〜第1話〜銀の棋盤と少年と少女
少年は牧草の上で寝そべっていた。上手くもない控えめな鼻歌をかき鳴らし、青空と動きゆく白い雲を見上げた。このままのんびりと世の中が動いて欲しい。そんな願いはすぐに打ち破られた。
「そろそろ着くぜ客人」
牧草を運ぶ荷馬車を御している農夫が後ろを振り向いて言った。不機嫌な顔で目をこする少年。せっかく乗せてもらってこんな嫌な顔をするのは人としていけないことだと思ったので、すぐに作り笑顔を浮かべて「ありがとうございます」と言った。けれど内心の憂鬱は収まらない。この街に着けば仕事が待っている。気乗りがせず、面倒臭く、自分のプライドをがりりと削る仕事が……。
◇◇◇
この街はいい街ではないと、少年は確信した。彼は街を歩いて、五分としないうちにゴロツキに因縁をつけられていた。こういう辺境の街では知らない顔の者はよくこういう目に遭う。特にまるで威厳のない顔をしている少年としては、あまりに日常茶飯事すぎてげっぷが出るようなありふれた体験である。が、それにしても、着いてから五分と経たずに捕まるのはあんまりじゃないかと、少年は天を仰いだ。
「お前さん見ねえ顔だな。名前はなんて言うんだい?」
ゴロツキにそう聞かれたので少年は答えた。
「【デホ】……と申します……」
「でほお!? 変な名前だなあオイ」
ゴロツキは脇にいた二人の仲間と共に大声で笑う。少年、デホはむっすりと眉間に皺を寄らせた。
「……用はそれだけでしょうか? 他にないのならもう行きます」
そう言って去ろうとするデホ。だが、その手首はがしりと掴まれた。
「なぁ、『でほ君』。別に俺たちは君に危害を与えようとか、物を取ろうとかなんて、少しも考えてないんだ……」
ふたりの取り巻きがうんうんと頷く。
「……ただ、俺と将棋を指して欲しいだけなんだよ」
ゴロツキはにやりと笑った。デホが奴の取り巻きAの手元を見て、やはりそうか、と納得した。【銀の棋盤】が光っている。
広い宇宙には無数に散らばる無数の種類の世界があるらしい。そしてそれぞれの世界の一つ一つに、それぞれの法則が存在している。が、この世界ほどルールが分かりやすい世界などないだろう。この世界を纏う絶対的にして普遍的なルールはただ一つ。【将棋に勝った者が負けた人間をどうにでも出来る】という一点だ。そのルールを厳格に裁く、審判を担うアイテムが、この【銀の棋盤】なのだ。負けた者がこれに贖うことは不可能だ。敗者が勝者の要求を突っぱねようとした時、【銀の棋盤】に宿る将棋の神が、銀の鎖で敗者をがんじがらめにしてしまうのだ。
「俺は将棋が大好きでなあ。とにかく色々な奴と将棋が指してえんだよ」
白々しくゴロツキが言う。「だったら普通の将棋盤で指せばどうですか?」と言い返してやりたいが、それは無駄だろう。なぜならコイツは【銀の棋盤】の力で、自分からありったけの金品をふんだくろうとしているのだから。
……全く。だからこんな奴らにまで【銀の棋盤】を持てるようにするなよ。デホはしみじみ思う。【銀の棋盤】は元々、多くの人民や世界の運命を左右する大勝負に限定して使われるべき神聖なるアイテムであり、こんなチンピラにまで気軽に手に入るようになった現代は、明らかに健全ではない。
「さぁ『でほ君』、座りな」
地べたに【銀の棋盤】が置かれると、青白い光が発し、盤上に40の駒が現れていた。ゴロツキたちは、デホが走り去ることができないように、彼の両肩に手を置いた。デホははぁとため息をついて将棋盤の前にあぐらをかいた。
「ちょっと待ったーーーー!!」
デホの後ろから甲高い声が聴こえた。ゴロツキたちは怪訝な表情をする。
「あんたら、一体なにやってんの!!」
現れたのはポニーテールの少女だった。あどけなさの残る顔は、デホと同い年か少し下といったところだろう。
「……ちっ、ディリスか……」
取り巻きBが舌打ちと共に呟いた。
「あんたたち、また旅人に勝負ふっかけて、モノを盗ろうとしているのね?」
「ディリス、誤解さ。俺はただ旅の者と将棋が指したいだけでな……」
「それならなぜ【銀の棋盤】を使う必要があるの?」
ディリスという少女にもっともなことを言われ、ゴロツキは閉口した。
「さぁキミ……こっちへ」
ディリスはデホの手を握って引っ張る。
「待ちなディリス」
「なによ」
「【銀の棋盤】を見な。もう駒が現れている」
ゴロツキは将棋盤を指差して言う。
