第12話/誘惑
それで?
瞳孔全開でにたりと笑った彼女は、鬼と化した。
次に、屋敷には男の断末魔が響き渡った。
「いい考えだと思ったんですが」
「あー、確かに、リオネにはしてやられてるかななぁ」
シャロムとルゴが紅茶を片手に談笑し、ツィンクがゆったりとくつろいでいるところへ、シャロムの妻のミンがお代りの紅茶と茶菓子を持って入ってきた。
「あなた、仲裁に入らなくてよろしいの?」
微かに眉根を寄せ、ミンは怪訝そうに顔を曇らせた。
雪を連想させる真っ白い髪を結いあげ、深い森の色のドレスをふわりとなびかせながら夫の肩に添えた彼女の手は、温かい血が通っているとは到底思えないほど白い。
「心配ないさ。俺達が手を出したら約束が反故になるからな」
白く細く華奢な指に、夫のよく日に焼けた温かそうな大きな手が重なると、夫人は少し表情を和らげて身を引き、空になっていた三つのカップに紅茶を継ぎ足しに回った。
シャロム、ルゴ、ツィンクの順に温かい紅茶を差し出すと、最後に自らの分を注いで、ミンは腰を落ち着かせた。
「いつもでしたら過保護すぎるほどですのに、珍しいこともあるのですね」
魔王様に何を吹き込んだのです?
きらきらと輝く緑色の瞳がシャロムとルゴを窺い、素知らぬ顔をして視線を泳がせる彼らからは情報を得ることができないと判断した彼女は、くるりと方向を変えて、眠たそうに頬杖を突いていたツィンクを見据えた。
「ツィンク様?レジィちゃんが休んでいる部屋の合鍵があるのですが?」
「はい。シャロムとルゴが結託して、彗姫を襲うように魔王様をけしかけたのでございます。彗姫を誘惑することができたら魔王城を完璧に修復するという約束で」
「な゛ッッ…」
自分も散々面白がっていたくせに、あっさりと裏切り行為に出たツィンクに二人の視線が刺さる。
「あら、そうでしたの?こんなに日の高いうちから、疲れ切った女性に対する仕打ちじゃあないと思ってましたのよ?そうですか、またあなた方の仕業ですのね?」
ざわりと、ミンの【魔眼】が揺れた。
「ミン様、レジィの部屋の合鍵…」
言いかけたツィンクににこりと笑いかけるミン。だがその瞳は決して好意的なものではなく、むしろ背筋が凍りつくほどの殺気を秘めていた。
「何か言いまして?」
「いいえ、何も」
ミンのいれた紅茶をすすりながら、ツィンクはそのまま石になった。これからくる怒涛の精神的攻撃の被害を免れるために。
一方で、ミンの静かな怒りをひしひしと感じていた二名は、身を切るような緊張感に耐えかねて腰を浮かしつつあった。
「ル、ルゴ、実は新作のフェバ酒があって、だな、…その、向こうで試飲してもらえるか?」
「あああああ、それはいいですね!ここ、こ、今年のはどうですか?ここここ、今年こそ、リオネに買い叩かれないようにせねばなりませんね…あは、あはははは…。ささ、参りましょうか…」
「あら、初物のフェバ酒なら今晩開けたらいかがですか?それよりも、そこに座っていただけるかしら?あなた、それにルゴ様も」
座れって言ってるのが聞こえないの?
地響きに似た精神的圧力に、ふたりはよろよろと元の位置に収まっていく。
「魔王様に彗ちゃんを誘惑させてどうなさるおつもりです?まさか、リオネのサンテノーラ様の弱みでも握りおつもりですか?(=そんな軽率なこと考えてやしませんわよね?)」
相変わらずの穏やかな表情の裏に何か黒いものが蠢く。
「第一、彗ちゃんをお嫁にもらっても何も変わりませんわよ?サンテノーラ様は強欲ですから(=ばかねぇ、あの商魂たくましいリオネの女王が娘を嫁にやったからってこちらを優遇すると思って?あの女狐にそんな甘い考えが通用するはずないじゃありませんか)」
ほほほほほ…、軽やかに笑いながら、才色兼備と常々噂されるシャロムの妻、ミンはポットから温かな紅茶をシャロムとルゴのカップに注ぎ入れた。
男二人は、きらめく宝石の瞳に見据えられて息をするのにも苦しそうに顔を歪めている。
「それに、彼女は降嫁するのでしょう?本当に狙うのなら時期女王の斎明、という第二王女じゃないかしら?(=出ていく第一王女より、国に残る第二王女を手玉に取った方がはるかに建設的だと思わなくて?というか、魔王様にそんな甲斐性があるかしら?)」
「それもそうですねぇ」
ねぇ?やり込められている二人をしり目に、ツィンクが見た目の物腰の柔らかさとは反する奥方の毒舌に同意するように目を細めた。
「だいたい、双方の気持ちも確かめずに、魔王城を修復する代わりに彗ちゃんを誘惑しろだなんて、そんな馬鹿げたことがありますか(=本当に男って生き物は女を何だと思っているのかしら?自分達の都合の良い道具としか考えていないわけじゃあないわよね?もしもそんな風に考えているのだとしたら…)」
