毎日が天中殺
初出:00/12/25
前回投稿した「二士邂逅」とこの作品は、当時参加していた「クラスメイト」なるネットゲームに参加していたキャラ「狭間勇真」を使った小説です。
なお、タイトルに深い意味はありません。
時は大正。
未だ夕刻に闇のこびりついていた時代。
未だ文明の明かりが夜を覆い尽くしてはいない時代。
未だ夜の帳の向こうに人外のモノが跳梁していた時代。
未だ巨木の落とす影の中にさえ物語があった時代。
そこにはこんな物語もあったのかもしれない。
「ふァ……」
時間は正午をすぎた頃か。
往来を歩く長身の少年が、気だるげに欠伸をする。
舶来の薬品で染めているらしい赤い頭が道行く人々の中で一際目立つ。
「しっかしまァ、面白いとこから依頼が来たモンだよなァ」
少年は、懐から一通の茶封筒を取り出すと、指先でくるくると器用に弄び始める。
彼が三度目の欠伸をかみ殺す頃、その足は、一歩踏み出す度にひどく頼りない音を立てる古びた木製の階段を上っていた。
彼はいつも通り階段の三段目を足を思い切り伸ばしてまたぎ、いつも通り奇妙な落書きだらけの扉を三回叩いた。
「おーい、起きてるかァ?面白いネタ持って来たぜー」
声をかけるが、返事はない。
「……まァた妙な本読みふけってンだな……」
一つ溜め息をつくと、赤い髪の少年は仕方なくドアを開ける。
昼間だというのに薄暗い室内には、堆く積まれた本、本、本……。
大量の本で出来た塔が砦を形作るように整然と屹立している。
日本語で書いてあるもの、外国語で書いてあるもの、記号がのたくっているもの。
本の他にあるものといえば、必要最低限の調度品と無数の走り書きがしてある紙片がばら撒いてあるのみだ。
部屋の主らしき人影は居ない。もっとも、こうも本に埋め尽くされていては見つからないのも無理は無い。
「おーい、狭間ァ、居るんだろ?」
本の山に向かって声を掛けると、どこかとぼけたような声で返事が返ってきた。
「ああ、柳川君?入りなよ。周り、気をつけてね」
声は聞こえるが、本の山に遮られて姿は見えない。
赤い髪の少年――柳川疾風は一歩一歩を確かめるように慎重に足を踏み出す。
傍から見れば聊か大げさに見えるかもしれないが、これはこの部屋に立ち入るために欠かしてはならない行動なのだ。
そう、ほんの少しでも油断してはならない……。
「……ふぅ。なァ、これ何とかならないのかァ?俺の繊細な神経が参っちまうよ」
「繊細ときたか。君にこれほど似合わない言葉も珍しいよねぇ。はっはっは」
奥の方へ近づくことに成功すると、ようやくこの部屋の主――狭間勇真が本の山に埋もれて座っているのが見える。
外見はあまり気にしない性質なのか、ざんばらの髪に片眼鏡を掛けている。
その手には今まで読んでいたのであろう分厚い書物がある。
「うッわ、失礼なヤツだな」
ようやく書物の海を渡りきった疾風が、苦笑いを浮かべながら壁にもたれかかる。
「あ」
「え?」
「……さよなら」
「は?」
次の瞬間、
ズギュルルルルルルルルル!!!
