第13話/借金
紙の上をびっしりと埋め尽くす数字に魔王の酔いもさめた。
利益を示す黒い数字などどこを探しても見つからない。その代り、損失ばかりを主張するまっ赤な、しかも、とんでもない額面を表す数字たちが洪水のように魔王を襲う。
彼はくらりと揺れる己の頭を抱えると同時にその紙から一旦目を外し、テーブルの上に溢れる封書を呆然と眺めた。そのほとんどには「督促状」という聞いただけで胃がきりきりと痛む文字が刻まれている。
確認したくもない、というのが本音なのだがそうも言っていられない借金大魔王、通称魔王は、手近にあったものをそっと開封してその中身に目を落とした。
紙に書かれていた文字たちが一斉にふわりと舞いあがる。
まっさらになった紙の中央部に集結したそれらは、一つの塊になった後、ある男性の姿を形どって落ち着いた。紙の上に直立した小さな男が深々と頭を垂れ、そのままの姿勢で魔王に語りかける。
『親愛なる魔王様。この度は突然このような不躾な……くふぅ……。さささ、早速ですが、時間もございませんので本題に入らせていただきます。ズバリ、貸し付けた金額の利子分だけでも返済していただけないでしょうか?ここだけの話ですが、サンテノーラ様の機嫌が悪いと私めの生傷が絶えま……げふぅ…。と、とにかく、そういうことですので、近日中にお願いいたします!!』
最後には涙をこぼしながら、その男、リオネ国サンテノーラ女王の夫にして宰相を務める周功の影はかき消えた。
「リオネからの督促状…ですね」
「らしいな。あとはマルーンとシェンからの督促状か……。しかし、ここまで悲惨な状況だとは予想外だ…」
「いよいよ戦況が思わしくないようですね。ここのところ負けが込んでいるようですし、兵士たちの士気が下がっているようです。引き上げ組をご覧になりましたか?」
「ああ、見た」
夕刻時、フロウ配下のレテという赤髪の男が率いてきた、戦場からの帰還兵たち。ふた月ぶりに帰郷した彼らの顔に安堵の表情はなく、疲弊しきった青白い顔で家族や友人たちの出迎えを受けていた光景を思い出し、魔王は深いため息をついた。
魔族に人がかなうはずがない。それは、第一に魔族が人よりも圧倒的で強大な魔力を持って生まれているため。第二に、人は魔力を持って生まれないため。
人をはるかに凌駕する力を持ちながら、殺し合いを好まない魔族だからこそ、今まで人との均衡が保たれていたという事実が足元から揺らぎ始めていた。
『人を殺すことなく、同胞に犠牲を出すことなく、人との均衡を保つために戦え』
それが先代魔王の言葉であったというのに。
「我々が押されているのは紛れもない事実、というわけか」
「はい。届けられたフロウの報告書によりますと、マルーン王が配した若い大将が指揮官となってからは我々の軍は立て続けに大敗をきしております。借金がかさむようになったのも、この大将が指揮をとってからのこと。つまり…」
ルゴのまっ赤な瞳が魔王の黒い渦を巻く瞳とぶつかった。
「つまり、その指揮官をつぶしさえすれば、こちらが大勝を収めることができる。即ち、借金返済のめどが立つ、というわけか」
「はい。ですが、あのフロウでさえ苦戦を強いられている様子。どうなさいますか?」
「どうするもこうするも、俺が出るしかないだろうな」
「ええ、そうですね、ここはひとつ魔王様が……って、えええええ?今なんとおっしゃいました?私の耳が正常に働いているのなら、今魔王様自らが戦場へ出るという風に聞こえたのですが!え?空耳でしょうかッ?いやいやいや、天と地がひっくり返ろうともまさか魔王様がそんなことを言うはずが……ふべしッ…」
魔王の拳が容赦なくルゴの顔面にめり込んだ。
