11 It don't mean a thing (スウィングしなけりゃ意味がない)
登場人物
・柊響(ひびきちゃん)中一女子
・早川貴子(キーちゃん)高三女子で早川智子の姉
・先生 音大声楽科の研究生で早川貴子のボイストレーニングの先生
「心を歌に乗せられるようにしてほしいんです」とわたしは先生に頼んだ。
「心?」
「クラシックの世界ではそういうの、〈解釈〉って言うんですかね?」
「違うね。〈解釈〉っていうのは作曲者の意図を考えることだよ。クラシックの世界では作曲者は神様だから。でもポピュラーソングの作曲者はべつに神様なんかじゃないから、各自好きなように歌えばいい」
「じゃあ、その〈好き〉っていう感情があたしの言ってる〈心〉です」
「ふーん、なるほど、ね」
先生はニンマリして言った。
「『なるほど』って、どういうことでしょうか?」
キーちゃんが不安げに尋ねる。
「私の歌には心がないのでしょうか?」
「ほら、そういうところだよ」と先生は言った。
「早川さん、この子は耳がいいようだね。小さい頃からいい音楽をたくさん聴いて育ったんだろう」
わたしはあんなに先生の悪口を言ったのに、かんたんに褒められてしまった。
「〈心〉っていうか、〈この曲のこういうところが好き〉っていうのは誰にでもあるんだよ。そうでしょ」
「はい」
「だから〈好き〉の数だけ歌い方もある。でも、歌うときは一通りでしか歌えない。じゃあどうするか? 自分の思うがままに歌うか? あるいは最大公約数的な無難な歌い方をするか?」
「……」
「はっきり言うとね、早川さん」
「はい」
「あなたは歌にブレーキをかけている」
「……たしかに歌い方については、無難なほうへ逃げていたかもしれません」
「いや、責めているんじゃないよ。あたしは今、ものすごくレベルの高い話をしているの。だから気を悪くしないでね」
「……はい」
「ボイトレを頑張って、『エンダァァァ』が上手くなれば、九割以上の観客は騙せるようになるよ。でもそんなのはマニュアル通りに対応するファストフードのアルバイトと本質的になにも変わらない。そこに他ならぬ早川さんが歌うことの意味はなんにもない。わかる?」
「……ええ」
「この子みたいに耳のいい観客も満足させるには、ブレーキをかけちゃダメ」
「あの、ブレーキをかけながら歌っているという感覚は、自分ではないんですが……」
「それは自分ではわからない。でも他人なら、わかる人はわかる。どう? いっしょにがんばってみる?」
「ぜひお願いします!」
ボイストレーニングのレッスン時間は過ぎていたが、わたしたちは無理を言って先生に残ってもらった。
わたしは先生に代わりキーボードの前に座った。
「先生、聴いてください」とキーちゃんは言った。
キーちゃんがわたしを見て小さく頷く。
わたしはGマイナーの位置に指を置く。
♪ It don't mean a thing (意味がないね)
If it ain't got that swing (スウィングしなけりゃ)
doo wah, doo wah, doo wah, doo wah, ……
はじめて聴くキーちゃんの甘いスキャットは悩殺的ですらあった。わたしはピアノを弾きながら、あらためてキーちゃんをどうにかしてやりたいと思ってしまった。
演奏を終えると先生が拍手してくれた。
「まだ曲に歌わされている感じはあるけど、けっこういいんじゃない?」
「どのへんがよかったですか?」とわたしは尋ねた。
「あんまりブレーキがかかってないところね。たぶんあなたが伴奏してたからよ」
「えへへ」
「あんた、ミスタッチだらけで下手くそだったけど、いい表情をして弾いていた」
そりゃそうだ。あんなことや、こんなことを妄想していたのだから。
「ノってたよ。だから早川さんもリラックスして歌えたんだろう。どうかな?」
「はい!」
キーちゃんは今日一番いい表情で短くそう言った。
そうか、リラックスか。
そりゃあ、あのCDの演奏者はみんなキーちゃんよりずっと年上だろうし、固くなって当たり前だ。でも本気でプロになるのなら、そんな甘い言い訳は通用しないんだよなあ。
キーちゃんとわたしは先生に手を振って見送った。
「ひびきちゃん。今日は来てくれてありがとう」
「え? ありがたいんですか?」
わたしが真面目にそう言うと、キーちゃんは吹き出した。
「ええ、ありがたいわよ」
「じゃあ、またハグさせてくださいよ」
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