犬の喜びを知る
湿り気を帯びた土の匂い、草木の青々しさ。身体を撫でる優しい風に目が醒めた。木々の間からの木漏れ日に目を細める。完全にここは森か林の中だ。コンクリートばかりの中から一転した世界に、本当に生まれ変わったのだと理解した。
「にしても何でこんな所なのかな。捨て子スタートなの? 生まれ変わるなら高望みはしないし、普通の一般家庭に……産まれ……?」
起き上がろうとしたのだが、明らかにおかしい。目線の高さが人間とは思えなかった。そして、地面に向けた際に見た手足が、獣のそれだった。
「……!?!?!?!?」
人間の手では無く明らかに毛深くそして肉球が有る。まさかと思い視線を向けると真っ白なふさふさの尻尾が付いている。
「……完全に犬!!!」
勢いに任せ尻尾に噛み付きぐるぐると回った。
(あぁ、意外と楽しいなこれ)
暫く廻って居たが飽きた所で止まり、冷静になって座った。犬の加護がとか恩恵だとか言って居たが、まさか自分が犬になるとは思って居なかった。確かにあの人は人間に生まれ変わるとは言って居ない。何に生まれ変わるのかは選べないのだろう。それに今更文句を言っても無駄な事は明白だった。
「犬かぁ。犬種は何だろうなぁ。白いしサモエドとか? 大きいからグレートピレニーズの可能性も? いやそれは別に問題じゃ無いか。犬でどうやって生活する? 俺犬の食べ物食えるの? ドックフードって美味しいんだろうか……それならいっその事人間の記憶要らなかったなぁ。どうしよっかなぁ。取り敢えず飼って貰えそうな人間とかに会いたいけど……でも普通に犬食文化有りだったら詰むのでは? 生まれ変わって即死は勘弁して欲しいんだけど。取り敢えず……喉乾いた」
立ち上がり背伸びと身震いをしとぼとぼと歩き始め、犬の嗅覚と聴覚を頼りに水場へ向かった。人間の時よりも音や匂い全てが鮮明だ。木々を抜けると小川を見付ける事が出来、水面に映る自分の姿に改めて溜め息を吐く。
「……めっちゃ美形の白い犬じゃん……いや、犬っていうより狼っぽい、か? 何にしろ何で人に生れなかったんだよお前……人だったら凄いモテたんだろうなぁ。はぁ……え、何これ水うんま」
がぶ飲みの言葉を体現するかの様に水を飲んだ。満足した後辺りを見回したが、何か有る訳でも無く、これからどうするべきなのか道を示す物も無い。生きて行く為に必要な水はここを使えば良いとして、問題は腹ごしらえだった。
「うーん……探索してみるか」
匂いを嗅ぎつつ、食べられそうな物を探して居ると洞窟を見付けた。嗅覚と聴覚をフル回転させたが中からは特に危険そうな気配は感じられなかった。意を決して中へ足を踏み入れる。
「そう言えばお手とか言うけど、犬って手は無いよな。前足後ろ足だもんな」
どうでも良い事を考えつつ所々匂いを嗅ぎ進んで行くと急に辺りの空気が重くなり寒気がした。思わず身構え唸ると、どこからか笑う声が聞こえた。
「これはまた珍妙な者が現れたな」
「あ? んだとこら!」
「ふふ、可愛い姿で吠え様とも無駄な事よ」
「出て来い! 白くてふわふわで誰しもが美形だと言うこの姿が珍妙だと!? 許さん!! 俺だって犬になるとは思わなかったんだからな!!」
「……ほう?」
目の前に現れた青い炎が次第に大きくなり、自分まで飲み込まれるのではと思った瞬間炎は消え、そこに一人の黒髪の少女が現れた。丸裸でだ。
「……ぐるる」
「ふふ……可愛いのう」
「あ?」
「まあ待て。そう警戒するでない。十中八九我とお主は同胞じゃろうからな」
「いや、お前どう見ても犬じゃ無いだろ。からかってんの? なら俺もう行くけど。腹減ってるし」
「ふむ。ならばこれをやろう」
手を叩いた少女の前に、生肉が現れ浮いていた。新鮮でとても美味しそうな肉だ。
「でもなぁ……生かぁ」
「ん? 焼いた方が良いか。ならば……」