「おああああああああぁぁぁぁぁ!?」
轟音と共に疾風が壁の中に、正確には壁に仕掛けられた防犯用の呪的捕縛符に長く尾を引く絶叫を残して吸い込まれていく。
「あーあ。うかつに壁に手を触れちゃいけないってあんなに言ったのに」
友人が凶悪極まりない罠(注:しかも自分が仕掛けた)によってあたら若い命を散らしたというのに(注:死んでません)眉一つ動かさない。鬼かコイツは。
「あ、そういえば仕事がどうとか言ってたねぇ。……ん?」
先刻までの喧騒の名残のように、勇真の頭上にひらひらと一通の封筒が落ちてくる。
空中で掴み、片手で器用に封筒の中身を取り出すとそこには「依頼書」の三文字。
「ん?依頼書だねぇこれ」
封筒の中身は一枚の紙片。そこにはたった一言、
『たすけて~』
と書いてあった。(注:しかも丸文字)
「……」
絶句する勇真。意識が混濁し、視界が闇に染まっていくのを他人事のように感じること以外、彼に許される行動はなかった。
GAME OVER。
数瞬後。
「いやいやいやだめだって終わっちゃいろいろまずいからそれはうん」
ひたすら突っ込みながら意識を回復する勇真。
「えーと……まずは差出人確認だね」
封筒にはこれまた丸文字、しかもひらがなで
『はやしばられぇい』
と書いてあった。
頭痛を堪えながら、記憶を手繰る。
旧華族の子孫であり、代々の実業家であり、彼の住んでいる街では知らない者の無い資産家でもある林原家のことを思い出すにはそう時間はかからなかった。
「ふぅん……あのお金持ちの家ねぇ。何があったんだろ。ま、行ってみれば分かるか」
そう一人ごちると、勇真は傍らにあった黒い外套を無造作に羽織り、思い出したように先程友人を吸い込んだ札を壁から剥がし、懐に仕舞うと部屋を出て行った。
「うぅ~、まだ来ないのかな~……」
窓の下をしきりに見下ろしながら、葡萄酒色の髪の少女――林原麗が部屋の中をそわそわうろうろと歩き回っている。
少女は洋装に身を包んでいたが、それは決して過美な物ではなく彼女の活動的な性格を表すように、動きやすさを重視したものである。
やがて彼女の眼下に、黒尽くめの人影が姿を現す。
「あれ?赤いアタマじゃない……。ま、いいや!」
それを確認すると彼女は、数人の小間使いの脇をすり抜けながらスカートの裾を翻して階段を駆け下りて行った。
階下に待っていたのは、先程部屋の窓から見えた黒い外套を羽織った少年だった。
彼は麗が下りてきたのに気付くと顔を上げ、それまで読んでいたのであろう片手に持った小説を、ぱたりと小気味良い音をさせて閉じると彼女に向き直り、
「やあ」
と、片手を上げて会釈をした。
「えへへぇ、こんちは」
屈託の無い笑顔で、麗も挨拶を返す。
「えーと、はやしばられいさん、だっけ?依頼書を受け取ったんで来たんだけど。……っと、その前に自己紹介だね。僕は狭間勇真、学業の傍ら物の怪退治をやってる射手座の18歳だよ。モニターの前のみんな、分かったかな?」
「……あの、どこの誰に向かってそんな長ったらしい説明ゼリフ言ってるの?」
「この世の中には知らない方が幸せな事もあるんだよ」
「はぁ」
とりあえず話をはぐらかす勇真。で、本題。
勇真は自分の自己紹介を終えると、おもむろに懐から一枚の紙片を取り出す。
「それと、これが友人の柳川疾風君だ」
ゴリッ。
無言でマグナム44を彼のこめかみに押し付ける麗。(注:女の子がそんなモン振り回しちゃいけません)
「そーゆータチの悪い冗談は止めるにょ」
「いやいやいやホントなんだってば」
とりあえず語尾には突っ込まないでおく。
「正確にはこの中に居るんだけどね」
