君との道行
気晴らしに書いた話です。雰囲気で読んでください。
社会人×高校生
町のどこに居ても海の香りがした。内陸部で育った山岸葵はそれがひどく物珍しく感じた。
長期の出向で二日前にこの海沿いの街へと越してきた葵。その少し女性を連想させる名前とは裏腹に、がっしりとした体格の男である。短髪で目つきも鋭く、若干の近寄りづらさのある男だ。
某大手銀行に勤める銀行員なのだが、あまりそうはみられることはなかった。そして現在取引先の企業への出向は初めてで少し緊張していた。
そんな葵は当面暮らす予定の会社の用意したアパートへの引っ越しや、新しい勤め先の上司への挨拶も終わり、真っ白なジャージを着てジョギングに出ていた。
空も薄暗くなり始めた夕暮れ。三月の終わりでまだ肌寒い季節であったが、葵は気にすることなく海岸沿いを走っていた。普段は早朝走るのだが、昨日の引っ越しの疲れで果てていた葵は夕方に走ることにしたのだ。
「おお、海だ海だ」
まだ寒い時期のせいか時間のせいか葵には判断つかなかったが、目の前に広がる海にはサーファーの一人もいない。
砂浜には数段の階段を下りることができる海岸沿いにコンクリートで作られた道。岬のようにせり出した岩場で途切れているそこで立ち止まり、葵はゆっくりと背伸びをした。
深々と息を吸うと潮の香りがする冷たい空気が肺をいっぱいにする。
「はあ……ジョギングコースはここでいいな」
道幅は八メートルほどでほとんど車はこない。冬は寒いかもしれないがジョギングにはちょうどよい場所だった。海岸の反対側は民家や民宿、食事処が並んでいて、道の終わりは大きな駐車場になっている。
そしてその奥。ちょうど岬のようになっている鳥居が立っているのが葵の目にとまった。岬の頂上に神社自体はあるらしい。下には社務所があった。
「荒潮神社か。まんまだな」
まさに海のそばにある神社の名前だなと葵はふっとわらった。神社の長い階段見上げ、葵は周囲を見渡した。それなりに人通りはあるがだれも神社に意識を向けるものはいない。
そばに併設された社務所はしまっている。営業時間は五時までと書いてあった。
その社務所の後ろにそれなりに大きな家があった。この神社の宮司一家が住んでいるのだろうと葵は思った。
「行ってみるか」
手水で口と手をすすぎ、葵はゆっくりと階段を上り始めた。あまり落ち葉なども落ちておらず滑る心配はないが、駆け上がるほどの元気はない。
「ついたついた」
登り切った階段を見下ろすと、下から見た時よりもずっと高さがあるように見えた。ここからなら街が一望できるかと思ったがしかし木々に邪魔されてあまり眺めはよくなかった。
肩をすくめて神社の前に立つ葵。財布を取り出し小銭を確認するとちょうど五円玉が一枚ある。
「ラッキー」
その五円玉を賽銭箱に入れからからと鐘をならした。そしてパンパンと手を鳴らして葵は目を閉じて頭をさげた。
(えーと、ここの神様がどなたかしりませんがこの街に引っ越してきたものです。よろしくお願いします。作法なんかは見逃してもらえると助かります。あとは、なんかいいご縁があれば嬉しいです。)
一応挨拶じみたことを祈り終わり頭を上げた葵。ふと視線を感じ横を向くと、一人の少年が立っていた。
青年といってもまだ幼さの残る顔立ちにすらりとした体つき。葵は高校生か中学生くらいとだろうかと思った。やはり葵は彼を青年というよりは少年と称したほうが彼には似合う気がした。
少し垂れ目がちな瞳が、葵の目を引いた。
「こんにちは」
「あ、ああ! こんにちは、ってもうこんばんはかな?」
日が落ち切ったわけではないが、しかしそろそろ薄暗くなる時間帯だ。葵の返しに少年は一瞬目を見開き同意するようにうなずいた。
葵は礼儀正しく挨拶をくれた少年に好感をもった。
だがその少年は少し不思議そうな表情で葵に問いかけた。
「あの、もしかして最近こちらにいらした方ですか?」
「そうだよ。昨日越してきたんだ」
