第37話/祝福
決定的事実。
そんなものを突き付けられて、これ以上どうしろというんだ?
レジィの采配で男は魔王城にとどまることとなり、茶会は解散された。
本当ならば、ツィンクを捕まえて締め上げてやるところなのだが、今の魔王にそれは到底無理なこと。せっかく固めた覚悟などどこかに吹き飛び、ただ虚ろな眼差しで変わりゆく空の色を眺めていた。
淡い青色と紫色、それから夕日の名残の茜色が混ざりあう空に、静かに、しかし、確実に、夜の訪れを告げる藍色が降りてくる。
遥か彼方に輝く一番星。
開け放たれた窓の外には幻想的な風景が広がり、微かに湿り気を帯びた風が頬を撫でた。
「兄様?」
先ほどから私室の前を行ったり来たりする妹の気配には気付いていた。
しかし、魔王が招き入れるよりも早く、レジィは意を決してその扉を開く。
黒のドレスをまとい、きつめの紅をさした妹は、別れた時よりも少しだけ青ざめているようにも見えたが、昼間は気持ちが昂ぶっていたと察すれば、今目の前にある彼女こそ普段と変わらないようにも見える。
「どうかしたのか?」
できるだけ穏やかな声で迎える魔王に対し、レジィは思いつめたように切り出した。
「彗姉様のところへ行ってください。でないと後悔します。あのディルという男は私がなんとかしますから」
真っ直ぐに魔王を見つめる彼女の顔は緊張で強張っている。
大きな瞳を潤ませ、懇願する表情はいままでに見たことのない表情で、兄としては寂しさを覚えるほど自立したひとりの女性の顔をしていた。
「レジィ……」
口うるさい宰相に言われるであろうとは覚悟していたものの、それが思わぬ口から出てきたことで不覚にも動揺する魔王。どう言ったものかと言葉を濁すうち、彼はもう一撃思わぬ攻撃を受ける。
「誤魔化さないでください」と。
睨みつける妹の顔をまじまじと眺め、その表情からは逃げられそうにもないことを悟ると、魔王はくしゃりと妹の髪を撫でて苦く笑った。
「レジィ、彗はあの男を選んでいたんだ。今更俺が行っても煩わせるだけだろう?もういいんだ。それよりも、明日、あの男をリオネに連れて行く手配を頼めるか?」
「……兄様は本当にそれでいいのですか?自分の気持ちを伝えることもしないのですか?そんなの、おかしいです……」
唇を噛みしめ、レジィは溢れてくる涙をこぼすまいと俯く。
「好意を寄せた相手と結ばれることはしあわせなことだ。お前だってそうだろう?もし、仮にフロウから突然思いを伝えられたらどうする?困るばかりだろう。そういうことなんだよ」
握りしめられたレジィの手をとって、魔王は優しく笑う。
「それよりも、レジィ。ツィンクとのことは自分の意思か?あのクソオヤジに言い渡されて渋々、というわけではないんだろうな?」
「……違います。私の意志です」
急に涙を引っ込め、別の意味で俯いたレジィの耳が赤く色づいて行く。
「浮気はしないと誓わせたか?」
「もちろんです」
「良い夫になると?」
「誓わせました」
「お前を守ると?」
「言ってくれました……」
「お前を心から愛すると?」
「……ッッ!兄様!!」
湯気が出るほど顔を紅潮させたレジィがたまらずに悲鳴を上げる。
熱っぽい瞳で魔王を睨み、恥ずかしくてたまらないという様子で唇を震わせている。
「すまんすまん、ついからかってみたくてな」
くつくつと笑みをこぼす魔王に向かって、レジィは唸り、簡単には睨むことをやめない。
「兄様なんて嫌いです!」
ぷいっと、顔をそむける妹に向かって魔王はもう一度、すまんと、漏らすと、おもむろに懐を探った。
目的の物をゆっくりとした動作で懐から取り出し、魔王は反対の手で妹の手を取ると、それを丁寧に掌の上に乗せた。
「婚約の祝いにこれを。遅くなったが、おめでとう」
手渡されたのは小さな箱。不思議そうに獅子の紋章の入ったそれを眺めていたレジィだったが、はっと目を見張るともどかしげに震える手でその箱を開けた。
そして、現れたひと粒の宝石。
「これ……!」
昼間、ディルという男がお披露目した指輪にも引けをとらない大粒の宝石が白い手の中で輝いている。
温かな海の色をした新緑色の石を中央に、白銀の輝きを放ついくつもの小さな石たちがその周りを賑やかし、所々に見られる細やかな細工も含め、見た者誰もが息をのむだろう。
しかし、レジィの頬を伝う温かな涙はなにも宝石の輝きに感動したものではなかった。
こみ上げてくる懐かしさが堰をきり、彼女ははらはらと止めどなく流れるそれらをそのままに、感謝の意をこめて魔王を見上げた。
「これ、母様の指輪?」
「よく知ってるな。見せたことがあったか?」
「いえ、本物を見たのは初めてです。父様の部屋にあった肖像画で見たことがあって、それで」
なるほどなと、呟いて、魔王はレジィの頬に触れた。
「大兄様のご成婚の時に、ミン様の胸元に母様の首飾りを見たときにはすごく……、今だから言ってしまいますが、すごく悔しく思いました。あれは母様のものなのにって。盗られたような気がしたのです。でも、そうじゃなかったのですね?」
「そうだ。シャロムの妻になる女性には首飾りを、俺の妻になる女性には髪飾りを、そして、レジィ、お前が結婚するときにはこの指輪を授けるようにと決まっていたんだ。あのクソオヤジが唯一手放した母上の形見なんだよ」
「そうだったんですか」
次々にこぼれる涙を丁寧に拭う合間に、今ツィンクが現れたら妙な誤解をされそうだと、レジィを少し笑わせた。
「でも、どうしよう。今までミン様にはすごく失礼なことをしてきたような……」
「大丈夫だ。あのミン様がお前の心が分からなかったとでも思うのか?全てお見通しだよ。だから、何も心配することはない。これからは存分に甘えるといい。ミン様は懐の深い方だから」
はいと、呟いて、レジィは箱ごと指輪を胸に抱いた。
「しあわせになれ。ただそれだけが俺達の願いだ。俺もシャロムも、たぶん、あのクソオヤジも、ルゴも。もちろん、ミン様だってお前のしあわせを願ってる。きっと、国中が祝福してくれることだろう。だから、お前はしあわせになれ。悔しいが、これからお前の傍らに立つのはツィンクだ」
わかるな?と、優しく覗き込む魔王に、レジィは赤い鼻をすすりあげて、
「はい」
と、力強く頷いて見せた。
次もきりきり更新しちゃいます〜。