冷や汗をたらしつつ紙片の角を破る。と、圧縮された空気が噴き出すような音と共にそこには今まで居なかった人物が現れる。
「……はァ~ざァ~まァ~」
「やあ柳川君。『向こうの世界』はどうだった?」
「お前は友人をあんなところに放り込んどいて言う事はそれだけか? ん? ん? んんん~?」
とりあえず勇真の首を極めている疾風。極めながらふと、麗の方に目を向ける。
「……ん?君、どっかで会わなかったっけ?」
視線を向けられた麗も、何かを思い出したようだ。
「あ!そのハデハデに染めた真っ赤なアタマは!!」
大げさに疾風を指差し、
「生き別れのおにいちゃああああああん!!」
そう叫ぶと同時に疾風目掛けてダイヴする。
「ほう、そうだったのか。よかったねぇ柳川君」
「いや、あの、あう」
麗に突然抱きつかれて混乱している疾風。
「さて、生き別れの兄妹が再会した所で依頼内容教えてくれるかな?」
何事も無かったかのように話を進める勇真。
「あ、それなら食事の用意がしてあるから食べながら説明するわ。こっちだよ」
何事も無かったかのように話を進める麗。
疾風は麗に引きずられながら食堂を目指すのであった。
食卓についている三人。
疾風はまだあうあう言っている。
一息ついたところで、勇真が依頼の説明を求めると、麗は思い出し思い出し話し始めた。
「最近このお屋敷で、ヘンなもの見た人がたくさん居るんだよ」
「時間とどんなものを見たのか教えてもらえるかな?」
「んとねぇ、大体夜勤の人が見てるみたいなの。なんかおっきな手とか、カタカタって音聞いたとか……」
「なるほどねぇ……。じゃあちょっと調べさせてもらうよ」
「どうぞ~。お屋敷の人たちには言ってあるから。あ、それとあなた達の部屋も用意してあるからね」
「おお、それはありがたい。お礼にそれ(注:柳川君のこと)は好きにしていいよ」
「えへへぇ、ありがと~」
「……はっ」
ここにきてやっと疾風が意識を取り戻した。
「にへへ~。やっとお目覚め?わたしのこと覚えてるぅ?」
幼さの残る顔に悪戯っぽい笑みを浮かべて、疾風の顔を覗き込む麗。
「そうそう、僕にも説明してもらうよ」
秋刀魚をつつきながら勇真が興味津々の目つきで疾風の方を窺う。
「えーーーっと……二、三日前に落とし穴にはまってたのを助けてあげたんだっけ?」
「……その辺は割愛してて欲しかったなぁ」
「う……ごめん」
「あの時柳川君が『困ったことがあったら連絡してよ。』っていうから早速連絡したの」
「なるほど、そういうワケだったのか」
「そういうワケだったんだよ」
残りの二人より遅く食事を始めた疾風。
食事をしながらふと周りを見回しながら麗に尋ねる。
「ところでさ、んぐ、この屋敷って何でこんなに人が少ないの?
これだけ大きければもっと人が居ると思ったのに」
そう聞かれると麗は、終始笑顔だったその顔をわずかに曇らせて躊躇いがちに話し始める。
「ヘンなものが見えるようになってから……なんだか悪い予感がするの。いつ怪我人が出てもおかしくないような……。だから、そんなの嫌だから、働いてくれてる人たちにはほとんど帰ってもらってるの。お父様とお母様はお仕事でもう何ヶ月も家を空けてるし……」
そこまで言って、曇らせていた顔を上げて、ぱっと笑って見せた。
「だから!このお屋敷はわたしが守るの!」
花が開くような鮮烈な笑顔。二人も思わず顔をほころばせる。
「じゃ、林原さんは君が守ってあげるといい」
勇真が味噌汁をすすりながらそんなことを言う。
思わず顔を見合わせる二人。
申し合わせたように二人して顔を朱に染め、二人して俯く。
そんな様子を見てにこにことのんきな笑みを浮かべながら勇真は続ける。