「もう勝負はセッティングされている。ここでそいつがいなくなったら、将棋の神様は怒り狂って、そのガキに裁きを下すだろうな」
げへげへと、並びの悪い茶色い歯が見えた。
「だからそのガキは置いてきな。もうそいつは俺らと勝負するしかねえんだよ」
ディリスは眉をぴくりと動かす。横のいかにも頼りない少年を見る。そしてふんと鼻息を吐き、腕を捲って、どしんと将棋盤の前に座った。
「じゃあその勝負、私が代わりに買うわ」
ディリスは言った。デホは心配そうに彼女に駆け寄る。
「そんな……これは僕の責任なんだ。それを見ず知らずの人に肩代わりしてもらうわけには……」
「……安心して。こんな奴らに負けるほど、私弱くないもの」
自信満々に言う彼女に、デホは息を飲む。
「へへ、ディリス。散々てめえには痛い目にあってきたがなあ、俺はまた強くなったんだぜ。そろそろてめえを返り討ちにしてやりてえと思ってたんだよ」
舌なめずりをするゴロツキ。
「……これ、先手私でいいのよね」
全く相手にせず、乾いた口調でディリスは言った。盤上の駒に手をやる。歩を動かし、パチンと打ちつけた。
『先手、7六歩』
【銀の棋盤】のマジックヴォイスが、響く。
「さぁ、あんたの手番よ」
ディリスは勝ち気に手を差し出した。
◇◇◇
『先手、7二金』
ディリスの金がぱちりと打たれた。ゴロツキの8二にいる王はもう逃げ場がない。「詰み」……である。
「……、あんたの負けよ」
「嘘……だ……」
ゴロツキは汗塗れの顔で呟いた。後ろでずっと観戦していたデホは息を飲んでいる。この少女は恐ろしく強い。かなりの腕自慢であるはずのゴロツキを、わずか45手で詰ませてしまった。
「さぁ、さっさと負けを認めなさい。それくらいの素直さはあっても罰が当たらないわよ」
「……」
ゴロツキは無言であった。しかし間も無く【銀の棋盤】から強靱なる鎖が虚空より現れ、ゴロツキの身体をがんじがらめに縛った。
「ああ……」
呻くゴロツキ。ディリスは立ち上がって彼を見下ろす。
「勝者である私の要求はただ一つ……、二度と【銀の棋盤】を使って悪事を働かないこと。分かった?」
その命令に抗おうとするゴロツキ。だがそれは無理だった。銀の鎖はゴロツキの身体を締め上げていく。肉にぎゅうとのめり込み、そのまま彼の身体を引きちぎろうとしていた。【銀の棋盤】の勝負の結果には、誰であろうと逆らうことなどできないのだ。
「……分かった。俺が悪かった。もうこんなことはしねえよ!!」
ゴロツキが叫ぶ。すると銀の鎖はしゅるしゅると将棋盤に吸い込まれ、【銀の棋盤】はころりと転がった。
ゴロツキたちは「ひぃ!!」と仲間と共に走り去った。ディリスはそっと【銀の棋盤】を拾い上げると、そこにあった岩に叩きつけた。【銀の棋盤】はガラスのように粉々に割れ、白銀の粉が、彼女の姿を映しながら、はらりと舞い落ちた。
「……こんなものがあるからいけないのよ」
憎らしげに言ったディリス。その様子を静かに見ていたデホ。全くだよね。そう素直に同意した。
「で、きみい」
突如ディリスがにんまり笑ってデホに話しかけた。
「キミ、旅人だよね? 名前は?」
「……、デホ……だけど……」
「デホくんかあ、珍しい名前だねえ」
そう言ってディリスはすらすらと懐から取り出した紙束にペンを走らせた。
「……、何を書いているのかな?」
「デホくん。今日泊まるとこ決まってないよねえ?」
質問に答えず、質問をするディリス。
「う、うん」
「だったらウチにごあんなーい」
そう言って彼女はデホの背中を押した。
「ちょっ、君は……」
「申し遅れました。この街一番の宿屋の娘、ディリスでーす」
にっこりと答えるディリス。
「そうじゃなくて、なんで僕が君の宿に泊まることになってんの?」
「もう宿帳にも書いちゃったもの、デホくんの名前」
「あれ宿帳だったんだ!!」
先ほど彼女が懐から取り出した汚い紙を思い浮かべる。
「……ちょっと待ってよ。確かに宿は決まってないし、君には助けられたけど……、これじゃさっきのゴロツキと同じだよ」
「違うわよ。ウチは値段も安けりゃ、料理も美味しい、超優良宿だし……。そこに連れて行ってあげようってんだから、親切極まりない、天使様も裸足になって逃げ出すほどの善行よ」
天使は元から裸足なんじゃないか……? そんなデホのツッコミも、思惑もまるっきり無視され、彼はディリスに押されるまま小走りするしかなかった。