10 ボイトレ
登場人物
・柊響(ひびきちゃん)中一女子
・早川貴子(キーちゃん)高三女子で早川智子の姉
文化祭のこともみんな忘れかけた十月半ばの土曜日。
わたしはキーちゃんに招待されて、ボイストレーニングに少しだけお邪魔させてもらった。
場所は軽音向けレンタルスタジオの小さな一室。ローランドのキーボードとドラムセット、そして年季の入ったマーシャルのアンプがいくつか置いてある。
先生は音大大学院の若い女性で、マツコ・デラックスのようにバカでかい。ともに小柄なわたしとキーちゃんがいっしょに抱きついてトトロごっこができそうなほどでかい。
そして、その特大ソーセージのような太い指で器用にキーボードを奏でている。
わたしはドラムの椅子に座って二人を眺めている。
Tシャツにゴムパン姿のキーちゃんは首にタオルをかけ、かれこれ二〇分も「エンダァァァ」のサビ部分を歌い続けている。
音程を変え、スピードを変え、泣いたり笑ったりと情感を変え、ひたすら「エンダァァァ」。
そしてキーちゃんが喉から声を出すと、すかさず先生がそれを指摘する。
「ほらほら、お腹から──エンダァァァ!!」
わたしはこらえきれずにゲラゲラ笑ってしまった。
「あなた、なにがおかしいの!」と先生はわたしをたしなめた。
「だって、声がデカければいいってもんじゃないですよね。キーちゃんはマイクを持って歌うんですよ。オペラとは違うんですよ」
「あなたねえ、ボイトレってのは表現力の訓練じゃないの。歌の筋トレなの。全然わかってないでしょ」
「ええ、全然わかってないです。でもね、アスリートは筋トレをやり過ぎると逆に体が動かなくなる、っていうことくらいなら知ってますよ」
「ああ全くクソ生意気なお子ちゃまだね。人は無知なほど自信過剰になるって言うけど、それが今のあんただよ。こんな数十分のボイトレなんて、あたしらがやってる訓練に比べたらアリンコの涙だよ」
「違います! 断じて違います!」
「何が?」
「キーちゃんの一番の魅力は儚げなとこなんです。それは、ガンガン筋トレやって先生みたいに自信満々になっちゃったら失われてしまうものなんです。……いいえ、筋肉の鎧が、儚さを閉じ込めてしまうんです」
「それじゃあ、まるであたしが恥知らずみたいじゃない」
「先生のことはどうでもいいんです。本当にどうでもいいんです」
「ちょっと、ひびきちゃん!」
キーちゃんが声を上げた。
「もういいにしようよ。先生すみません。この子、ものすごく猪突猛進なんですけど、根はいい子なんです。許してやってください」
「先生お願いします」
「ちょっと、なんであんたがお願いすんのよ?」
「先生がたとえばアイーダ(※)を演じるとき、先生は楽譜だけではなく、奴隷となった若い王女の心情を理解しようとするはずです」
「あんた、子どものくせにアイーダなんてよく知ってるね」
「あたしのことはどうでもいいんです。本当にどうでもいいんです」
「〈キーちゃん〉がすべてなんだね」
「そのとおりです。だから先生にお願いがあるんです」
「なんだい? 言ってみな」
※アイーダ:ヴェルディのオペラ「アイーダ」の主役であるエチオピアの王女。敵国エジプトに奴隷として囚われている。
※ 「エンダァァァ」は(言うまでもないかもしれませんが)Whitney Houston の「I Will Always Love You」(1992)という歌のことです。こちらで聴けます。https://www.youtube.com/watch?v=3JWTaaS7LdU
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