第31話/帰還
陽はまだ上ったばかりだというのに、魔族とヒトが入り乱れてのどんちゃん騒ぎ。
死闘が繰り広げられているはずの戦場は、どういうわけだか、飲めや歌えの大宴会場と化していた。
何がどうなってるんだ?
わざわざ「マオ」の姿になって帰ってきた魔王には到底納得がいかず、比較的酔いのまわっていない魔族側の兵士の肩を掴んで訊ねると、よく日に焼けた肌の彼は、
「本日無礼講だそうです」と、真顔で答えた。
「……なんだ、それは?」
と、こちらも真顔のマオ。
すると、彼はそっと彼女の耳元に口を持って行って、さらに続けた。
「ホラ、聞いてるだろ?月に一度、魔王軍も連合軍もいっしょになってやる親睦会だよ」
……聞いたことないぞ。誰が許可してるんだそんなもの。
しかし、魔国の主が知らずとも、目の前の兵士の言う親睦会は騒々しく盛りあがって行く。
見れば、全裸に近い格好で踊り狂う男たち。
その筋骨たくましい体躯にみっしりと生えそろっている腕や足や胸の体毛を見て、マオは憤りや困惑よりもぐったりと疲れが増した気がした。徹夜で夜通し作業した帰りにこの奇祭はあまりにも精神的に辛い。
チラリと、視線を走らせた先に、部下たちを従えて腹芸を披露する魔王軍総大将の姿を認め、ますます暗澹たる気持ちになったマオはおもいきり溜息を吐いた。
人波をかき分け歩み寄るうち、暗い顔をした彼女に気付いたフロウは、どうだとばかりにおかしな顔の書かれた腹部をみせつけて、がははと豪快に笑っていた。
「なーに、辛気くさいかおしてるんだよ!さ、ぐいっといけぐいっとー!」
しかも、裏声。そして、腹芸。腹話術のつもりなのだろうが、気持ちが悪い。
我慢しきれず、マオの姿の魔王はその野太い首に手をかけて揺さぶった。
「キサマ、うちが借金で火の車だと分かっていての所業か?親睦会ってのはどういうことだ?」
「いやいやいやー、これって親睦会とは別よ?ただの宴会。どっかの奇特な金持ちが差し入れをくれたってだけよ?もらったものはありがたくいただかないとなー」
魔王が凄もうとも、悪ノリ真っ最中のフロウは未だ裏声を止めず、腹に書いた唇を動かすべく身体を器用にくねらせる。が、これが魔王の逆鱗に触れた。
「なお悪いわ!!というか、腹で喋るな気味が悪い!!」
「がほッッ!!」
ついにマオの肘で脇腹を抉られてフロウの腹芸は終了。
「ッッッ……っててて、なんだよ。せっかくの差し入れが不味くなるだろうが。俺達の懐は痛んでないんだし?素直に楽しんだらいいだろ?」
「そういう問題なのか?」
「そういう問題だ。って、ああそうだ、お前はトクベツだったんだわー。おーい、ネル。このお嬢さんをお連れしてくれー」
にぱーと、笑うフロウの背後に威圧感たっぷりの大男が突然現れた。
後退りをしてよろめいたマオの体を簡単に捕獲すると、軍師付きのネルはその小さな体を肩に担いで無言のまま歩きだした。
「ッて、ちょっと待て!!どこへ行くつもりだ!!こんな宴会許されんぞぉぉぉぉぉ!!」
叫ぼうとなにをしようと、酔っぱらいの群れの中ではすべてが無駄。マオが暴れれば暴れるほど、道を開けて行くヒトも魔族も何かの余興と勘違いしてはやし立てるだけでなんの役にも立たない。海が割れるが如く、障害らしい障害もないまま、マオは魔王軍の野営地まで運ばれた。
見覚えのあるフロウ専用の建物の中からは人の動く気配とうまそうな肉の焼ける匂いが漂ってきていた。
マオを降ろしたネルは一言もしゃべらず、片目をつぶって微笑んでみせると、そのまま踵を返して去っていく。
取り残されたのは、マオただひとり。
耳を済ませば闘技場の方角からは乱雑な人々の声が聞こえる。しかし、今、マオが立つその場所は鳥がさえずる声の方が大きく聞こえ、なんとも不思議な感覚を味わっていた。
ぼけっと、目の前の建物入るべきかどうか思案していると、不意に、扉が内側から開かれた。隙間から顔を出したのは、ついさきほどまで一緒に片付け作業をしていた全身真っ黒の男。
相変わらず愛想のない顔でぼそぼそと、
「どうぞ、彗姫様がお待ちです」と言うのだった。