嘘をつく必要もなかったので葵は正直に答えた。少年はそれに納得したように頷いた。そして少し慌てたように言葉を続けた。
「急にすいません。ただ見覚えのない方だったので。その、僕、この神社の一人息子で潮鳴紫苑といいます」
「あ、ご丁寧にどうも。俺は山岸葵。長期の出張でこの街に越してきた。よろしくな」
お互いになんとなく名乗りあってから数舜して同時に表情をゆるめた。なんとなくこんなところで見つめあってまじめに名乗りあっているのがどこか滑稽に感じられたのだ。紫苑は柔らかな笑みをそのままに葵に問いかけた。
「えーと、山岸さん時間ありますか?」
「あるよ」
「じゃあこっち、いいもの見せてあげます」
葵はついさっき知り合った少年の後ろをなんの疑いもなくもなくついていった。普段ならもう少し警戒心を持つだろうが、不思議と紫苑に対してはとくに感じることはなかった。神社で祈った直後に現れた少年という少し非日常の空気に飲まれているのかもしれないと葵は思った。
「その辺、足元が悪いから気を付けてくださいね」
「おう」
案内されるまま紫苑が現れたのとは反対側、海に突き出した岬へと足を進める。かすかに道があるのはわかるが、自生している松の木やその他よくわからない雑木が道をふさぐように生えている。
途中から土ではなく岩場になっているのでたまに滑りそうになりながらも葵と紫苑は無事に岬の先端に作られた展望台にたどり着いた。
「これは……すごいな」
「よかった、気に入ってもらえて」
面前に広がるのは島と呼ぶには小さい、けれどただの岩場というにも大きな岩が点在する海と、その海に沈む夕日であった。
赤い地平線から青に変わる海。斜め下をのぞけば白い砂浜が見えた。その砂浜に打ち寄せる波もかすかに赤く染まっている。
「ありがとう潮鳴くん」
「いえ、短い間かもしれませんが、少しでもこの街を好きになっていただけたら嬉しいです」
紫苑は笑ってそういった。
「あらためて。華原市へようこそ、山岸さん」
海を眺めていた葵は紫苑の言葉を聞き彼をまじまじと眺めた。夕日に染まった頬は赤く、垂れ目の瞳は笑みを浮かべたことでもっと優しく映る。
穏やかな笑みを浮かべる紫苑の表情に葵は、自分の胸のうちに広がる感情に気が付いた。
だがその感情からあえて目をそらし紫苑と同じように笑みを浮かべる。
差し出された手を握り返し、葵は紫苑に一目ぼれしたことを自覚していた。
+++
タンタンタンと、テンポよく葵は足を走っていた。昨日の夕方決めたコースを、今日は朝日を浴びながら走っていた。昨日と違い、今日は何人かの人間とすれ違っている。同じようにジョギングしている人間もいれば、犬の散歩をしている人間もいた。
すれ違う人にはできるだけ朝の挨拶をする。音楽を聴きながら走る人間もいるが、葵はあまり好きではなかった。
それにせっかく海岸を走るなら海の音を聞いていたかった。
「あれ、紫苑くん?」
「あ、葵さんおはようございます」
「あ、ああ! おはよう」
折り返し地点に選んでいた荒潮神社の前に、紫苑が竹ぼうきを持って立っていた。
ともに花の名前からとられている共通点から話が弾み、自然と互いに名前を呼びあっていた。
そんな紫苑と朝から会えればいいなとは思っていたが、そんな都合のいいことはないだろうと葵は思っていた。それゆえに少し大げさなほど葵は慌ててしまう葵。
しかし一呼吸おいて平静さを取り戻した葵は、状況をすぐに理解して頷いた。
「おうちの手伝い?」
「はい。まあいい眠気覚ましになるので」
「毎日やってるのか?」
「あまり雨がひどい日は手水場を洗うだけにしてますが」
「いや、なかなかできないよ。偉いね」
「……そんなことないですよ」
かすかに紫苑が苦い顔をしたのが葵の目にうつった。気のせいかだろうかと葵が首をかしげるほど一瞬のことだった。
ゆえに葵は、親に言われてやっているからそれほど褒められることでもないということだろうかと思った。
「冬は寒いだろ」
