〜第3話〜棋能力者
朝日が昇る。ぼろぼろで低い街並みの中、ひときわ大きい建物がそびえていた。その窓から、領主プリアムはふふんと鼻を鳴らし、下を眺めていた。窓から見える街の景色、震える手で畑を耕したり、ゴミを漁ったりしている領民たちが見える。彼はこれほどまでになく愉快だった。ここからそいつらを見下ろすことによって、自分の偉大さがますます分かる。決して奴らが自分の高みに手をかけられないということが。
この世界はなんと素晴らしい世界なのだとプリアムは思う。将棋さえ強ければ何をやって構わない。将棋さえ強ければ弱き者からどんなものを奪おうとも文句は言われない。プリアムは【棋族】である。由緒正しい将棋強者の家に生まれ、富を受け取り、現に自分も凄まじい将棋の強さを持っている。この世界は【国家棋士】という成り上がりの役人を除けば、生まれながらの【棋族】たちが支配をしている。民たちが彼らに将棋で勝てない以上、この世界は彼らの思い通りになるしかないのだ。
「何と、美しき世界かな」
ゴミを貪る民を見て、プリアムは恍惚の表情を浮かべた。
「プリアム様」
侍従の者が声をかける。
「なんだ?」
「そろそろお時間です」
プリアムは「そうか」と楽しげに頷いた。今日また無謀にも下等な者が、叶いもしない夢を見て、自分に挑戦しようとしているのだ。
「くふふふふふふ」
その者を壊す妄想を浮かべ、表情を愉悦に歪ませる。しかも今日の対局はとりわけ特別な趣向をしてある。奴らをさらなる絶望に落とす趣向を。
◇◇◇
ディリスは高ぶりすぎた自分の気持ちを落ちつけるため、大きく息を吐いた。対局の間は、広いホールになっており、中心の座を観客席が取り囲んでいる。そこにいる全ての観客が対局の様子を見れるよう、砂鉄で盤上を示す魔法の大盤が高々とセットしてある。
観客席には多くの民たちが集結していた。皆、ディリスの知った顔たちである。彼女は彼らの期待の目に、にこやかに手を振った。だが、すぐに不審げな表情を浮かべた。これはどういうわけなのだろう?
今までプリアムは、挑戦者との対局は、ひっそりと人目のない室内で行っていた。今までの挑戦者たちは人知れず負け、人知らず葬られてきた。それが今日、下賤な者たちに指一本触れさせたくないとご大層に閉めきっていた館を開放し、皆をあえて呼び込んでいる。これをあちらの善意だと考えるほど、ディリスは純粋な少女ではなかった。
「君がディリスくんか、今日はよろしく」
いつの間にか、その男が手を差し出していた。領主プリアム。吐き気がするほど紳士的な笑顔を浮かべている。ディリスはそれを無視して聞いた。
「今日あなたが負けたなら、税制を改定してもらえるんでしょうね?」
「……卓の上を見てみればいい」
プリアムの言葉に促され、ディリスは視線を動かす。そこにあったのは【銀の棋盤】。将棋の結果に絶対的な権力を持たせるアイテムだった。
「安心したわ。勝てばいいのね」
「そういうことだ」
ふたりは向かいあって座った。観客席は人波で溢れそうになっている。その熱気が座の中心へ渦巻く。銀の棋盤が光り輝き、プリアムの目元に王将が現れる。ディリスの目元に玉将が現れる。そこからお互いの陣地が交互に光り、40枚の駒たちがセットされていく。
『コレヨリ対局ヲ開始イタシマス』
銀の棋盤のマジックヴォイスが勝負のはじまりを告げる。先手のディリスは静かに歩に指を伸ばした。
◇◇◇
『後手、3一角』
プリアムは不敵に駒を指した。
『先手、4四歩』
ディリスは血まなこで駒を進める。
『後手、5三角』
ディリスは息を飲んだ。こちらの攻めはことごとく簡単にいなされる。この男は強い。特に守りが恐ろしく堅い。まだこちらの駒はひとつ足りとも攻撃の糸口が掴めずにいる。しかもあちらの王将は堅牢な穴熊へ引っこんだ。攻めの短期決戦が得意のディリスにとって不利な展開である。このままではじりじりと押し負ける。彼女は決心を決めた。
『先手、四飛』
「……ほう」
プリアムは唸った。会場もどよめいた。なぜならそれは一見飛車のタダ捨てにも見える策だった。
ディリスは考えていた。このまま何も仕掛けなければ、待っているのは静かな負けだ。だからここは強引でも攻めなければならないのだ。
『後手、同銀』
飛車は取られ、すぐにディリスの陣地張られた。ディリスは歯を食いしばり、歩を進めた。飛車を自分のはらわたに呼びこむリスクと引き換えに、自らの歩を相手の陣地に入れる。攻めの将棋は自分の信条。ここからテメエの陣をズタズタに引き裂いてやる。その思いとともに彼女は歩を前に進めた。
「いけえええええええ!!」
そしてとうとう4四の位置にいた歩が、プリアムの陣地に入った……が……
『先手、4三歩、成ラズ』
「……は?」
ディリスの瞳孔が広がった。
「そうかそうか、まるで自らの胃を握りつぶすような思いをしておいて、成らないのか?」
プリアムはにひひと笑う。
「違う。そんなわけ……」