「その方が僕も都合がいいしね。別に問題は無いだろ?お互い気に入ってるみたいだし」
「……わぁかったよ。お前がそういうんならそれが良いんだろうさ。林原さんも……それで、いいかな?」
少しためらいがちに麗の方を窺う疾風。
それに対して麗は、満面の笑顔で答えたのだった。
夕刻。
麗は自室でベッドに身を投げて物思いに耽っている。
ふ、とため息をつく。
揺らぐランプの炎にため息が溶けて、消える。
「は……。明日は誕生日なのに、だぁれもお祝いしてくれる人、居ないんだなぁ……」
両親は屋敷に居ないため、何かあったとしても両親に被害が及ぶ心配は無い。その点は安心できることだと言える。
しかしやはり、寂しさは募るばかりだ。
ランプの落とす影が、余計に物悲しさを増していく。
思わず、彼女の目じりに涙が滲む。
上等のシーツも、彼女の孤独を癒してはくれない。
ぼやけて歪んだ視界には両親の仕事先からの手紙。
と、部屋の扉を叩く音に、彼女は慌てて袖で目元を拭い、扉を開ける。
そこに居たのは、少々照れくさそうにしている疾風だった。
「えーと……こんばんは」
「あ、う、うん。えと、何?」
「ああ、食事の後ずっと顔見てなかったから……」
ぎこちなく会話を交わす二人。
ランプの炎につられて、二つの影がゆらゆらと躍る。
「心配して……くれたんだ」
「こんな時に……女の子を一人にしとくわけにはかないよ」
「えへへ……。あ、狭間君は一緒じゃないの?」
「ああ、あいつならいろいろ調べてる所だよ」
「一緒じゃなくて、いいの?もしなにかあったら……」
心配そうに眉を寄せる麗の肩を疾風はぽんぽんと叩いて、
「あいつが大丈夫だって言った。だから大丈夫なんだよ」
と言うと、力強く笑って見せた。
「信頼、してるんだね」
麗がそういうと疾風は満足そうに頷く。
「狭間君のこと話してるとき、すごく嬉しそうな顔してる……。……私のこと、話すときも、そんな顔してくれたら、いいな……」
ぽふ、と、疾風の胸に顔をうずめる。
疾風の両手が彼女の背中にゆっくりとまわされるのと、彼女の瞳が透き通った雫をこぼすのがほぼ同時だった。
疾風の胸元に、じわりと暖かいものが染み込んでくる。
「あ、ここにいたのか。相手の正体が分かったからから来たんだけど」
「うおわぁぁぁぁぁ!!?」
「にょーーーーっ!!?」
突然割って入った勇真の声に、二人は奇声を発し慌てて飛び退る。
勇真は扉を開けて入ってきたのではない。
なぜか壁から顔だけが生えている。
「おおおおお前はお前は何だってそんな所から生えてるんだ!?」
「いや、面白いかなーって」
「いいいい今の聞いてたの見てたの!?」
「『疾風の胸に顔をうずめる』のとこから見てたし聞いてた。あ、続きがあるならどうぞどうぞ。見とくから」
「見るなよお前は!!」
「いや後学の為に」
「いやあああっ!!もーお嫁に行けなーい!!」
「柳川君を進呈しよう」
「ありがとうございますお義父さん!!」(注:違います。)
「違うだろーっ!!」
「……わたしとじゃ、嫌なの?(潤んだ目+上目遣い)」
「ぐはぁ!!そんな目で見ないでェェェ!!」
「林原さんの勝ちだね」
収拾がつかなくなるので以下略。で、本題。
「で、相手の正体ってのは?」
「『骸手』(むくろで)だね。多分ここに集めてある骨董品か何かに憑いてきたんだろうさ。指や手を失った人間の念が凝り固まって実体化したヤツだ」
「でも、どうして今まで誰も襲われなかったんだろ?」
「それはね」
つ、と麗を指差す勇真。片眼鏡の奥の目はいつになく真剣だ。
「林原さんが……どうかしたのか?」
疾風が心配そうに麗の方を窺う。