「まあ。けど夏場なんかは手水の柄杓を洗うのは水が冷たくて気持ちいいですよ。地下水使ってますからぬるくなりません」
何でもないように紫苑は言うが、葵はなかなかできることではないと思った。
昨日二人は展望台で日が完全に落ちるまで話し込んでいた。そこで葵は紫苑がこの春で高校二年生になることを知った。
まだ十六歳の少年。自分が同じような年のころは何をしていただろうかと思い返すが、ただただ自堕落に過ごした記憶しか葵の脳裏には浮かばなかった。
「俺が同じ年頃のことは親の手伝いなんてした記憶がないぞ」
自分でも情けないと思うような告白をずいぶんと年下の少年に漏らす葵。それに苦笑する紫苑だが、後ろを振り返りあっと声をあげた。
「父さん」
紫苑の視線の先には白い着物と青い袴をはいた男性が立っていた。紫苑とよく似た面立ちの男性の登場に、葵はひどく緊張した。
「あ、おはようございます」
「はい、おはようござます」
とりあえず挨拶だけはしたが、葵は内心非常に慌てていた。慌てる必要もないのは重々承知なのだが、惚れた相手の親となんの心の準備をなしに会うのはどうにも落ち着かない気分であった。
紫苑の父親には少し不思議そうに葵を見ている。
「この人が昨日話した山岸葵さん」
そんな父親に、紫苑は葵を紹介した。
(し、紫苑くん⁉ お父さんたちにどう話したの⁉)
内心で悲鳴を上げる葵。昨日の自分の行動を思い返すが、すべての行動が不審なものに思えて仕方なくなる。
だがそんな葵の不安に反して、紫苑の父親は納得したように頷き笑みを浮かべた。
「うちの神社にご挨拶をしてくださったそうで、ありがとうございます。ああ、紫苑の父親で潮鳴時雨です」
「あ! 山岸です。まあ、しばらくこちらで暮らすので挨拶がてら」
「最近はなかなかそうした方も珍しいので、ありがたいことです」
それほど特別なことをしたという認識もなかった葵は、紫苑の父親の言葉に戸惑った。
「そんなもんですか?」
「そんなものですよ」
からからと笑いながら時雨は言った。
少し困ってちらりと葵が紫苑に視線を向けると、苦笑して肩をすくめていた。
「それと、展望台に行かれたそうですが、足元に注意してくださいね。紫苑も、だよ」
「あ、はい」
紫苑にも注意されたことを思い出し、少し面白く思った。
「分かってるよ。というか葵さん、引き留めちゃってすいません。お時間大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫。ありがとう。でもそろそろ行くよ」
そういって葵と時雨に別れを告げて、葵は来た道を戻った。
葵の住まいから仕事場までは徒歩で十分ほどだが、仕事に向かう前にはシャワーを浴びたかった。朝食を食べてから出るので時間的にはギリギリだった。
ちなみに葵は休日以外に気が向かないかぎり自炊はしない。朝食は昨日のうちに買ってある。
朝の身支度を終えた葵は、まだ時間に余裕があるのを確認して家を出た。会えるとは思っていなかった紫苑に朝から会うことができて葵の機嫌は非常によい。
紫苑に一目ぼれしたことに関して、葵は一晩悩んだ。同性に惚れたことに関してではなく、彼が未成年であることだ。
もともと葵は同性愛者であった。
女性には一切興味のなく、これまで行為を持ったのも付き合ったのも男性。両親にカミングアウトはしていないが、いつの頃からかそれとなく彼女の有無を聞いてくることがなくなったので感づいてはいるのかもしれないと葵は思っている。
そうした理由から紫苑に一目ぼれしたことは年齢の問題だけなのだ。
そして一晩悩んだ結果、葵の結論は、
『口説かない』
というものだった。そもそも未成年者に対して手を出す気もないし、紫苑は異性愛者である可能性の方が高い。ならば多少世間話もできるような、いい友人、は言い過ぎかもしれないが、良き知人として接してほしいという結論をだした。
そんなとりとめのない思考で、葵は新しい職場に対する緊張をごまかしていた。
