第47話/再戦
妖剣は跡形もなく消え、代りに彼女は黒衣のドレスを身にまとっていた。
纏うそれが夜の闇であるならば主の銀髪は闇に浮かぶ月の色、そして青く静かな瞳は海の色。
しかし美しい容貌にもかかわらず、彼女の肩からは禍々しい炎が立ち上り、その主流に合流するべく胸や腰や足のあたりからも細い炎が揺れた。
彗は己の魔力を喰らわせ続ける妖剣の黒い炎自体を体に纏っているのだ。軽やかに裾をなびかせ、その漆黒のドレスから無限に生まれる「無」を思うまま自在に操る。
放たれた黒の炎は鬱蒼と茂る木々を易々と飲み込みながら「無」で魔王を捕らえようとした。
が、彼女を通してたっぷりと魔力を吸った妖剣の攻撃をもってしても、対をなす撃魔の剣を手にした彼は簡単に飲み込むことはできない。
「無」を切り裂き、薙ぎ払い、魔王は森を侵食していた黒い染みを一掃していく。
一気に間合いを詰める魔王。
直線的な攻撃に飽きたのか、彗は炎を黒い蝶の姿に変え、圧倒的な数を持って撃魔の剣を制圧にかかる。目をくらまし、惑わせ、変則的な動きで魔王の動きを封じ込めようと羽ばたく群。攻め込んでいた魔王は堪らずに炎の攻撃で焼き払おうとしたのだが。
それはあの妖剣の炎で作られた蝶。
焼き尽くされるどころか彼の魔力を吸収しますます数を増やして魔王に襲いかかる。
「無駄無駄」
再び剣で斬り捨てるのだが凌ぎ切れなかったいくつかが彼の肩口に触れた。
くらり。力を吸い取られるあの感覚。
一振りの剣で無数ともいえる蝶の群を切り落とすことは不可能。無駄に体力を消耗するどころかこのままでは魔力すらも奪われるだけと悟った魔王は逆手に持ちかえた剣を深々と大地に突き刺した。
薄く笑い、たたみかけるようにさらなる量の蝶を放出する彗。
しかし。
はらり、はらりと魔王の体に触れては散って行く黒の蝶たち。
魔王の確信に満ちた笑みに彗の顔が微妙に歪む。
「結界?」
「あんたが妖剣を纏ったようにこちらもそれを応用したまでだ」
うっすらと魔王の体を覆う淡い光に気付き、彼女は彼が作り出した結界すら飲み込むべくさらに黒の蝶を放つ。が、それは明らかに妖剣の力を過信してしまったための過ちだということがすぐに証明された。
どれだけの大群で魔王を襲わせようとも、その淡く光る結界は破れるどころかますます強固に術者の身を守り続けたのだ。
「それこそ無駄だな」
余裕の笑みを浮かべる魔王にならばと、彼女が嗜好を変えて放った冷たい業火が螺旋を描いて空を登る。そのあとに蝶の群が続き迷うことなく業火の中に飛び込み、溶け、結合していく。
渦巻く黒の炎。それは徐々に形を作り、そして一つの大きな塊となった。
魔王の頭上で猛々しく爆ぜる黒い太陽が威圧的に標的を見下ろす。
「これでどうかしら?」
今度は彗が魔王に笑いかける。
圧倒的な「無」を見上げ、凌ぎ切れるのだろうか? と彼が感じた刹那、その「無」の業火が魔王めがけ無慈悲に落ちた。
ずぉぉぉぉぉぉ。
地響きを伴って黒の太陽が魔王ごと大地を飲み込む。
夜よりも深い闇の太陽を見つめ飛散する小さな炎をうっとりと眺める彗。
魔王の有する魔力のすべてを吸い取り彼を城に追い返す。その目的を遂行するためには一切の手加減も迷いも情もない。一歩たりとも退いてはならないと自分自身に言い聞かせ、彼女は意識をさらに鋭く研ぎ澄ませる。
「これで終わりじゃないようね」
彼女の夜の海を思わせる穏やかで静かな瞳に大きな波紋が広がった。
大地に突き刺さり、半球形となってしまった黒の太陽。その天辺からごく微弱ではあるが淡い光が漏れたのだ。それは少しずつ強さを増し、ある瞬間殻を割るように一瞬で「無」を粉砕した。
闇の殻を打ち破って生まれたその「矛」を彗は食い入るように見つめる。
術者の身を守る盾から変形したそれは「無」を払うだけにとどまらず、空を覆い隠していた木々の枝葉さえも貫いた。
光の矛の内側でゆったりと笑う魔王の姿。彼はかすり傷一つ負ってはいなかった。
燦然と光を放つ矛が彼の体を包むように収縮していく。
初めて彗の顔に焦りの表情が浮かんだ。
「降参するならいまのうちだが?」
剣を引き抜き、魔王が構える。
「誰がそんなことするもんですか。それよりもそっちが降参したらどう?」
差しだした右手で空を掴み妖剣を出現させた彗。
「生憎だが丁重にお断りさせていただこう」
「そうね」
お互いが踏み込み剣が激しくぶつかり合った。
耳をつんざく鋭い金属音が何度も何度も悲鳴を上げる。
「くッ」
魔王の打ち込みを受け流すたび彗の持つ妖剣から黒い炎が削がれた。
反対に彼女の渾身の突きを受け流す都度、魔王の持つ撃魔の剣は徐々に光の強さを増して行く。
このままではと、虚を突いて彗は黒い炎を差し向ける。
が、それすらも微塵の躊躇もなく魔王は軽々と斬り伏せてしまう。
「残念だったな」
「くぅッ……」
炎を薙ぎ、返す魔王の剣をどうにかはじき返す彗。後方に飛び退き、彼女は大きく息を吸って動揺した気持ちを整えるようにゆっくりとその息を吐きだした。
じりじりと間合いを詰める魔王に彼女は鋭い眼差しと共に剣を向ける。
「万策尽きたのならそう言えばいい」
躍りかかる魔王をひらりとかわし、彼女は再び妖剣をそのドレスに取り込んだ。
「それは、どうかしらね。」
魔王が予想だにしない不敵な笑み。
この期に及んで他に何か策でもあるというのか?