指差された麗は、神妙な面持ちで次の言葉を待つ。
「『骸手』は君に目をつけてるんだ。アレは鼻が利くヤツでね。他の人間よりも数倍の霊力を持ってる君が、一際目立って感じたんだ。だから他の人間には目もくれなかった」
そこで一旦勇真は言葉を切る。
「他の人間の数倍の霊力……だって?」
「多分、ずっと前の祖先にそういう人が居たんだろうね。それで、林原さんの代でその力が開花したんだと思うよ」
それまで身じろぎもせずに話を聞いていた麗が口を開く。
「心当たりが無いわけじゃ……ないの。今までも時々、見えたりはしてたの……」
ぽつりぽつりと話し始める麗の肩を疾風がそっと抱く。
「でも、自分にそんな力があるなんて……思わなかった。お父様もお母様も普通の人だったし……。ううん、思いたくなかったんだよ……」
「でもどうして、今まで何も起こらなかったんだ?」
「うん、それなんだけどね……。林原さん、明日が誕生日なんだろう? 17歳の」
「え? う、うん。そうだけど……」
「! そういうことかよ……」
疾風には思い当たることがあるらしい。
が、それは彼にとってあまり良いことではないようだ。
わずかに顔をしかめている。
「ね……どういうこと……?」
「結構……厄介なことなんだ」
言いよどむ疾風の顔に、麗が真摯な視線をぶつける。
「話して」
それだけを言う。たった一言の言葉に、揺ぎ無い決意が見て取れる。
それを見た疾風は、意を決して、一言一言を搾り出すように話し始めた。
「17歳っていうのは、霊力が一気に持ち主の肉体に定着する時期なんだ。この時期を過ぎると、霊力は安定して、それなりの訓練をすれば制御も出来るようになる。でも……」
次の言葉が出ない。拳を握り締める疾風。
「言って。わたしは大丈夫だから」
そう言う麗の肩が、痛々しく震えている。
「……ッ!」
思わずその肩を疾風は抱きしめる。抱きしめながら、ようやく言葉を紡ぐ。
「17歳になった直後……つまり誕生日の午前零時……霊力はゼロになるんだ。赤ん坊以下に……だ、だから……」
最後の方はほとんど呻き声になっている。
麗はその様子をじっと凝視している。
再び黙り込んでしまった疾風の顔を見ているうちに、
彼女は彼の喉もとまで出かかっている言葉を、全く唐突に理解した。
「霊的な抵抗力が無いときにもし襲われたら死ぬことだってある……っていうこと?」
「!!」
沈黙。
重苦しく沈黙が部屋を支配する。
柱時計の音が、忌々しいくらいに大きく聞こえる。
「じゃ、守ってくれればいいじゃない?」
沈黙を破ったのは、麗だった。
先程まで、肩を震わせていたのが嘘のように微笑んでいる。
「ぷ……あっはっはァ!それはいい考えだ!」
勇真が思わず吹き出す。笑いながら、きょとんとしている疾風の背中をばしばし叩く。
「そうそう、君が守ってあげなくちゃ」
「そうそう、柳川君が守ってくれなくちゃ」
麗も一緒になって背中を叩く。
「ほら、柳川君返事は?」
勇真がにこにこ笑いながら返事を求める。
「へへ……いいよ。君は俺が……守るから」
「えへへぇーっ!」
嬉しそうにはしゃぐ麗。もう重苦しい雰囲気は微塵も無い。
「さぁて、作戦を説明するよ」
口元に柔らかな笑みを浮かべながら勇真が話を切り出す。
「僕たちが昼間入ってきた大広間の入り口以外は、僕が結界符で蓋をしておいた。『骸手』はここからしか入れない」
「大広間で迎え撃つわけだな」
「そ。林原さんは君が守る。僕は迎撃だ。林原さんもそれでいいね」
「安心だよ。柳川君が居るから」
「頼んだよ、柳川君」
「おう!」
「じゃ、大広間で待機だ。12時の鐘と同時に来るはずだからね」