「ひぃぃぃぃぃぃぃっっ!!すみませんでしたッッ!!借金をチャラにできると思ったらちょっと調子に乗ってしまいました!!すみません、本当にごめんなさいぃぃぃぃぃ!!!」
「待て待て待てッ、ミン、いや、ミン様、お、俺達が間違ってた!!悪かった!!謝罪する!!謝罪させていただくから、どうかその黒いオーラをおさめてくれッッッ!!!頼むッ…、いや、お願いだからッ!!」
シャロムとルゴが椅子から転げ落ちて土下座の体勢をとると、ミンはようやく背後に背負っていたおどろおどろしい気配を霧散させて、今度は本当の意味でやわらかくにっこりと微笑んで言った。
「そう?わかっていただけてよかったわ(=今度こんなくだらないこと言い出したら、次こそ消し炭にしますわよ?)」
別室にてミンが大勝をおさめていたころ、彗のために用意された寝室の床には、ほぼ消し炭状態のものが転がっていた。
その別名を、魔王城の王様、略して魔王という。
「こっちは眠いって言ってんのよ?睡眠不足と冷えは女性の敵だって教えたわよねぇ?えぇ?聞いてんのか?コラ?」
両手をぱきりぱきりと鳴らして、彗が這いつくばっている魔王を見下ろす。
ほんの少し前、ベッドで寝息を立てていた彗はとても可愛らしい生きものであったのに…。
「詐欺だ…」
独りでに出てしまった魔王の言葉にすかさず彗が反応をみせる。
「人の寝込み襲っておいてなんだと?」
ぐいと彗に胸倉を掴まれて引き寄せられると、魔王の目には見てはならないものが飛び込んできた。つまり、目の下にくっきりと見えるクマとかさついた肌と唇、それに右頬にちょこんと顔を出しているできものがひとつ。睡眠不足がもたらした産物に魔王がぷっと吹き出すと、反対に彗の眉間の皺はますます深くなった。
なによ?
険しい眼が魔王を刺す。
いつもなら、そのままにっこりと笑って悪態の一つでもつくか、もしくは無言で張り倒すのが彼女なのだが。
何が来るのかと待っている魔王の目前で、突然彗の体がぐらりと傾いた。手が魔王の胸倉から外れ、ゆっくりと前のめりに崩れ落ちていく。
「おぉいっ、なんだ?ちょっと?」
思わず抱きとめた魔王に、「ね、むぅ…」とだけ呟く彼女。重そうな瞼を何度か持ち上げようとしてはいるものの、すぐに力尽きて、魔王のぼろぼろの服に顔をうずめてすやすやと寝息を立て始めてしまった。
「彗?」
おいと、魔王が肩を揺さぶっても目を覚ます気配はない。
細くて温かい肩の感触に動揺した魔王が手を離せば、再び彗の頬は簡単に彼の胸にくっついた。
「おいおいおい…、襲ってくれって言ってるんじゃないよなぁ…」
『彗姫を誘惑して魔王城再建』
シャロムのからかう様な笑顔が魔王の頭をよぎる。
『なぁに、ちょっと既成事実作っちゃえばいいんですよぅ』
にやにやと笑って送り出したツィンクの顔もちらつく。
しかし、何よりも、腕の中にある柔らかさに心が揺れていた。
髪の毛先がきれいに切りそろえられてあらわになった細い首筋、ふっくらとした頬の線、それに、彼女を包む石鹸の匂い。魔王の腕を揺り籠代わりに眠る彗の睫毛を眺めながら、当の魔王は理性と野性の間で行きつ戻りつを繰り返しているというのに、彼女は幸せそうに規則正しく胸を上下させている。
「リ、リー…くぅ…ん」
と、時々例の魔獣の名前を呼びながら。
不意に、魔王はくつりと笑みをこぼした。
「やめた」
誰にともなくつぶやくと、魔王は彗を抱き起してベッドに戻そうと立ち上がった。
寝間着からのぞく彗の形のいいすらりとした足に一瞬気をとられながらもなんとか横たえ、彼女がはねのけた上掛けをたぐりよせてくるんでやると、魔王は静かにその部屋を出て、扉を結界で閉じた。
「結局、手を出さなかったわけですねぇ?」
「……覗き見とはずいぶん趣味がいいな、ツィンク」
魔王がゆっくりと扉から離れて振り返れば、そこには珍しい生き物を見るような目で彼を眺めているツィンクがいた。
「覗きではありません。心外ですねぇ」
「ほぅ。では、隣の部屋で休んでいるレジィにでも用があったのか?」
「えぇ、まぁ、野暮用があったんですがねぇ。私には解けない結界が張ってありまして、せっかくミン様から失敬してきた鍵が使えなくて困っていたんですよねぇ。魔王様、解いていただけませんか?」
「生憎だが、可愛い妹をくれてやるつもりはない」
ですよねぇ。と、呟くツィンクの脇をすり抜けて、魔王はもう一度湯浴みをするために歩きだす。
その手の中には古ぼけた小さな鍵がひとつ。
あっと、背中で大して驚いた風でもない声が聞こえたあと、彼はそれを握りつぶした。
ははは…艶っぽい話にはなりませんでした〜。
すみません!(土下座)