追い詰めているはずの魔王に嫌な予感が付きまとう。
ふわり。
不意に魔王の目の前を淡雪のようなものが舞った。
ふわりふわりふわり。
魔王自身と剣に触れては消えてゆくそれ。
また彗が蝶を作りだしたのかと身構えた彼の手にひとひらの羽根が触れては消えた。
「これで。もしもこれがダメだったらもう他に策はないわ」
独り言のように呟く彗に魔王が目を上げた瞬間。
彼女のその黒のドレスの背中から一対の翼が出現した。
両翼を広げ、なにもかも包み込むようにそれはものすごい速さで肥大化していく。
逃げられる?
ふわりと大地から舞い上がった彼女の意図を見誤った魔王が同じく宙を舞う。
するとその機会を待っていたように彼女の翼は一瞬で膨張し爆発すると八つの触手に形態を変化させた。
「馬鹿な!」
とっさに身を翻す魔王。
逃げる彼を捕らえようと黒のそれらは波のようにうねり、風のように旋回し、炎のように執拗に彼のあとを追う。
やり過ごし、一つでも数を減らすべく振りかぶる魔王だったが、その剣は呆気なくも簡単に弾かれてしまった。
木々を裂く音とともに触手たちが方向を変え再び魔王を捕らえようとする。
「後ろばっかりじゃないのよねぇ」
可笑しさを含む彗の声で前方を見れば。
後方にばかり気を取られていた彼の目に何本の触手が複雑に絡み合い先端を鏃に変えたそれが飛び込んできた。
紙一重でかわし垂直に飛びあがる魔王だったが、しかし後方から迫っていた触手たちすら吸収した巨大な鏃が大きく湾曲して勢いを増し再び彼を襲う。
ひうううッ。
嫌な音が彼の耳元を掠め、後方の岩をも砕き無秩序に木々を薙ぎ倒した。
「有り得ないだろうが……」
柄を握りしめる彼の手に汗がにじむ。
どうすればいい?
しかし自分の内に問う魔王に残された時間は少ない。
天に舞い上がった鏃がひたりと彼に狙いを定めたのだ。
その太い触手の根元には彗。
「これで終わりじゃないかしら?」
その言葉を合図にして鎌首をもたげていた鏃が真っ直ぐに魔王に向かって突っ込んできた。
どうする?
焦りで自分を見失いそうになるのを無理やり理性で封じ込め、魔王は自分を貫くべく飛んでくる鏃を見据え考える。
撃魔の剣であの炎は斬れる。斬れていたはずだ。と。
そしてそれさえ確かであれば、
「勝機はまだある」
自分を鼓舞するためにわざと口に出し、魔王は迫りくる鏃に向かって飛んだ。
「自殺行為じゃない!」
叫ぶ彗。けれどその攻撃の手を緩めるわけではない。
鏃が魔王の眉間を貫くかと思われた瞬間。
巨大な鏃は魔王の頬を掠り何本かの髪を切り落とすだけにとどまった。
大地に再度突き刺さる「無」。だがその勢いが削がれることはなく、地中を掘り起こしながら標的を仕留めるべくうねる。
一方、主流に同化していなかった触手で彗が魔王の姿を探す。
けれど己が作りだした「無」が突っ込んだ勢いで舞い上がった土埃に視界が遮られた彼女にはすぐに魔王の姿をとらえることはできなかった。
反対に魔王は一直線に彼女の懐を目指す。
彼は足もとから力を吸い取られることを覚悟でその触手の道を疾走していたのだ。
ようやく彗の視界が開けたとき、魔王は彼女のすぐ側まで迫ることに成功し、彼女が何らかの攻撃に転じるよりも早く、先端の鏃を強化するために逆に脆くなっていたドレスから伸びる触手の源を切り落とした。
「なぁッッ!!」
途端に一斉に消滅していく「無」の触手たち。
信じられないものを見るように見開かれた彼女の紫紺の瞳に魔王が映る。
「これで終わりだよ。彗」
墜ちて行く彼女に向けて最後の一太刀が走る。
淡い光が優しく彗を包み込み、そして彼女の纏っていた黒の炎は跡形もなく吹き飛ばされた。