「だから、少しは敬意を払うということを知らんのか!」
「いえいえいえ、ご冗談を…。お側にお仕えすること60年、魔王様が魔王様らしいことをするのを私は見たことがありません!魔王城にて日がな一日だらだらしている姿しか見たことがないのです!口を酸っぱくしてどこかの姫を攫ってくるよう進言しても聞く耳を持たず、戦場へ出て暴れるなりしてくることをお勧めしては欠伸をされ、もうこの上はごく潰しとして放置しておくほかないと腹をくくっておりましたのに!ああ、そうです、それが魔王様の本来のお姿でした……。ということは、先程のはやはり私の空耳、願望の末の幻聴であったのでしょう。ううううう……」
「いや、泣きたいのはこっちなんだが…。というか、今さらっと失礼なことを言ってないか?おい」
「ご冗談は芸術感覚だけにしておいてください!!魔王様が戦場へおいでになるなんて!そんなことがもし本当ならば、でっかい火だるまの石が降ってくるに違いありません!!」
その時、突然窓の外から真っ赤な光が差しこんだ。
さらに大地を揺るがす衝撃が走る。
禍々しいその光と音の正体を確かめるべく二人が椅子を蹴り倒して窓を覗くと、空一面に燃え盛る巨大な浮遊物がレミアムを包囲していた。
「火だるまの…石…?」
ルゴが絶句し目を剥く。
すると、その火だるまの石を掌の上で転がす巨大な女性の姿が浮かび上がった。
美しい銀色の髪をすっきりと結い上げ、素晴らしい宝石がちりばめられた王冠を頂いた女性。切れ長の瞳がゆっくりと動いたかと思うと、ひたりと魔王の姿を見据えた。
「ごきげんよう、魔王様。私の姿はちゃんとそちらに届いているであろうか?」
にっこり。弧を描いた口元も、涼しげな目元も、あの暴力王女そっくりであった。
「久しぶりだな。女王サンテノーラ。そんな物騒なものを持ってどういった用向きだ?」
「おやまぁ、ずいぶんと生意気な口をきくようになったものだね?…まぁ、いいわ。それよりも、こちらから出した書簡は手元に届いているのかしら?貸したものを返せと言っているだけなのだけれど?それとも、まさか踏み倒す気ではあるまいね?」
鋭く光る眼が魔王を静かに威嚇する。
「まさか。我らが唯一の同盟国を裏切るはずがない。借りたものを返すのは道理だ」
「ほぅ。ならば安心した。では近日中に返すというのだな?」
「もちろん。きっちり耳をそろえてお返しすることを約束しよう」
威厳たっぷりに胸を張る魔王にサンテノーラの幻影はむっつりと口を結び、
「確かに約束したぞ?魔王よ」
高らかな笑い声とともに火だるまの石を消し去ると、彼女自身も青い闇のなかに消えていった。
取り残された魔王以下、兵士たちの慰労会兼壮行会に出席していた人々は、サンテノーラの腹黒さの滲みでる笑顔に戦慄を覚え、自然と身を寄せ合ってひと固まりになる。
帰って来た者と入れ替わりに戦地へ赴く兵士たちの不安が膨れ上がることはもちろん、その家族も安心して送り出す心境ではないだろう。
男も女もこどもたちも老人もすべての人々がテラスに現れた魔王を注目する。
国民の不安や恐怖、それにあの女王サンテノーラに大口をたたいてしまった自分の動揺さえもすべてひっくるめて、魔王は拳を高く振りかざした。
「私も共に戦地に赴く!皆で力を合わせてこの難局を乗り切ろうではないか!!」
おおー…、国民の間に微かな歓声が沸き起こる。
そのうち、血気盛んな若い男たちが拳を高く突き出して、「魔王様とともに!!」と口々に叫び始めた。
「そうだ、皆で力を合わせて、借金全額返済ッッッ!!!!」
戦う意味が少しばかりずれた魔王の雄叫びとともに、国民は力強く拳を掲げるのだった。
魔王もつらいよ?(笑)