同じく銀行から出向してきた上司に仕事を教わりながら、やっと昼休憩を迎えた葵は無意識に溜息をついていた。
「山岸、食堂いくか」
「あ、はい」
食堂があることがことは知っていたが詳しい場所は分かっていない。葵にここでの仕事を教えていた川中幸樹が、そんな葵を食堂まで案内した。
「ここの飯は意外とどれもうまいぞ」
「へえ、いいっすね」
とりあえず日替わり定食を頼んだ葵。今日の日替わり定食のメインは魚の煮つけであった。小鉢はほうれん草のお浸しと豆腐とわかめのみそ汁ついている。川中はとんかつ定食を頼んでいた。小鉢とみそ汁は日替わり定食と共通していた。
二人は長机に向かい合って座り、それぞれの定食に箸をつけた。
「あ、ほんとだうまい」
「だろ? 魚はとくにな。やっぱ港町なだけあるぞ」
葵は非常に驚きをもって定食に手をつけた。
「うまい店はほんとにうまいんでしょうね」
「ああ、魚に関しては東京とかで食べたら一万円はしそうなやつが半分以下で食えたりするからな」
「うわあ、こんどいい店教えてくださいよ」
葵は今度の誕生日で二十七歳になるが、見た目はそれよりも少し年上にみられることが多い。仕事中も落ち着いた対応をするよう心掛けているので、仕事だけの付き合いの人間には三十台に見られることが多かった。
ただこうして休憩時間や勤務外のプライベートでは年相応の様子を見せることが多い。
「もちろんだ。今度の金曜はお前の歓迎会もかねて飲み会だからな。そこも魚がうまい店を用意しておくよ」
「ありがとうございます」
機嫌よく笑って葵は答えた。どうやらここでもうまくやっていけそうだと内心でほっと胸をなでおろす。
「はあ、こっち来るまではちょっと不安だったんですけど、海はきれいだし魚はうまいしいいところですね。神社から見た夕焼けもすごかったな」
「ははは、俺もそんなだったな」
その時川中と席を一つ開けて座っていた男が、葵たちに声をかけた。
「もしかして君が新しく出向してきた人?」
「ああ、はい。山岸といいます」
「営業の小里だ。よろしく」
声をかけてきた男、小里はおおよそ三十台の後半にみえた。若干髪の毛が薄くなっているが、中年太りだけはなんとか避けているといった様子の男だった。
「ところで神社って、荒潮神社かい?」
「そうです」
それがどうしたのかと葵は首をかしげた。それに小里は少し困ったように笑って答えた。
「じゃあ展望台には上ったかい?」
「ああ、はい。その神社の息子さんに教えてもらって」
「ああ、紫苑くんか」
葵は思わず動揺して食事を喉に詰まらせてしまいそうになったが、すんでのところ冷静さを取り戻した。こくりと頷いて同意しながら、葵は聞き返した。
「え、っと。ご存知なですか?」
「僕の息子と同い年でね。あと、やっぱり有名な子だから」
どう有名なのか葵が首をかしげると、意外なことにそれを答えたのは川中であった。
「ああ、あの神社の一人息子か! いっつも神社の手伝いなんかしてるし、祭りの準備なんかも大人に混じってやってたから俺でも知ってるよ」
「今日もやってました」
今朝見た光景を放しつつ、この街の生まれではない川中ですら知っているのかと葵はかすかに目を見開いた。
それから葵は紫苑の話題をそれとなく聞いたり、七月ごろに行われる祭りの話を聞いた。荒潮神社が中心になり、海の安全を祈願するものだ。町内会に所属しているわけではないが、川中は去年から自然と手伝うようになったらしい。
そんな話をしているとあっという間に休憩時が終了した。
午後からの仕事をなんとかこなし、さすがに葵は出勤初日であったので定時に帰ることができた。
散策がてら買い物をし、家でぼんやりとしていると時間がすぎていく。葵の思考の大半をしめるのは紫苑のことだった。
+++
そしてそんな日々を過ごしていると、瞬く間に一か月が過ぎていた。
その日、葵は外で同僚と飲みに出て少し帰りが遅くなっていた。とはいえ夜の十時には解散だ。葵はあまり酒に強い質ではないのでそれほど長く飲むことはない。