一時漂っていた悲壮感はもう雲散霧消していた。
三人はまるで遊びに行くように笑い合いながら階段を降りていく。
12時まであと2時間あまり――。
深夜の大広間の墨を流したような闇に、ひんやりと夜気が漂っている。
にぎわっていた昼間とは打って変わって、静寂と闇に支配されたそこはまるで別の世界のようだ。
広間にかけてある大時計、その下の一角だけがランプの明かりに揺らいでいる。
「……あと30分、かぁ……」
麗がそわそわと広間の柱時計を見上げる。
気丈に振舞ってはいても、やはり不安は隠せない。
そんな麗を、疾風が後ろからふわりと抱きしめる。
肩を抱いた疾風のさらしを巻いた手に、麗が自分の手を添える。
「ほら、そんなに心配すること無いって。守るって、約束しただろ?」
「うん……。ありがと」
その傍らでは勇真が、若い者はいいねェ……とか老け込んだことを言いながらどこからか取り出した茶をすすっている。
そしてふと何かに気が付いたように眉を吊り上げる。
「来たらしいね」
勇真が天井を見上げる……が、そこには夜の色を纏ったシャンデリアがあるのみだ。
しかし、彼の片眼鏡の奥の目は、広間にはまだいない『骸手』の気配を感じ取っている。
その表情が、僅かに歪む。笑っているのだ。
「楽しそうだなァ?」
疾風が勇真の漏らす含み笑いに気づいて言う。
「んん? そうだよ……楽しいんだ……」
眼を細めながら答える勇真。
その眼にはゆらゆらと、常ならざるものの光が湛えられている。
「お……そろそろだぜ……!」
疾風の言葉に応えるように、柱時計が不気味に重々しい音を奏で始める。
時計の音が、夜の帳の中に霧散していく。
そして、12回目の音が広間の隅々にまで散って消えた――。
「来たかよ!!」
刹那、それまで何も居なかった広間の入り口に、染み込むようにこの世ならざる者の気配が広がり、扉を巻き込んで爆ぜる。
「こ……こんなのが!?」
疾風の後ろに隠れていた麗が、目を見開く。
「狭間ァ、気を抜くなよ!!」
檄を飛ばす疾風に、勇真は軽く手を振って答える。
扉を突き破って飛び込んできたのは、『骸手』の名の通り巨大な暗灰色の骨の手だった。
五本の指でまるで虫のように床、壁、天井を這いまわると、まっすぐ勇真に向かって飛び掛ってくる。
「では……」
勇真が前に進み出る。
その口元に浮かんだ薄笑いが、酷薄なものへと変わる。
「儀式を始めよう……!」
そう言い放つのと、『骸手』の巨大な影が彼を覆うのはほぼ同時。
『骸手』はそのまま自重に任せて落下する。
「狭間君っ!!」
麗が思わず身を乗り出すのを、疾風が片手で制する。
「おっと。危ないから近づかない方がいいよ」
「で、でも……!」
「だぁいじょうぶだって。アイツは……」
少し言葉を選び、
「マトモじゃないからね」
と言った。
「むぅ~~~……」
釈然としない顔をする麗。
「ククッ……ひどい言い草だなぁ」
夜の闇が、勇真の声で笑った。
『骸手』がそれに反応するようにその場から飛び退る。
広間の中央に闇よりもなお黒い影が凝集する。
それはゆらめき、たゆたいながら人の形を形成してゆく。
「ちょっと手品が得意なだけだよ」
片眼鏡の奥で、人ではない何かの光を宿した瞳が笑う。
『骸手』は勇真が実体化すると、彼目掛けて突進してきた。
対する勇真は軽く鼻を鳴らすと、こつん、と爪先で床を蹴る。
扉の無い広間の入り口から差し込んでくる月明かりに照らされて彼の足元から伸びた影が、今この瞬間唐突に命を得たように『骸手』に向かって疾る。
「穿て影よ……」
呟くように勇真の口から漏れた声に合わせて、『骸手』の至近距離まで迫った影がその裡から漆黒の腕を突き出す。平面から立体への変化。
