163 へえ
登場人物
・久保田友恵(トモちゃん)中一女子
・稲垣良美(ガッちゃん)久保田友恵の同級生でクリスチャン
・児玉くん 久保田友恵の同級生で稲垣良美の片想い相手
・畠中祐生(ハタケ)久保田友恵のとなりの席のチャラい水泳部員
・安倍晶(あーちゃん)久保田友恵の同級生で陽キャの美術部員
・川上風美(ふみちゃん)久保田友恵の同級生で陰キャの美術部員
「へえ、稲垣さん、聖書に詳しいんだ」と児玉くんが軽く言う。それはまるで〈キャプテン翼に詳しいんだ〉くらいの軽さだった。
それにたいしガッちゃんはただ、
「あ……」
と、ため息のような、うめきのような、そんな消えそうな声が口から漏れるだけだった。
たんにガッちゃんが謙遜しているだけだと思ったのか、あーちゃんが代わりに
「ホントにすごいんだから!」
と余計なことを言う。
たまらずふみちゃんがあーちゃんを肘で小さく小突く。
えっ、とおどろいたあーちゃんは横を見て、ふみちゃんが眉をひそめているのに気づく。そしてようやく〈おおっぴらに言わない〉という約束を思い出したのか、急にしゅんとしおらしくなった。
「へえ」と児玉くんが言う。
そしてあーちゃんからガッちゃんのほうへ再び目を移し、上から見下ろす。気まずくなったガッちゃんはうつむいてその視線を避ける。
みんなはガッちゃんが、信仰のことをあーちゃんにほとんどバラされてしまって動揺しているのだと思っている。そして〈かわいそうに〉とは感じていても、黙って見守るほかはなにもできないでいる。わたしもそうだ。
「稲垣さんってクリスチャンなの?」
児玉くんがついにそう尋ねる。
児玉くんでなくとも、誰だってそう思うし、訊きたくなるだろう。
わたしはガッちゃんを凝視する。
ガッちゃんは顔を上げ、口を半開きにしたまま、小さく、小さくうなずいた。
「へえ」
児玉くんはかすかに笑みを浮かべ、依然ガッちゃんを見下ろしている。
これは拒絶の冷笑じゃなくて、関心を持っている相づち、そして好意の笑顔なんだよ──わたしは動転するガッちゃんにそう伝えたかった。
しかしガッちゃんは児玉くんの圧に耐えきれずにこう呟いた。
「……気持ち悪い、よね」
「えっ? なんで?」と児玉くんが少しおどろく。
そしておもむろにしゃがんで両手をハタケの机の上に置き、手の甲にあごを乗せて親しげにこう言った。
「メッシもネイマールも、ものすごく敬虔なクリスチャンなんだし、気持ち悪いわけないじゃん」
綱引きの綱は、両側からものすごい力で引っ張られると、結果として止まって見える。ガッちゃんの心の中でもきっと今、驚きと喜びがものすごい強さで引き合っていて、だから結果として固まったような無表情になっているのだろう。
児玉くんは続けた。
「メッシもネイマールも〈どうだ、オレうまいだろ〉なんて自慢したりは絶対にしないんだ。そうじゃなくて〈この才能を与えてくれた神に感謝します〉ってただただ謙虚に祈りを捧げるんだよ。どっちがカッコいいかなんて明らかだよね」
ガッちゃんがひどくうつむいたまま「ちょっとトイレ」と立ち上がった。ぜったいに誰にも顔を見られたくない、といった様子だった。
「あ、あたしもトイレ」とわたしも立ち上がった。
「なんで女子ってさー、いっしょにトイレに行きたがるんだろーねー?」とハタケがヘラヘラと言った。その一言で場の緊張感が一気に和らいだ。
「いーじゃん別に」とあーちゃんが言う。「あたしも行こーっと」
しかしふみちゃんはあーちゃんの袖口を引っ張って、無言であーちゃんを制止してくれた。
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