「あれ、紫苑くん?」
「……葵さん」
人通りのない道、住宅の塀にもたれかかるように紫苑が立っていた。街灯のかすかな光でその目が赤くはれているのが見て取れた。
「大丈夫、じゃなさそうだね」
迷って葵がそう声をかけると紫苑はふにゃりと力なく笑った。
「あはは、そうかもしれません」
「もしかして家出?」
葵の問いかけに紫苑は頷いた。それに葵は困ったように頭をかいたが、そのまま家に帰れとも言えない。
「まあ、いいや。とりあえずうちおいで」
「いいんですか?」
「いいよ」
葵はそういって紫苑の手を引いて自分の家に帰った。紫苑にあたたかい飲み物を渡し、部屋着に着替えたところで葵は自分の行動に動揺し始めた。
酒の勢いだろうかと軽く頭を抱えつつ、一番重要なことを忘れていたことに気が付いた。
「紫苑くん、携帯貸して。親御さんに連絡したいから」
「え、けど……」
「どうせなんにも言わずに出たんだろ? ぜったい心配してるよ」
「その……」
せっかく泣き止んでいるので再び泣き出しそうな顔をしている紫苑。それに罪悪感を覚えながらも、葵は手を差し出し続けた。紫苑はそれにあきらめたようにスマホを取り出し電話を掛けた。
つながるよりも前に紫苑は葵に自分のスマホを差し出した。
「うお、後でひとことくらい話すんだよ⁉」
とりあえず受け取ってスマホを耳に当てると、すぐに紫苑の父親である時雨の声が響いた。
『紫苑、今どこに⁉』
あれから朝のジョギングで何度か挨拶を交わすようになった時雨の焦った声に、葵は申し訳なく思いながら答えた。
「もしもし、山岸です」
電話の向こうに沈黙が流れた。なんとなく立ったままなのもつかれるので紫苑の右隣に座った。紫苑は膝を抱えて珈琲をちびちび飲んでいる。
それに葵は苦笑していると、電話の向こうで安堵のため息が聞こえた。
『その、紫苑はそこに?』
「はい、近くにいたのでうちに連れてきました。代わりますね」
『お願いします』
葵がスマホを差し出すと、紫苑はちらりと葵を仰ぎ見ておとなしくスマホを手に取った。
「……もしもし」
電話先の声は葵には聞こえなかった。ただそれほど荒れることはなく、どちらかといえば紫苑はほっとしていている様子であった。
「うん、うん……。葵さんのとこにいる」
紫苑はちらりと葵を見上げた。それに頷いて葵は手を差し出した。
「あ、潮鳴さんですか? まあもう遅いですし、紫苑くんもちょっと時間を開けたいみたいですから、今日はお預かしましょうか?」
『ご迷惑では……』
「いやいや! これくらいなんでもないですよ。明日は俺も休みですし」
葵の言葉に電話越しの時雨が押し黙った。迷うようなその間に、葵も何も言わずただ黙って紫苑の父親の言葉を待つ。
『……その、あー、もし宜しければ紫苑の話を聞いてやってもらっても。珍しく、貴方には本当に懐いているようなので』
時雨の「珍しく」と言う言葉に葵は内心で首をかしげていた。紫苑は誰に対しても愛想がよく、特別懐かれているようには思えなかったからだ。だがそんな疑問はおくびにも出さず、朗らかに答えた。
「もちろん」
再び紫苑にスマホを渡すと、紫苑は二言三言話して通話を切った。
深々と溜息をつく紫苑。葵はそれを腕を組んで眺め、どう話を切り出すか悩んでいた。だがそんな葵の心配とは裏腹に、紫苑は珈琲を飲みほすとまっすぐに葵を見上げて自ら打ち明けた。
「すごくくだらない話なんです」
「親との喧嘩なんてそんなもんだよ」
「……エロ本が見つかったです」
「あちゃ」
紫苑は無表情でそういった。よくある喧嘩の種ではあるが、まだ知り合って間もないとは言え紫苑イメージからはほど遠いその単語。とはいえ家族の喧嘩というものは案外そうしたくだらないものが多いのも事実だ。
だが葵は紫苑の次の言葉で思考が止まる。
「男同士のやつだったんですけどね」
どこか乾いた笑いを浮かべて紫苑は言った。かちりと紫苑と葵の視線がかち合った。縋り付くようなその視線。だがすぐに紫苑が目をそらした。
