第26話/魔眼
面倒なことになったもんだ。
ふうっとため息を吐いて、魔王は一気に空間を飛んだ。
「お早いお帰りですね、魔王様?」
魔王城の一室で、主を出迎えたのは宰相のルゴとレジィの身辺警護の任についていたツィンクのふたり。
深夜にもかかわらず、彼らは普段通りの出で立ちで、さしたる緊迫感もなくのんびりと魔王をルゴの執務室へ誘った。
「トレニアの集落はどこにあるんだ?」
「西の大陸、ザーク皇国とタルダ国との境、コーレアの森の中でございます」
西の大陸の詳細が書き込まれた地図を広げて、ルゴが指さすのは、森というよりもヘリオドロープ山の山頂付近。寒暖差の激しい不便な土地に、かつての盟友たちが追いやられていたことを思うと、魔王はチクリと己の胸が痛むのを感じた。
「それで?そういった情報は入ってきているのか?」
「部下を遣りましたところ、村は火を付けられたようで全焼していました。しかし、長のランサス様をはじめ、けが人は多いようですが死者はいない模様。200人前後の人々が近くの洞窟に隠れているのを発見しました」
ツィンクが報告書を読み終えるのを待ち、魔王は改めて、そのうっすらと笑みを浮かべる男の顔を見据えた。
「それで、人質の少女はそこにいたのか?」
「いえ……、ネリネという名の少女らしいのですが、その子と兄のバティウスだけがザーク教徒らに連れ去られたらしいのです」
「わかった。……ツィンク、悪いが誰か使いの者……いや、お前が直接レミアムまで行ってミン様をお連れしてくれ。それから、トレニアの民をこの城にお連れするように手配を頼む」
「承知いたしました」
軽く頭を垂れ、ツィンクは音もなく消えた。
部屋に残された魔王とルゴは、壁に掛けられた大きな鏡をのぞくために数歩移動した。そこに映し出されているのは、昏々と眠る彗の姿である。レイであった時に身に付けていた飾り気のない男物の服飾は取り払われ、白い肌に映える真紅のドレスに身をつつまれ、豪奢な宝石で飾り立てられた、生気のない、まるで人形のようなお姫様。
「悪趣味だな」
「はい。彗様には澄んだ青がよくお似合いです。……大方、魔族の呪いによって眠っているとでもいうつもりなのでしょう。ゲスの考えそうなことです」
珍しく語気を粗めるルゴに対し、魔王はくつりと笑みをこぼした。
「いっそ、ザーク皇国を潰してしまうか?どうせ、我々は魔族だ。魔王が国をひとつ滅ぼそうと何も珍しいことじゃないだろう?むしろ、向こう側の連中はそれを望んでいるのではないか?」
長椅子にどっかりと腰を据え、頬杖をついて可笑しそうに魔王が笑う。
彗やルゴたちが望むとおり、「魔王」らしい魔王であるならば、ヒトの国の一つや二つ潰してしまったとしても何も問題はない。むしろ、今までの歴史の中で魔族によって、あるいは「魔王」によって滅ぼされた国など一つとして存在しないことが不思議なのである。
それにもかかわらず、ヒトはすべての厄災を魔族の「魔王」の罪にする。
疫病も異常気象も、国同士の小さな衝突も、殺人も。ありとあらゆる恐怖の元凶はすべて魔族に、「魔王」にあると。
そうまで憎まれるのなら、わざわざ下手に出る必要はない。思う存分ヒトを踏みにじってしまえばいい。力のないものは力のあるものによって統制されるべきなのだ。
現魔王が父からその地位と権力を譲り受けたとき、彼は迷わず力を行使しようとした。先代魔王がマルーン王やシェン王と交わした約束など知るものかと。
親父……。
『優しい魔王になれ!』と、有無を言わさずにこてんぱんにされ、魔王城に閉じ込められて数年……。ちゃらんぽらんで寛大な先代魔王の思惑。それが今になってやっとわかりかけてきたころに、なぜ、ヒトは自分の神経を逆なでするのだろう。考えれば考えるほど、過去を思い出せば思い出すほど、魔王のはらわたは煮えくり返った。