もう一叩きすると一瞬にして生肉から良い塩梅に焼けた肉の塊になった。匂いに釣られ僅かに歩み寄ってしまい慌てて後退りした。
「遠慮は要らぬぞ」
「知らない人から物を貰っちゃ駄目って小さい頃からの教えなんで」
「……尻尾は正直なのにのう」
「くっ……」
ふさふさの美しい尻尾は大きく振られて居た。どうやら気を付けないと正直に答えが出てしまうらしい。
「別に取って食ったりはせぬ。ただ我の話し相手になって欲しい。こうして生き物が来るのは久しいからの」
「……殺さない?」
「襲わないし殺さない。神に、誓って」
若干含みを持たせた言い方では有るが、鼻を擽る焼けた肉の匂いに負け警戒しつつ近寄った。中に浮く肉を念入りに嗅ぎ、食べられると判断した後一齧りした。口に広がる肉汁と旨み。この世にこんな美味い物が有るのかと、頭が破裂しそうだった。
歯止めが効かず貪る様に食らい尽くしたが、その間少女は何もせず微笑ましそうに俺を眺めていた。全て食べ切った頃合いを見計らって少女が口を開く。
「美味かったか?」
「……美味かった」
「そうか。それは良かった」
「……お前人間……だよな? 犬の言葉解るのか? 何で手を叩いただけで肉が出てくるんだ?」
「……我の話に付き合って貰おうか。お主は転生者じゃろ? 我もそれなのじゃよ。力が有るからお主の言葉も理解出来る」
「……人間の女に生まれ変わってしかも手を叩くだけで食い物を出せる奴に生まれ変われるとか勝ち組だな」
「勝ち組、のう……」
遠くを見た少女は地面に降り立ちその場へ座った。害は無さそうな為近くに寄り座る。話を聞くと少女も別の世界から来た転生者だった。その世界は魔法が有る世界だったが、少女は魔力という物を持たずして生まれ不遇の扱いを受け、その後、謂われの無い疑いにより火炙りにされ処刑されたと語った。
生まれ変わる事が有るのなら、誰にも負けない力を持ち強くなり周りを見返したいと強く強く願った。そしてこの世界に膨大な力を持って転生した。
「……死に方はあれだが、願いが叶って良かったんじゃないか」
「そうじゃの。じゃが、その力が膨大故に、我はここに封じられた」
「え、封印されてる? 何で?」
「双子で産まれた我は黒髪で魔力も多く異質だった。我の存在は隠され育てられたが、隠しきれないと考えた者がここに我を置き去りにし、封印した」
俄に信じられない事を聞いて居るが、少女の様子から嘘を言って居る様には思えなかった。
「まぁ、力があったからここまで生き長らえる事が出来ては居たのだがの、もう……一人は嫌なのじゃ。だがそこへお主が現れた。最後に話をする事が出来て良かった。感謝するぞ」
俺の頭に手をやり愛おしく撫でる少女の目には光る物が見えた。俺は昔から捨て犬を見付けては拾い育て、新たな飼い主を探して来た。今まさに捨てられた犬、では無いが人間の子供ならば尚更放っては置けない。
「迷子の犬に餌を与えたんだ。最後まで面倒見ろよ」
「?」
「手を差し伸べた者には責任が生まれる。お前は俺の面倒を見る責任が有る。解るな?」
「……ふふ。お主が言う台詞かの」
「だって俺犬なんで。幾ら美形でも所詮犬なんで。ただの犬には何も出来ないんで」
「ふむ……」
俺の頬に手を当てた少女は目を瞑った。何かされるのかと思ったが、次第に心臓の当たりが暖かくなって来た。
「お主には魔力が有る。それも我と同じ程の。まぁ我の様に何でも出来る、とまでは行かないにしても何かしらの魔法は使えるはずじゃ」
「魔法? 魔力? 俺の世界には無い物だな」
「そうなのか。ならば今試しに何かやってみるか。そうじゃのう……火を吹いてみよ」
「出来るか!」
「物は試しよ。頭に火を吐く姿を想像するのじゃ。そしてそれを放つんじゃ」
「絶対無理だからな」