影であったそれは自身の確たる存在を誇示するかのように、硬質の物同士が接触した時の金属的な音を立てて『骸手』の掌を貫通した。
それでも致命傷には至らなかったらしい。
破片を撒き散らしながらも、誘蛾灯に誘われる羽虫のようになおも勇真に追いすがろうとする
対する勇真は一層笑みを強めて外套の裾を掴む。
「あははァ!大人しくしててもらうよ!!」
ばさり、と勇真の手にうち振られて、外套が巨大な翼のように広がる。
『骸手』が跳躍するのよりも早く、夜の黒で染め上げたような外套の中から無数の鎖が放たれる。
鎖は獲物に襲い掛かる毒蛇の如く、『骸手』に絡みつき、穿ち、床に縫い付ける。
「ははァ! 捕まえたァ!!」
またも哄笑する勇真。『骸手』は反撃する事はおろかそこから動く事さえ許されない。
「綺麗に散っておくれ……」
床についた右の掌に、蛍が纏いつくように光の粒子が集まっていく。
転瞬、その光は閃光となり、爆ぜる。
「狭間コレダーーーー!!」
「ダ○ス!?」
天蓋状の閃光と衝撃波が広間を白銀に染める。
ようやく閃光が収まったときには、『骸手』の姿はそこには無かった。
「終わったよ、柳川君」
外套をはたきながら涼しい顔で戻ってくる勇真。
「……もう少しおとなしめに出来ないのかよ」
「なんでダオ○の技を……。んにゃそれ以前に狭間君って人間? サイキッカー? ラスボス?」
「いちおう人間の形はしてるけど。メシも食うし。寝るし。好物は和菓子」
「んぅ~~~???」
どうにか難を逃れたらしい二人が、「狭間君は人間か否か」をテーマに議論を始めている。
勇真が来ると、さすがに黙る。
麗だけはまだ、「んに~?」とか「むにゅ~?」とか言って唸っている。
「意外と簡単に片付いたね。でも柳川君は欲求不満かな?」
「んー、まぁ、な。でも林原さんが無事だったからいいだろ」
「えへへぇ、無事だよぉ」
和やかな雰囲気に包まれる広間。
「あ」
勇真がふと、何かを思い出したように手を打つ。
「ん?どうした?」
「大事なこと忘れてた」
「何をだよ、もう片付いたんじゃないのか?」
「いや、手は二本あるんだよね。右と左」
「そりゃそうだ」
「つまりそう言うことなんだよ」
「いやだからどういうこと……」
疾風の言葉を遮るように、『骸手』が扉を吹き飛ばした大広間の入り口から、『骸手』のそれと酷似した妖気の塊が飛び込んできた。
「……あー、なるほど。こういうことかよ」
「そういうことだよ」
『骸手』である。
そこに禍々しい妖気を纏って屹立する骨の腕は、つい今しがた勇真の版権に引っかかりそうなヒッサツ技で消滅したはずの
『骸手』だった。
「……!あーっ!左手だぁ!」
疾風の背中から様子を見ていた麗が声を上げる。
麗の言葉通り、二体目の『骸手』は左手だった。
一体目は囮、もしくは様子見だったのだろう。
「狭間、コイツは俺がもらうぜ」
「どうぞどうぞ。林原さんにいいとこ見せてあげなくちゃ」
前に進み出ようとした疾風の手を、麗が掴んだ。
「じゃ、ちょっと行ってくるよ。ほら、そんな心配そうな顔しないで」
自信満々の疾風の様子を見てはいても、やはり心配なのだろう。
迷子になった子供のように顔を曇らせている彼女の頬に、疾風の広い掌が添えられる。
「……うんっ!!」
途端に、麗の表情が変わる。輝くような笑顔。
真っ暗闇に僅かな月明かりだけの室内にあって、そこだけが輝いているように見えた。
「御武運を」
おどけたように片手を上げる勇真。
「おう」
すれ違いざま、二人の手が音高く打ち鳴らされる。
「さて、お手柔らかに頼むぜ?」