「魔王様、まさか、本気でおっしゃられているわけではありませんよね?」
黙り込んで違うところに意識を集中させている魔王を、ルゴの感情のない瞳が射た。
先代魔王の意志を実子より色濃く受け継いでいる宰相は、その赤い瞳で魔王の思考を見透かし、返答次第によっては主とはいえ己のすべてをかけて阻止するつもりでいるらしい。高まって行く魔力の波動を感じながら、魔王は降参というように両手を挙げて見せた。
「冗談だ。冗談。これでいいんだろ?」
「そうですか。それでは安心いたしました。先代様の意志を踏みにじることは魔王様でも許しませんよ?先代様のご意思がいつか我々と、同志たちの未来を拓くのですから」
「長い目で見れば、な」
「そうでしょうか?現に魔王様は同志の少年と、ヒトとして国を構えるリオネの姫君をお救いになろうとしているではありませんか。そういったことの積み重ねが大事なのです。ついでに、彗様ととっとと婚姻を結ばれて、借金も帳消しにして、リオネとの関係をより強固なものにするべきかと存じます。だいたい、これだけ長い時間を異性と共に過ごされたのですから、そろそろ決断されてもよろしいのでは?」
「……ちょっと、マテ。どうして話がそっちに行くんだ」
「いいえ、少しも待ちません。いいですか、魔王様。今回のこの件がすんだら、ばしっと彗様に結婚を申し込むのですよ?」
「はぁ……?」
絶句して赤面する魔王にルゴは容赦なくたたみかける。
「いいですか?彗様の弱みを握れる絶好の好機なんですよ?わかってらっしゃいますよね?エルシアーシャ様に逃げられた今、魔王様にはやはり彗様しかいらっしゃらないので……いひゃひゃひゃひゃひゃ、いひゃいいひゃい!!」
握り拳を突き立てて魔王に迫ろうとしたルゴ。しかし、それはあっけなく阻止された。
顔をゆがめ、冷たい笑みを浮かべる魔王の手に力が込められる。
「おい、エルシーとのことをなぜ知ってるんだ?正直に吐け」
「いは、はの、ひょいとそこのかはみでのぞ……ふあああああああ!もげまふ!もげまふッ!鼻はやめてくらはいーーー!!」
「覗き見とはいいシュミしてるなぁ、おい!」
「すひません、ひょっとこうきひんでッ……」
「好奇心ですむわけないだろうがああああああ」
ついにキレた魔王がその手をルゴの首にかけようとした瞬間。
「あらまぁ、仲良しですこと」
のんびりとした声でころころと笑う女性が現れた。
淡雪のような髪をフードで隠し、闇にまぎれる漆黒のローブを羽織った女性。その隣には、先程までこの部屋に席を置いていたツィンクの姿。
「ミン様!」
魔王の両手を跳ねのけ、ルゴが救いの女神であるかのようにその名を呼んだ。
ちっと、舌打ちをして調子のいい宰相に一瞥をくれると、魔王は義姉の手を取って壁にかかった鏡の前へと誘う。
「こんな時間にお呼び立てして申し訳ないが、この少年の妹がどこにいるのか見てくれないだろうか?」
ミンが覗き込む鏡の中には、彗ではなく、その傍らに佇む少年が大きく映し出されている。
青く澄んだ瞳に強い光を宿し、固めた意志を一片も漏らすまいと口元を真一文字に結ぶ痛々しいほどの姿勢は、主に仕える従者のように献身的であった。
その一心に彗を守ろうとする少年の姿がミンの緑色の瞳にも映り込む。
一呼吸、そして、ふうっと大きく息を吐いてミンは瞳をそむけた。
「彼の妹は、ザーク皇国の城の地下牢に。一刻も早く救い出して差し上げて。衰弱して今にも命が消えそうだわ」
血の気の引いた顔で、しかし、支えようとする魔王の手をやんわりと断って、彼女は続けた。
「魔王様。お早く」
「わかった。では、ルゴ、ツィンク、後のことは頼む。ミン様、わざわざありがとうございました」
ミンに一礼し、踏み出した魔王の体はすでに消え、そして、瞬きの間に、彼は西の大陸に位置するザーク皇国に舞い降りていた。
ご要望にお応えして、久々のルゴ登場。そして退場。(おい)