第28話/墓穴
ザーク城を闊歩する魔王は、足取りも軽く、すぐに北の塔に隠された地下牢を探り当てていた。
兵士たちは間の抜けた人形のように立ち尽くすばかりで誰も魔王の歩みを止めることはできない。いや、そればかりか、魔王の姿さえも追うこともできず、とても侵入者の足取りを乱すどころではない。
魔王が、ザーク皇国の時間を奪ったのだった。
次いで、彼は適当な人間の時間を動かして自白させながら、だんだんとネリネの閉じ込められた牢へ近づいて行く。誰の血も流さず、静かに、ただ欲しいものだけを奪っていくこのやり方に、魔王は我ながらよいことを思いついたものだと至極ご満悦の様子で、鼻歌交じりに冷たく湿った地下牢への階段を一歩一歩降りていく。
そして、塔の番兵が言っていた通り、階段のちょっとした踊り場に隠し通路の目印を見つけた。
重く湿り気を帯びた石どうしが傷つけ合う音とともに、ひとひとりがどうにか通り抜けられる入口がぱっかりと口を開ける。ただ闇が広がる空間に足を踏み入れると同時に、魔王は己の手に光を生みだして、迷うことなくしっかりとした足取りで奥へ奥へと向かう。
細い窮屈な闇の中を道なりに進み続け、そして、一番奥まった所に鉄の扉を見た。
「これか」
つぶやいて、魔王はその扉の鍵を壊して押し開く。
甲高く、妙に耳障りな音をたてて開いた扉の先には見張りのものと思しき男がひとり、椅子に座ってろうそくの明かりでなにかの書類に目を落としていた。無論、彼もその指先すら動かすことはない。ゆらゆらと揺らめく小さな明かりだけが魔王の侵入に気付いた。
椅子に座った男の背中には頑丈な鉄格子。その先にこそ、探し物が隠されているであろうことは疑う余地もなく、魔王はその意味を成さない鍵をくしゃりと壊した。
鉄格子をくぐり抜け、割と広いその中を光をかざして歩む。
すると、数歩移動したところで小さな塊に目が止まった。
手負いの獣のように体を丸め、頬には無数の涙の跡があったが、外傷は見当たらなかった。小さな手には何かの植物の残骸が大切に握りしめられており、祈りをささげるように一心に何事かを呟いていた様子で、少女はその時を止めていた。
可哀想に。
こんな真っ暗な牢にひとりきりで閉じ込められることがいかに残酷なことか。夜も昼もなくただひたすらに愛する者の名を叫んだのだろう。絶望しそうになる心で孤独な眠りをやり過ごすことの恐怖は計り知れない。もしかすると、ミンの警告したように生きる気力を失いかけていたのかもしれない。
「今、助けてやるからな」
少女の時を動かすべく、魔王が少女の額に手を翳した時であった。
突然、すらりと冷たい光を放つものが魔王の喉元にあてがわれた。
決して魔王が油断していたわけではない。にもかかわらず、彼は背後からの敵襲を許してしまったのだ。
「その少女には指一本触れさせませんよ」
男の低い声が牢の中に響く。
一寸の隙もないその声に、魔王はくつりと切り落とされそうな喉で笑った。
「ザーク皇国の者ではないようだが一体何者だ?」
「それはこちらの台詞ですね。国中のすべての人間の時を止めるとは、あなたこそ一体何者なんです?」
「なに、名乗るほどのものではないよ」
「そうですか。それではこちらも素性をさらすわけにはまいりませんね」
しばしの沈黙が訪れる。
そして、屈みこんでいた魔王はゆっくりと立ち上がった。もちろん、突きつけられた剣も同じように魔王の喉元に付いてくる。
「信じるかどうかは別だが、この子を救わないことにはある女性が不幸になるそうでな。別にそんなことは知ったことじゃないんだが、あとでねちねちと恨み事を言われたんではたまらない。そういう訳で、悪いがこの子は俺が家族のもとに届ける」
剣を素早く素手で弾き、少女を奪うように抱いた魔王は改めて剣を構える男と対面した。
「そうですか。それじゃあお願いします。……なんて、言うはずないでしょう。こちらも主の命運がかかっているんです。さぁ、その少女を渡して下さい」
右脇に剣を構え、男はいつでも魔王の体を貫けるように腰を落とす。
その鋭利な瞳を見据え、魔王は一瞬我が目を疑うように目頭を押さえ、もう一度その敵対する男の顔をまじまじと見た。
「あんた、エルシーと一緒にいた……。ルシカの闘技場で会ったことがあるよな?」
「何を仰っているのか分かりませんが、私はつい先日までマルーン国に滞在しておりました。ルシカへはほんの数時間しか滞在しておりません。人違いでしょう。もしくは、そういった戦術なのですか?」
ふんと、男は鼻で笑うと、魔王に向けて切っ先を放った。
しかし、一撃目はあっさりと魔王の手で跳ね返され、二つめは刀身を片手で易々と封じられてしまったのだった。
男が弱いわけではない。ただ、相手が悪かった。
己の魔力で鋼と化した手でその剣をはじき返すと、魔王は悠然と笑みを浮かべる。
「悪いが、一刻の猶予もない。日の出前にルシカに戻らねばならないのでな」
「……もしかして、その子を兄のもとへ届けるのですか?」
男の構えなおした剣が微妙に躊躇いを見せた。
「そうだ。たしか、バティウスとかいう……」
そこで、魔王の言葉が途切れたのは、男の剣のせいではなかった。
「おにい、ちゃん……?」
時を止めたはずの少女が、肉親の名に反応して魔王の呪縛を自らの力で打ち破ろうとしていたのだ。魔王の腕の中の小さな体が小刻みに震えだし、その振動が次第に魔王の体に、そして、ついには建物全体までもが大地震のように揺れ出した。
「なんだ!?」
慌てて少女の時を戻した魔王であったが、すべては遅かった。
少女は凄まじい魔力を放出しながら魔王の手を離れ、堅牢な石壁を破壊すると、その小さな体でするりと牢の外へ抜け出してしまった。
「あ゛……、マズイな……」
「……で、すむわけないでしょーがッ!!一体何がどうなったんですかッ!どうするんですかッッ!?」
一度は下げた剣を再び魔王に突きつけ、男はずいずいと魔王に詰め寄る。一方の魔王は、だらだらと冷や汗をかきながらその剣先を指先でつまんで苦笑いを浮かべている。とうとう、ネリネがくりぬいた壁まで追い込まれると、魔王は媚びるように男に向かって言った。
「いや、その、悪いんだけど手伝ってもらえるか?なんか、嫌な予感が……」
どっこおおおおおおおん!!
魔王が言い終える前に、どこからともなく恐ろしい破壊音が轟いた。
続いて、耳をつんざくような人々の悲鳴。
「とりあえず外に出てみようじゃありませんか。このすっとこどっこいがッ」
ネリネが作った壁の穴を大きくして外に出て行く魔王とは反対に、男は剣を鞘におさめ、目覚めたばかりの監視の男の襟首を掴んで駆けだした。
塔の外に出てみれば、その天辺が吹っ飛んでおり、無数の残骸が地上に瓦礫として投げ出されていた。
腰を抜かしている番兵に向って引きずってきた男を放り出すと、彼は皮の手袋で自身の苦渋に満ちた顔を覆った。
「どうしてこうも大ごとになるんだか」と、呟いて。
そうだ、うちはコメディだった!ってことで。笑