ディリスは確かに歩を裏返して置いたが、【銀の棋盤】に浮かぶ駒は、元の表面にひっくり返されていた。その様子が再現された大盤を見て、皆は「なんだなんだ」とおおいに騒いだ。
「なぁ、この私が『単純に』将棋が強いから、無敗でいられたとでも思ったのか?」
プリアムはディリスの表情を舐めまわすように見やる。
「あんた……まさか……」
ディリスの息は乱れた。間違いない。なぜ自分はそんなことに気がつかなかったのだろう。この男は……
「【棋能力者】……?」
「はははご名答だよ」
【棋能力者】。それは【銀の棋盤】での対局において、通常ではない駒の動きを導くことのできる特殊能力者である。香車に横への動きを追加させたり、金を二マス以上動けるようにしたり、そんな子どものズルのようなことを現実に可能にする者、それを【棋能力者】と呼ぶ。ディリスはそんな人間など見たことがなく、単なる都市伝説としか思っていなかった。
「どうだ。これが私の棋能力である【リテイニングレジーム】だよ。どんな駒であれ、私の陣地では絶対に『成ること』ができない」
ディリスは首を垂れ、棋盤を注視した。プリアムの陣地には紫色のもやがかかっている。
「ウソよ……。こんなのってないわ。こんなことが許されるわけないじゃない」
「ディリスくん。君や君の仲間たちはそう思うかもしれないね。けれど、将棋の神はどんな判断をしているかな?」
【銀の棋盤】は何事もなかったかのように、静けさを保っている。
「どうだ? 将棋の神はこう言っている。特別なる人間には特別なる権力が許されていると」
プリアムは高らかに笑う。観客席の民たちは口をすぼめて沈黙した。
「なぁディリスくん。私がなぜ今回、わざわざ金をかけこんなに盛大な対局ルームを用意したと思う?」
プリアムは彼女の顔を覗き込む。
「そろそろ君らに決定的に知ってもらいたかったからさ。私と君らの違いを。私が王だとするならば、君らは歩だよ。将棋というゲームにおいて歩は金になれるという希望があり、それを真に受けるバカがいる。だからこそ今回突きつけておきたかった。それが途方もない夢物語だということをな」
プリアムは右手を高く天に差しあげる。そしてディリスの陣地に入った飛車を動かし、龍に変えた。
「さあディリスくん、君の手番だ。遠慮なく指したまえ。クズはクズなりにその歩をまっすぐ歩かせて、私を楽しませろ。君たちにはそれしか生きている価値などないのだから」
ディリスの目には涙が溜まった。くやしさで一杯だった。けれど一言も言い返すことができない。確かにこの男の言う通りだ。自分たちは生まれながらの歩に過ぎず、あいつは王。絶対的な強者。将棋が全ての世界において、あいつに逆らおうなんて思いを持つことが思い上がりだったのだ……。
ボロボロと流れる涙。観客席の皆の顔が失望とあきらめに染まっている。ごめん……私は……。ディリスは皆に謝罪の言葉を発そうとしていた。
「代わろうか」
突如温かい手がが彼女の肩に触れた。彼女はゆっくりと振り向く。そこには、緊張感の弛緩した、穏やかな少年の顔があった。
「デホ……くん……?」
「ディリス、ここから先は僕が指すよ」
少年は、さらりと言った。
「何だ貴様は!!」
突如対局の場に乱入してきた少年に、衛兵が駆けより、押さえつけに行く。
「おいお前」
デホがプリアムに言う。
「なんだ少年?」
「ここから先は僕が代わりに指す。構わないよな?」
「……君は何者だい?」
「通りすがりの宿屋の客さ。彼女には色々お世話になった手前、恩返しをしなきゃいけなくてね」
「……」
プリアムは話にならんと衛兵につまみ出すように目で指示をする。
「それとも何かな」
デホは大声を出す。
「相手が僕ならば、自分が負けるとでも考えているのかい?」
デホの眼が鋭く光った。語気には、彼らしくもない威圧感が伴っていた。
「……、別に構わないよ」
プリアムは一瞬不快に顔を歪ませたが、すぐに鼻で笑って、座に座り直した。
「デホくん!!」
ディリスはデホにすがる。
「昨日こうやって君に助けてもらったからね。そのお返しをしなきゃ」
デホはにっこりと笑って座につく。
違う。もうゲームは進み、こちらの陣地にあちらの龍が食いついている。しかも奴の【リテイニングレジーム】の能力でこちらは駒を成らせることができない。もはや勝ち目はない。そしてデホは自分よりもはるかに弱いのだ。
「だめえ!! デホくん!!」
ディリスはなぜ彼が代わりに闘おうとしてくれているのかが分かっていた。プリアムは対局の敗者を八つ裂きにして殺す気だろう。そして奴の対戦相手の負けはもう確定的だ。だから彼は、デホは……。
「やめてよ!! なんでデホくんが死ななきゃいけないのよ!!」
泣き叫ぶディリス。けれど、もはや対戦者ではなくなった彼女は、部外者として衛兵に掴まれひきづられる。どれだけ抗おうとも、もう運命は決まっていた。
デホはひょこりとふり返り、笑みを送った。ディリスはじたばたするのをやめ、涙を止めた。彼女の瞳にじっと彼の笑顔が浮かんでいる。その笑みはあきらめではなく、「大丈夫」と言ってくれているようだった。