強制的に湯浴みをさせられ、用意された男物の大きな衣服を身につけたマオ。そして、案内された食卓には、色とりどりの料理の山が用意されていた。
「どうぞ」
椅子を引いて黙って去っていった彗の従者とは入れ替わりに、今度は青い眼の少年が酒の入った瓶を抱えてやって来た。
「魔王様、どうぞ元の姿でごゆっくりとおくつろぎください。もうすぐ彗様がいらっしゃいますので」
口調は柔らかに、しかし、敵意むき出しの瞳で表情一つ変えない少年はフェバ酒を注ぐと、一礼というよりも冷やかな一瞥を置いて去って行った。
歓迎されているのか、そうでないのか。
首をかしげながらもマオから本来の姿へと戻ると、魔王は注がれた淡い金色のフェバ酒を傾けた。透明な杯の底から立ち上る細かな泡。最初は多量であったそれも、時が経てば徐々に少なくなっていき、とうとう最後の気泡が表面まで上って消えたのを眺めて、彼は最後の一口を飲みほした。
「4年熟成させたものなんだけど、どうかしら?わりと口当たりがいいでしょ?」
衣擦れの音とともに現れた女性がよどみのない所作で魔王の空の杯をもう一度金色の液体で満たした。
「彗?」
見紛うばかり妖艶に微笑む女性の姿に、魔王は心の底から驚いた。
胸元と肩がむき出しの漆黒のドレスは細い腰の線を強調し、ざっくりと大胆に割れた裾からは白くしなやかな足が見え隠れしている。そして、銀色の短い髪には大きな、漆黒の蝶が飾られていた。彼女が動くたびその羽がひらりひらりと舞う。
「お腹空いたでしょ?好きなだけ食べるといいわ。けっこうがんばって作ったんだから」
目のやり場に戸惑っている魔王などお構いなしに、彗はよく焼けている獣の肉を手際よく取り分けていく。最後に、自分の杯にも酒を満たして彼女は魔王の向かい側の席に腰を据えた。
「とりあえず、乾杯でもしましょうか?」
「何に?」
「そうねー……」
素っ気なく切り返され、言葉に窮した彗は一度目を伏せてからにこりと笑い、杯を目の高さまで掲げて言った。
「とりあえず、それぞれの未来に」
「……」
魔王は無言のままカチリと己の持つ杯を合わせた。
「あまり、嬉しそうじゃないのね?」
一口だけ金色の液体を口に含み、指を組み合わせた彗が泡立つフェバ酒と同じ金色の瞳で魔王を正面からとらえた。まるで、愛しいものを見つめるような情愛のこもった視線に、耐えきれず、魔王は視線を落とす。
いつもとはちがう、女性らしいやわらかい表情を見せる彗に魔王の体の内側はすでに熱を帯び始めていた。
「いったい、何のつもりだ」
努めて冷静にふるまうつもりでいるのにもかかわらず、彼の声は少しだけ上ずっている。それが己の動揺をさらけ出しているようで、魔王はますます不機嫌そうに彗から視線をそらしてしまう。
「お礼だって言っておかなかった?あのタヌキを追っ払えたし。それに、こちらの手落ちの尻拭いまでしてもらったんだから。そのお礼よ。あぁ、食後にはおっきなプディンも焼いておいたから、楽しみにしていて。あとで蓮に運ばせるわ」
「……蓮か。あいつは本当にあんたの従者なのか?」
「えぇ。そうよ」
小さく切った肉を口に運び、咀嚼する彗。
「なぜそんなことを聞くの?何か気になることでも?」
「いや、別にそういうわけでは……」
言葉を濁すように魔王は杯をあおった。そして、次の言葉を考えるよりも、手元にあった香ばしい匂いのする小さなパンを口にした。やわらかく、かみしめるたび変わった香りが口いっぱいに広がるそれは、猛烈に魔王の空腹感を呼び戻した。
懐かしい味のするスープ、獣の肉、今まで見たこともない魚や、一見遠慮したくなるほど真っ黒に焼けた野菜などをものすごい速さで平らげてゆく。
「誰もとったりしないわよ」
彗がにこやかに見つめるなか、魔王は用意されたすべての料理をかきこんだ。
そして、大体の皿を空にし、満足げなため息をつくと、継ぎ足されたフェバ酒を手に彼は今日はじめて彗を正面から見た。
「帰るのか」
「ええ。残念だけど、母上と約束した期限なの」
「そうか」
それ以上の言葉が思いつかなかった魔王は、得体の知れない胸の中の靄を晴らすべく、手の中の酒を勢いよく飲みほした。
続きます〜。