「やっぱり僕、かえりっ」
「帰りたくなんだろ?」
葵は立ち上がりかけた紫苑の腕をつかみ、自分の膝の上に抱きかかえた。ここまで接近したのは初めてだった。友人とは言わないかもしれないが、よく話す知人として適切な距離を葵は保ってきた。
だが先ほどの目を見て、その一線を越える決意を固めた。
「紫苑くんって、ゲイなのか? それともバイ?」
「うぇ⁉ あ、あの……」
「ちなみに俺はゲイだよ」
あえてニコニコ笑って葵がそういうと、紫苑は驚きに目を見開きそしてすとんと肩を落とした。手持ち無沙汰に紫苑の背中を撫でながら、きっと混乱しているであろう紫苑の顔を眺めた。
「……ほんと?」
「ほんと。親には言ってないけどな」
「いいなあ。僕はばれちゃった」
疲れたように紫苑は言った。葵の肩に顔を埋め深く溜息をつく。初めて紫苑の頭を撫でた葵は、彼の髪がまるで絹でできたかのような触り心地なのを知った。
ずっと触っていたいと思う葵。だがこの体制ではいつまで葵自身、理性がもつか分からなかった。
「けどあの電話の様子からしてもう揉めてないんだろ?」
「まあ、父親は落ち着いたみたいです」
「ならいいじゃん」
背中をやさしくたたき、こちらを向けと小声で促す葵。それにいやいやと紫苑は首を振った。そんな紫苑のしぐさに葵は苦笑しながら言った。
「……イイ子な紫苑くん」
「やめてください、皮肉ですか?」
「ん、そういうわけではない」
腕の中で紫苑の機嫌が下がっているのを感じ、葵はあーと小さくうめいた。そして聞くかどうか迷っていたことを聞いた。
「紫苑くんのこと、会社でもたまに聞いてた。家の手伝いをよくしてるいい子だって」
「そうですか」
「もちろん、家の手伝いをするのが当たり前だって紫苑くんが思ってたのは知ってるよ。けど、それだけじゃないのかなって」
それは出会ってしばらくたってからずっと思っていたことであった。
そしてそれは今確信に変わった。自分の性癖に気が付き、抱える必要のない罪悪感の発露がいささか過剰にも見える家の手伝いに繋がっているのではないと、葵は思った。そしてそれはおおよそ当たりであったらしい。
「……なんで葵さんは僕のこと、僕以上に分かってるの?」
泣きそうになりながらも葵の言葉を肯定する紫苑。
その問いに葵は一瞬迷った。自分の気持ちを告げるべきではないと理性は告げる。だが腕の中のぬくもりに、理性は負けた。
紫苑を抱きしめる腕に力をこめて、葵は彼の耳に吹き込むように言葉を囁いた。
「こっち向いたら教えてあげる」
その言葉に紫苑はノロノロと顔を上げた。赤くなった目をのぞき込んで、葵はできるだけ穏やかに言った。
「紫苑くんのことが好きだから」
一瞬真顔になり、じわじわと顔を赤くしていく紫苑。葵は普段落ち着いた態度をとることが多い紫苑の珍しい表情をじっくりと観察した。
「一目ぼれだった。だからまだたった一か月だけど、見てた。紫苑くんがどんな人間なのか」
「どう、でした?」
不安そうにそう問いかける紫苑。それに葵はふむと首を傾げた。
「家族や神社、それにこの街がすきなんだろうなって」
「……そう、なのかな?」
「なにより出会ってすぐにあんな素敵な場所に連れてってくれたんだ。わかったよ」
そういって葵は笑った。その言葉に紫苑は唇をかみしめて泣き出すのをこらえている。葵は紫苑の背中を支えていた手をそっと外して、膝の上に抱えた紫苑の頬を両手で挟んだ。
親指で少し強めに葵は紫苑の目元を拭う。
「朝の掃除だっていっつも丁寧だしね」
額を合わせて笑いかえると、紫苑は首を横に振った。
「葵さんがいたからだよ。葵さんの前だったからかっこつけたかったし、葵さんと一緒に夕日を見たかったんだ」
葵は目を見開き、そして笑みを浮かべた。
「へえ?」
「……僕も、葵さんが好きです」