指をこきこきと鳴らしながら、無防備に間合いを詰める疾風。
『骸手』はまだ動かない。
さらに近づく疾風。
広間はまだ静寂を保っている。
そして、両者はただ一間の間を隔てるのみの距離まで近づいていた。
固唾を飲んで見守る麗。
にこにことまるで子供が遊んでいるのを見ているような顔の勇真。
静寂は唐突に破られた。
「うわ……っ!!」
麗が思わず耳を塞ぐ。
「空気が爆発した」。彼女にはそう感じられた。
恐る恐る顔を上げた彼女の目に映ったのは、腰を落として右拳を僅かに前に突き出した疾風の背中。
そして人間で言う小指と薬指がどこかに消え失せている『骸手』の姿だった。
「……崩拳、か。やるねぇ」
「ほう、けん?」
目を細めて楽しそうに言う勇真に麗が尋ねる。
「説明しよう。崩拳っていうのは(以下よ――分からんので略)という技なんだよ」
「……よーするに、柳川君の勝ちって事?」
「はは、そうなるね」
後ろを振り向きながら疾風も相槌を打つ。
「へへ、まぁそういうことだよ」
と、その背後で、指を二本失った『骸手』が、床に指を杭のように突き立てた。
そのまま、弾く。
散弾である。
『骸手』の指に弾かれた床の破片が、さながら散弾のように疾風の背中に突き刺さる――かに見えた。
す、と振り向いた疾風の両手が、宙に不規則な円を描くようにゆるゆると動く。
両手の動きが止まったと止まった時には、あたかもそうなることが予定されていたように、床の破片は彼の足元に散らばっていた。
「矢でも鉄砲でも帝国陸軍でも持ってきな」
にぃ、と疾風が不敵な笑いを浮かべる。
そして背中越しに麗の方を向く。
「さて林原さん。決め技はどんなのがいいかな?」
尋ねられた麗は、少し考えて、
「ハデにやっちゃえ!!」
拳を振り上げて叫ぶ。
「ようし! ハデにいくかァ!」
そう言い放つと、右手に巻いていたさらしを剥ぎ取る。
その下から現れたのは、皮膚に直接刻まれた真紅の日輪をかたどった紋章。
「喰らい……!!」
突っ込んでくる二体目の『骸手』に対して、構える。
構えた右手が、始めはちろちろと、やがて鳳凰の羽ばたきを思わせる真紅の炎を纏う。
「やがれェーーーーー!!!」
裂帛の気合と共に、『骸手』に炎の奔流が叩きつけられる。
突進してきた『骸手』は、その勢いを失い、なす術も無く炎に捲かれていく。
わずかの燃えカスを残して、『骸手』は完全に消滅した。
「歴史が違うんだよ!」
右手を振るい炎を吹き消すと、疾風は虚空に漂う灰に向かって高らかに勝利を宣言した。
「ほんと、ありがとね」
翌日の早朝、彼ら三人は林原邸の門の前にいた。
「いやいや、なかなか楽しかったよ」
勇真がにこにこしながら言う。
「柳川君も、守ってくれてありがと」
そう麗に笑いかけられて、思わず顔を赤くする疾風。
「あ、それとね、お礼のことなんだけど……」
「ああ、そのことなら僕はもうもらってるよ。夕べのやつの破片とかね。これでまたいろいろ研究できるよ」
「ふぅん……。柳川君は?」
「あ、俺は別にいいよ、食べるのにも困ってないし」
「でもそれじゃあ私の気が収まらないよ」
「い、いや、ほんとにいいんだってば……」
しばらく思案する麗。やがて、いい考えを思いついたらしく、
いたずらっぽく微笑むと、疾風に向き直る。
「じゃあ、ね」
「な、何……?」
「わたしがお嫁さんになってあげる!」
「えぅ!?」
「ううっ、林原さん、柳川君を幸せにしてやってくれ」
「任せてお義父さん!!」(注:違います))
「俺の意向は無視かァァ!!」
「いや、なの……?」
「あああっ、そんな眼で見ないでェェ!!」
時は大正。
喧騒はまだ終わらない――。