無理と言いつつも頭で犬の姿の俺が口から火を吐くイメージをする。すると徐々に何かが口に集まり始めた。今までに感じた事の無い感覚に思わず口を開くと、そこから炎が飛び出した。
「おお! 出たではないか!」
「!?」
喜ぶ女とは対照的に、驚きと困惑でパニックになりそうな俺は未だに吐き続ける炎をどうすれば止まるのか、走り回りながら必死に考えていた。
「炎が消える想像をするんじゃ。流れている魔力を断ち切ると、魔法も消える」
立ち止まり口を閉じるがそれでも炎は溢れ出ている。魔力はきっとあの味わった事の無い感覚の物だろう。あれを断ち切る様なイメージをして行くと、炎は次第に消えて行った。
「……怖かった……一生消えないかと思った」
「身体に疲れは無いか?」
「今の所は全く」
「ふむ。ならば次は口から水じゃ」
「それ、何か、飲み過ぎて吐いてる人みたいでちょっと……」
「大丈夫じゃ。実際は口の中に展開された魔法陣から魔法が放たれて居るだけだからの」
「そういう問題じゃないんだけどな」
水を吐き出すイメージをすると、同じ様な感覚が来た為岩に向けて口を開き放った。勢い良く放たれた水は岩を粉後に砕く程の威力だった。口を閉じ魔力を断ち切るイメージをして魔法を止めると、少女は凄いと喜び俺の頭を嬉しそうに撫でた。それがとても心地良くされるがまま撫でられ続けた。
「なあ、試してみたい事があるんだが、何か起きたら助けてくれるか?」
「うむ。任せるのじゃ」
少女から少し離れた場所で試してみるのは、氷や雷など他の物も行けるのかどうかだった。凍てつく寒さと雪や氷をイメージしながら放つと、結晶が輝き白い息と共に放たれたそれは辺りを凍らせて行った。慌てて止め少女を見たが、寒がる所か目を輝かせ手を叩き喜びつつも褒めてくれた。
(どうでも良いけど、何で服着ないんだ?)
そして同じ様に口から雷を放つイメージをして口を開くと、稲妻の光が一瞬で放たれ爆音と共に土埃が舞った。どうやらイメージさえすれば何とか魔法は放てるらしい。少女は次に身体能力の強化を教えてくれた。身体全体もしくは部位に力が集まるイメージをすると、通常よりも強くなる事が出来る。
試しに四本の脚に力が集まる様にイメージすると僅かに光を帯びた。その状態で駆け出したが嘘の様に身体が軽く、そして飛ぶ様に走っていた。負担は一切無い。余りの楽しさに無我夢中で駆け回り、ふと思い出した少女の元へ向かい止まった。女は笑顔で俺の頭を揉みくちゃに撫でた。
(撫でられる事が好きな犬が多い理由が、何となく分かった気がする)
それから色々な魔法を教えて貰いながら、この世界の事を聞いた。この世界には魔法が存在し、魔族と人種とで争いが耐えない世界らしい。犬という種族は存在しないが、似たような魔物は居る事。そして魔力の低い者にはほぼ人権が無い事を教わった。
「何かつまらなそうな世界だな。まぁ俺犬だから関係無いけど」
「いいや、お主にも関係する話じゃ。我は人種、そしてお主は魔族側としての地位が必要となる」
「へぇ。地位ってどうやって貰うんだ?」
「簡単に言えば強き物を倒し配下にして行く。そうして登り詰め地位を確立して行くのじゃ。我こそ関係の無い話じゃがの」
「……いや。お前は俺の面倒を見る責任を取る為にも、地位は必要だ。ここは嫌では無いが、もう少し広い方が嬉しい。もし人種で無理ならば魔族側に付けば良いだろ。俺の配下とか言えば迎え入れてくれるんじゃないか?」
少女を包む様に背後に横たわり見上げると、小さく息を吐き俺へよし掛かった。
「お主はやはり珍妙な奴じゃ」
「は?」
「まぁ、どうせ朽ち果てる身じゃ。我が同胞に付き合ってやろうかの」
「当たり前だ」
欠伸を一つするとゆっくりと瞼を閉じた。少女もそのまま俺の身体に身を預けた為、身体が冷え無い様に尻尾で覆い被し、俺達は眠りに就いた。