吐息が混じり合う距離で囁かれた葵は、たまらず紫苑に口づけをしていた。葵が唇をちゅくりと舐めると、おそるおそる口をゆるく開いた。紫苑を怖がらせないように必死に細切れになっている理性をつなぎ留めながら、葵は彼の口内を舌先で愛撫した。性急に相手を求めず、互いの体温を分け合うような口づけ。
縋りつく紫苑の手から力が抜けていった。
「紫苑くん」
「ん……」
葵が呼びかけると、紫苑はとろりとした眼差しを葵に向けた。それに葵は苦笑して紫苑の目じりに口づけを落とす。
「もう遅い時間だから寝ようか」
「葵さん……」
「とりあえず俺のスウェット貸すから」
どこか続きを期待するようなまなざしの紫苑に、葵は苦笑して彼の頭を撫でた。
「このまま続けちゃうのは、なんていうか、卑怯、だろ」
「そんなことは、」
「あるよ」
そう断言した葵はため息をついた。葵は期待と、それからかすかな怯えの混じった目を向けられて何も感じないほどに枯れてはいない。今すぐ抱いて身も世もなく快楽で泣かせてしまいたいと、凶悪なまでの衝動に襲われる。
(けどそれは……大人としてやっちゃダメな、やつだよ)
大人としての矜持が葵をギリギリのところでつなぎとめた。
「俺はそう思う。少なくとも、俺は未成年に手を出すような人間になりたくない」
葵の言葉に紫苑は目を見開きほんの少し不服そうにしつつうなずいた。
それと同時に紫苑のその顔が常の大人びたそれではなく、年相応のそれで、葵は内心で自身の選択に安堵していた。
いつも通りの時間に眼を覚ました葵は目の前に紫苑がいることに思考を停止させた。寝起きはかなりいい方だが、とっさに状況が理解できなかったのだ。けれど昨夜一人たたずむ紫苑を見つけ勢いそのままに連れ込み告白したことをどうにか思い出すことができた。
一緒に寝るか寝ないかで軽くもめ、結局こうして一つのベッドを共有し、葵は紫苑を抱き枕にしていた。
少し大きめのベッドとはいえ、男二人では狭いことこの上ないはずなのに普段よりも気持ちよく目覚めることができたことに、葵は若干の動揺する。
スマートフォンのアラームが鳴る直前、腕の中でもぞりと紫苑が身動きした。
「……葵さん?」
「うん、おはよう紫苑くん」
「おはようございます……」
紫苑も状況を把握できたらしく、返事をすると耳まで真っ赤になった。葵はそれに少し笑い、紫苑の額にそっと口づけた。
「まだ起きるには早いか?」
「葵さんこそ」
「俺はいっつもこの時間に起きてジョギングしてるから、癖でね」
「僕も家の手伝いでこの時間には起きますよ」
何とはなしに、二人して起き上がりベッドの上に座りこんだ。
「……あの、良ければこれから一緒に展望台に行きませんか?」
「もちろんいいよ」
頬を染め、勢い込んで誘う紫苑に幾分驚きながらも葵はそれに是と答えた。ほっとしたように微笑む恋人の姿に葵は自然と表情が緩んでいた。
軽く身支度を終えた葵と紫苑はまだ薄暗い街中に繰り出した。朝日がそろそろ顔を出そうとしているが未だ世界はまどろみの時間にある。だがそのお陰で手を繋いで歩く二人の姿を誰も見ることはなかった。
「紫苑?」
神社に着くと、そこには紫苑の父親である時雨が竹ぼうきを持って立っていた。まさかこんなに早く帰ってくるとは思わなかったらしく眼を点にしている。
ひどく気まずそうな紫苑に葵は繋いでいた手を離し、彼の背を叩いた。
ちらりと葵を見上げた紫苑は深く息を吐いて一歩前に出た。
「……昨日は……ごめんなさい」
「いや。……いや、いいよ。紫苑、母さんも怒ってるわけじゃないから安心しなさい。ただちょっと驚いたんだよ。……おかえり、紫苑」
「うん、ただいま」
どこかぎこちない親子の会話であったが、葵はもう大丈夫だろうと思った。
それから時雨は葵に深々と頭を下げた。
「山岸さん、昨日は息子がお世話になりました」
「あ、いやいや!」
慌てて首を横に振った葵。全く下心がなかったとはとてもではないが言えない身であるので、時雨の態度は非常に居たたまれない。
そんな葵に気が付き紫苑はふと笑った。
「父さん、葵さんとちょっと上に行ってきていい?」
