。ただがんばるだけじゃなくて、りさりさには成績を上げる義務があるの。その義務を果たすためには手段を選んじゃダメ。好きとか嫌いとか、そんな寝言を言ってちゃダメ」
「うん」
「お願い、成績を上げて。一緒にいたいの」
「あたしも一緒にいたいよ」
ホリーは右手を、ベースの弾きすぎでタコだらけの私の左手に重ねた。
「えりなちゃんが戻ったら、考えを聞かせてほしい」
このとき、私には確かにホリーが輝いて見えた。この人にはもう、恥ずかしい自分を見られたくない。
「うん、わかった」
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