第7話/平穏
素直な魔王というのも珍しい。
彗が魔王城に現れてからちょうどひと月が経ったこの日、魔王は日課の走り込み30周をリリーくんとじゃれながら消化し終え、今はフロウ直伝の「でっかい岩をとりあえず担いで筋力強化」をもくもくとこなしていた。
途中膝を折ることが何度もあったり、滴る汗が目に入って厄介ではあったが、途中で投げ出すことなく毎日毎日継続している。
しかし、彼が改心したというわけではない。彗の言うとおり、強い魔王を目指しているわけでもない。まして、世界征服をするためには地道な努力が必要だ、という崇高な意識が芽生えたわけでは、もちろんない。
一にも二にも、プディンという彗の作るお菓子のためであった。
魔王は大の甘党なのだ。
トゥという家畜の鶏が生む卵とギという四足の生き物の乳と甘味料でつくるそれは、大の甘党である魔王の舌と心を大きく揺さぶった。はじめて食した時、彼は与えられた自分の分をぺろりと平らげ、ゆっくりと味わっていた部下たちから巻き上げようと大格闘したほどである。
当然、大の甘党で自分が作るプディンに魅了された魔王、というものを彗が見逃すはずがない。
次の日から、その黄金に輝く、魔王にとっては至上の食べ物をぶらさげて、前日よりもさらに過酷を極める課題を与えたのだった。
果たして、彼女の目論んだ通り、魔王はプディン欲しさに精進することとなる。
それを「魔王様の一本釣り」とルゴとフロウは密かに囁き合っていた。
もちろん、兵士たちは突然やる気を出した魔王の真意を知る由もなく、毎日彗がプディンを作るのは、疲れた自分たちへのご褒美だと激しく誤解していた。「どうぞ」と笑顔でさし出されれば、飽きただの、こう毎日はちょっと、だのという不平は遥か彼方のそのまた向こうに飛んで行くようだ。
魔王城には比較的平和な時間が過ぎていった。
魔王らしい高笑いの練習と称して、
「声が小さあああああああああああああああい!はい!もっとお腹に力込めて!!」
「ふあーはっはっはっはっはっはっ・・・っは?ごふごほげへ・・・ふべしッ!?」
彗の怒声と魔王の悶絶が聞こえてくることが多々あるとしても。
また、侍女がおらず髪の手入れが面倒になった彗が、腰よりもあった自分の髪をばっさりと肩で切り、ついでにと魔王に頼まれて髪を整えていた昼下がり。
「彗様」と、ルゴに呼びかけられた彼女の手元がお留守になった瞬間、ざっくりと魔王の前髪が眉の上で一直線になったこともあった。
彗とルゴはさすがに青ざめて笑いはしなかったのだが、ざっくばらんなフロウという男が盛大に吹き出して大爆笑をしたため、その後一週間魔王は私室から出てこなかったことも記憶に新しい。
兵士たちが魔王を気遣い、魔法医を呼ぼうと進言したが、代りに魔王城に呼ばれたのは理髪師であった。
ある夜のこと。門番の詰め所に二人の兵士が控えている。
「おい、明日あたりだよな?」
ほの暗い部屋で兵士の一人が言う。
冷えるのか、いかつい肩をぶるりと震わせて、彼は向かいでコーヒーをすする同僚と視線を合わせた。
「何の話だ?」
「だから、魔王様の護衛が、さ」
湯気の向こうでようやく話の筋が読めた細面の同僚は、緊張した面持ちの発言者にくすりと笑いを洩らす。
「フロウ様からツィンク様に替わる話か?」
「ああ」
「ツィンク様が彗殿に手を出しそうだって?」
「そうだ」
「あるかも知れないよな」
「あったら困るだろう!?魔王様のお后候補だぞ!?」
手元のコーヒーをくるくる回しながら、同僚は笑いだしそうになるのを懸命にこらえている。
「何が可笑しい?」
大真面目に怖い顔をしているひげ面の男が詰めよれば、とうとう彼はぷっと吹き出してしまった。
城門の警備の交代まではまだ少しある。彼はこの大真面目な同僚にもう少しだけ付き合ってやろうと思い、二、三咳払いした。
「いやな、男女の仲はどうなるのかわからないもんだよ?まして正式な婚約者じゃあないんだからな。でも、」
「でも?」
妙なところで言葉を切られ、少々苛立ち気味のひげ面がその先を急かす。
すると、同僚は自信たっぷりにこう答えた。
「でも、彗殿はぜったいになびかないね。ツィンク様には気の毒だけどな」
にやりと笑い、彼が立ちあがるのを潮にふたりは分厚い外套を手に取った。
糸のような月が西に傾きかけた時分、彼らは何の気配を感じることもなく詰め所を後にした。
彼らは、自分達が噂していた男が密かに城へ侵入したことなど夢にも思わなかったのだ。
いつお后候補になったんでしょうねぇ。
噂って怖いですよねぇ。