紫苑の言葉に時雨はふと目の前の二人を見比べた。ほんの一瞬、鋭い視線が葵に向けられる。だがそれはただの気のせいであったかのように穏やかな表情に戻る。
「あまり山岸さんに迷惑をかけてはいけないよ」
「……大丈夫だよ」
だよねと不安そうにこちらを見上げる紫苑に葵は思わず笑みをこぼした。そして紫苑の頭をくしゃりと乱した。
「ああ。いい景色だときいたので、一緒に見ようかと」
そう答えた葵に、時雨はこんどこそ本当に鋭い視線を向けた。それは紫苑が気づいた途端苦笑じみたものに変わったが、葵にはその視線の意味が分かった。
だが今は何も言わず、時雨に頭を下げた。
そして紫苑に手を差し出した。
「?」
「そろそろ行こう」
「あ、はい」
自身の秘密がばれて気が抜けたのだろう、紫苑の様子が普段より少し子供っぽく見える。それが葵には何とも愛らしく見えた。
「じゃあ父さん、ちょっと行ってきます」
「気を付けて」
そのまま階段を上り始めた紫苑に手を引かれるようにして、葵も階段を上った。
「……海から朝日が出るわけではなんですけどね」
「うん」
「奇麗だなって。……僕は好きなんです」
おだやかに明るくなる海。砂浜に打ち付ける白い波がキラキラと輝いている。夕焼けに赤く染まった海とは違う美しさであった。
「紫苑くん」
「はい」
「俺はね、君のことが本当に好きだ」
手すりにもたれかかり、葵は海を見つめながらそう言った。展望台の崖下に白波が打ち付けられている。
隣に、紫苑がやってきて同じように海を見下ろした。
「だから君に誠意をもって接したい」
「誠意ですか」
自身を見上げる紫苑の視線に軽く笑みを持って応じた葵は海に背を向けて手すりに背を預けた。そして紫苑を見つめて、彼に手を伸ばした。一瞬触れるのをためらう手が、そっと彼の頬を撫でる。
「君のおうちのことが落ち着いたら、きちんと挨拶をする。そのうえで、嫌なことはきちんと言ってほしい。……未成年の君とこういう関係になるのは、よくないのは分かっているから」
葵の言わんとすることは十分理解できたのだろう。それでも唇を引き結び、紫苑は言った。
「……でも、僕も葵さんが好きです」
「うん」
頷き、葵は微笑してもう一度紫苑の頬を撫でた。
「俺も好き」
そして葵はうずくまって頭を抱えた。
「ホント好き。だから自分が何するかほんと分かんねえの」
深く深くため息をつく葵を紫苑は目を見開いて見つめた。そしてゆっくりと言った。
「……葵さんになら、何をされてもいいよ、じゃダメってことだよね」
「ダメ。絶対ダメ」
うめくようにそう答えた葵はそれでもどうにか気を取り直して立ち上がった。そして紫苑を自身の腕の中に閉じ込める。
「君が、俺を好きになってくれるとは思わなかった」
「……僕もです」
「ははは、そっか」
笑って、葵は紫苑に口づけた。触れるだけのそれにどことなく不服そう顔をする紫苑に葵の笑みが深まる。
「俺は、この景色を君と何度も見たい」
何度も「好きだ」と告げられて、口づけもされた。だがそれ以上に、この言葉は葵の思いの深さを紫苑に伝えていた。
「……ずるい」
思わずそう答えてしまった紫苑に葵は苦笑する。
「大人だからね」
葵の答えに紫苑は「早く大人になりたい」と思った。だがそれを口にすれば自身が「子ども」であることをまざまざと証明するようでもあり、口にだすことはできなかった。
その代わり、紫苑は葵をまっすぐに見つめて言った。
「僕はここだけじゃなく、色々な場所を葵さんと一緒に見たいです」
葵は目を見開き、それから思わず赤面してしまった。
「……君も十分ずるいじゃないか」
「子どもの特権です」
胸を張る紫苑に葵はため息をつき、再びくしゃりと彼の頭を乱した。
「あ、もう! 葵さん!」
「帰るぞっ」
「分かりました」
自身で乱した紫苑の髪を整えてやった後、葵は歩き出した。その後ろを慌てて追った紫苑は隣に立つ。
そして二人はゆっくりと来た道を戻るのだった。