第20話/恋敵
なにがどうなってこうなったんだ?
殺気立ったエリス嬢、彼女の鮮やかな回し蹴りで吹っ飛びながら、魔族の王、魔王はこっそり泣いた。
闘技場の外、連合軍の野営地に忍び込んだ魔王はすぐに敵将の居所を突き止めた。
簡易的な布張りの住居が立ち並ぶ中、そのほぼ中央にしっかりとした煉瓦造りの建物が一つ。それこそ、魔王の初恋の相手であり、連合軍の総大将たるエリスのために用意されたものだった。
魔王軍の陣営ではいまだ宴会が催されているというのに、こちらでは所々に配された見張りの兵士たちをのぞいては動く者の気配は皆無。しかも、その見張りの兵士たちでさえ、久しく味わうことのなかった敗北感からか、動きは恐ろしく鈍く、あっさりと魔王の侵入を許してしまう。
ぼんやりとしたあかりの灯る寝床にうつろな瞳で佇む女性。その瞳がゆっくりと魔王を捕らえて、やっと表情が動いた。
「久しいな」
薄手の寝間着に身を包み、くつろいだ様子で席を勧めるエリスに魔王の胸が大きく波打ち、すぐには落ち着きそうもない。
しなやかな肢体、結い上げた豊かな髪と細いうなじ、そして、魔王の記憶の中の少女には感じられない、成熟した女性が放つあまやかな香り。
勧められたベッドに腰を据えることなく、魔王は彼女との距離を十分に保ったまま壁にもたれた。
「久しぶりだっていうのにつれないな。むかしはよく三人で夜更かししたじゃないか?」
「今とむかしとではあまりにも状況が違うだろう」
「確かにな。こっちは魔王軍討伐の総大将だし、そっちは魔王、なんだろう?」
「不本意ながら、な。それより、君はなぜこんなところにいるんだ?父君の後を継ぐはずだったろう?」
国の外に出ることを許されていなかったはずなのに。
魔王が飲みこんだ言葉を察してか、エリスは低く笑って答える。
「家出、といえば分かりやすいかな。どうせもう居所はつきとめられているんだろうが、今のところ我儘を聞いてもらっている感じだな」
「そうか。よかったな」
「ああ……」
どちらともなく口をつぐみ会話が途切れた。
魔王は目を伏せ、エリスも同様に俯いている。
窓の外で名も知らぬ獣が鳴いた。
「あの……な」
痛いほどの沈黙を破ったのは魔王。
寄りかかっていた壁から背をはがすと、彼は深々と頭を垂れて一気にまくし立てた。
「すまなかった!君を連れて海を見に行く約束を守れなかった。今更遅いかもしれないが、どうか許して欲しい。本当に、本当にすまなかった!」
と。
まくしたてられた側のエリスはたっぷりと間を置いてからようやく我に返り、
「いや、あの時はこっちこそ悪かったよ。我儘言って困らせたのは私の方なのに、ひどいこと言ってごめん」
言いながら魔王の肩に手を置いた。
「あのあとさ、城に来なくなっただろう?ずうっと。シャロムと父君と母君は遊びに来てくださるのに、あんただけいなかった。そのうち来てくれるだろうと思って待ってたのに、全然来てくれなくて。母君が亡くなった時に一度だけレミアムに行った時にも会えなかったし、さ。もうこのまま会えないのかと思ってた。だから、今日、あんたが私の名を呼んだとき、すごく嬉しかったんだ」
頬を染めあげるエリスが白い腕を魔王の体に巻きつけ、その懐に飛び込んだ。
「会えてよかった」
無邪気、無防備、無自覚な全開の笑顔を向けられた魔王の心臓が口から飛び出す勢いで跳ねる。
こどものじゃれ合いじゃないんだから。
魔王の心の悲鳴を知ってか知らずか、はたまた彼を試しているのか、エリスはまるで幼子のようにそのやわらかな頬をすり寄せて、「懐かしいよなぁ」とか「会えてうれしい」だとかを繰り返している。
両手の持っていき場に困り、文字通りお手上げ状態の魔王にエリスが犯罪的な上目遣いでとどめを刺す。
「今だから言うけどな、あんたのこと好きだったんだ。だからさ、あんたが遊びに来なくなってすごく寂しかったんだ。嘘つきなんて言って悪かったよ……」
はにかみながら嬉しそうに喋る彼女の口は止まることなく動き続けているというのに、魔王の耳には入らない。ただ一言、彼女の言ったその一言だけが繰り返し繰り返し脳内を大音響で響き渡る。
好きだったんだ、好きだったんだ、好きだったんだ、好きだったんだ、…………。
ぶつんと、魔王の中の何かがぶち切れた。
「エルシー!!」
思いのたけをぶつけるようにその名を叫び、彼女を抱きしめようと手を伸ばしたのだが、一歩遅かった。
「はいはい、そこまで〜」
どこから生えたのか、男がひとり、魔王に絡みついていたエリスを素早く引きはがして自分の懐に収めている。
魔王とそう変わらない背格好の男は未だ旅支度を解いておらず、大きなマントでエリスを包み込んでは悪戯っぽい目で彼女を覗き込む。そして、ゆっくりと魔王を見据え、勝ち誇った笑みを浮かべて、言い放った。
「悪いが、俺の女に手出しはさせない」
魔王のガラスでできたチキンハートは無残にも木端微塵に砕け散った。もはや細かく砕けすぎて修復は不可能。拾い集めるのも困難なほど粒子化してしまった心とともに、魔王は膝をつく。
「ふッ、あっけない。さー、邪魔ものは片付けたし、思う存分いちゃいちゃしよう……ふがッ……!」
「うるさい。というか、なんであんたがここにいるんだ?国はどうした?」
エリスの拳をそっと握りしめ、滴る鼻血はそのままに男がにっこりと笑う。
「やだなぁ、エリスを迎えに来たんじゃないか。まったく、城を抜け出すなんてよくないぞ。心配しちゃったじゃないか」
コツン、と愛しいひとの額を小突く男の頬にエリスの拳が容赦なくめり込む。
「いいから、とりあえず離せ」
「もーう、エリスったら相変わらず照れ屋……ぐはッッ……」
「それ以上息をするな、このド変態がッ!」
無慈悲な一撃で床に沈んだ男を見下ろし、エリスは心底うんざりしたように深い深い溜息を吐く。乱暴に髪をかきあげ、かきむしり、そうしてがっくりとその細い肩を落とす。
「エルシー……?もしかしてそいつは君にとって迷惑な男なのか?」
「もちろん!こんな変態お断りだッ!」
躊躇なく高らかに宣言された言葉に、魔王は活気を得て立ち上がり、栗色の髪をした男はさめざめと泣いて床に這いつくばった。
「そういうことなら、エルシーは俺が護る」
「本当か?」
手に手を取って見つめ合うふたり。
しかし、その親密な空気に殺気立つ男がひとり。
「ふぅーん?俺からエリスをかっさらおうなんて、いい度胸じゃねぇか。おい、そこの優男、俺と勝負して勝った方がエリスといちゃいちゃできる、ってのはどうだ?」
「受けて立つ」
「そうか」
こうして、エリス嬢をめぐる戦いの幕が切って落とされたのであった。
たまには甘く行こうかと思ってみただけです。うへ。