ナイフ・エッジの上で
「はーい。伊藤ちゃん、元気? 頼まれていた案件、調べたわよ。こっちに来れるかな? かな?」
スマホから魔法使の機嫌のいい声が聞えた。
おおかた、治りかけの傷を見たいのだろう。
「大丈夫だと思う。ナースセンターに外出許可を提出するから、行ける時間等が決まったら追って知らせるよ」
そう返事すると、「待ってるから」と、欲望の滲み出た気色の悪い声で応答があり、通話は切れた。
病室のベッドに戻って、書きかけの外出許可書に希望日時を記入する。
保険証の番号などの必須記入科目にはすでに記載してある。
魔法使はいつも唐突で、こっちの都合など全く考慮しないので、準備だけはしてあったのだ。
ひっきりなしのナースコールにイライラしている看護師に外出許可書を提出する。
ナースコールを押さないと損だと思っているのか、些細な事ですぐに呼び出す者が居る。
「背中がかゆい」
で、ナースコールした馬鹿が同じ病室に居たが、さすがに看護師に同情した。
そいつは、脚の骨折で腕は自由に使えるのに。
病院で心穏やかに暮らすコツは、時間に制限を加えないこと。
届出を出したからといって、それが速やかに処理されるとは限らない。
受付をする看護師は、看護の訓練を受けているが、事務仕事の訓練を受けているわけではないので、処理速度にバラつきがある事を俺は学習していた。
ふつうの事務職とは、優先事項が異なるので、当たり前といえば当たり前だ。
急変患者がいれば、事務処理中の案件があっても、すっ飛んで行く。
前述したナースコール馬鹿は、看護師の負担を重くしている事に気が付いていない。
それが、巡り巡って俺の届出の受理が遅れちまうというわけだ。
スーツに着替えて、ベッドに腰掛ける。
そうしてぼんやりとTVを眺めていた。
キンキン声の若い女が、何かをまくしたてていたが、その言葉は上滑りして俺の耳には意味ある言葉として入ってこない。
ふと、裕子の事を思い出す。
もう、顔の記憶が曖昧になっていて、それがなんだか申し訳ない気分にさせられる。
俺は冷たい人間なのだろうか?
本当に死人になってしまって「心」がごっそり抜け落ちてしまったのだろうか?
俺の入院中、裕子の葬儀は、結局エイブ老人と如月が行ったらしい。
友人も、肉親も、誰一人として見つからなかったそうだ。
彼女の死を、この世界で誰が悼んでくれるのだろう。
そして、俺が死んだら……。
「伊藤さん、怖い顔」
いつの間にか、カーテンの隙間から看護師が覗き込んでいた。
看護学校を出たばかりの若い看護師だった。
「そうでしたか?」
曖昧な笑みで表情を隠す。
俺を見る看護師の眼には怯えの色があった。
「急でしたが、たまたま主治医がおりましたので、許可が下りました。本日の午後半日です。無理な運動はしないでくださいね」
礼を言って許可書を受け取ると、看護師は逃げるように出て行ってしまった。
それを見送って、スマホの短縮ボタンを操作する。
特別な回線を通じて安全に魔法使と会話できる……らしい。細かい理屈は、よくわからんが。
回線がつながる。
俺は前置き無しに
「今日、許可が下りた。十三時にそっちに行くよ」
とだけ言い、切る。
魔法使が請け負ったのだ。全くの空振りということはないだろう。
俺を野良犬呼ばわりしたことを、後悔させてやる。
脂汗を流しながら魔法使いの『牢獄』に向かった時より、だいぶ体が楽だった。
海沿いに立つタワーマンションに着く。
最上階から四フロアはVIP用のペントハウスになっていて、その一つが魔法使の住居だ。
専用のコンシェルジュがあり、コイツらはどう見ても軍隊あがりの傭兵にしか見えない。
「だいぶ治ったな、セニョール」
俺の事を覚えていたか、もしくは顔認識ソフトで検索した黒人の巨漢のコンシェルジュが気さくに話かけてくる。
おそらく、来訪者はすべて記録にとっているはずだ。
「まぁな」
と、ぶっきらぼうに答えて、予め教えられていた符牒を言う。
砂色の髪を短く刈り込んだ、ゴツいアーリア人系の兄ちゃんが、無線機に向かって何かを話していた。
その白人の兄ちゃんが、俺の前に立ちふさがる黒人のコンシェルジュに目配せする。
「OKだ、セニョール。エレベーターの場所は、判るな?」
そういって、巨体を脇にどける。何がセニョールだ。地味にイラッとくる野郎だよ、こいつは。
また、耳がキーンとするエレベータに乗って、魔法使のフロアで降りる。
このフロア丸ごと魔法使の住居だった。
いつも、スーツにタイトミニのスカート、ヒールの高いパンプスという隙のない装いの魔法使が、汗の染みた灰色のスエット姿で出てくる。頭には汗止めのバンダナ。首にはタオル。そのタオルで上気した頬を拭っていた。
「ごめんね。今、トレーニングの時間なの。サンルームで寛いで待っていて」
魔法使は、自分の生活のリズムを変えない。
朝起きてから眠るまで、分刻みでスケジュールが組まれていて、俺の依頼みたいな突発事項でもないかぎり、正確にそれをなぞる。
俺は、ここを『牢獄』に例えたが、まさに彼女の生活は囚人のそれだった。
自分で予定変更するならなんともないのだが、これが外部要因で変更を余儀なくされると、「落ち着け!」と、ぶん殴りたくなるほど、彼女は動揺する。
だから、俺は彼女を急かさない。
サンルームは、彼女が日光浴をするための部屋だ。広さは三十畳ほど。床はコルク張りで、裸足で歩けるようになっている。
どうやって掃除するのかわからん巨大な窓ガラスから、太陽が差しこんでいた。
居心地のよさそうな長椅子が置いてあり、魔法使はここに横たわって日差しを浴びるのだろう。
小さなカウンターとミニバーがあり、勝手知ったる俺は、そこの冷蔵庫から適当にペットボトルを取り出す。
マッターホルンらしきイラストが描かれているラベルの炭酸水だった。
何の味もしない炭酸水を飲むことを考えるとうんざりしたが、何か飲めるもの探すのも面倒くさい。
俺は、そのマッターホルン印の炭酸水を持って、窓辺に近づいた。
眼下は東京湾。
品川埠頭の先に、レインボーブリッジが見えた。
クルーズ船が白い軌跡を描いて湾内を走っている。
遠くで汽笛が聞こえたような気がした。
高度がありすぎて、人の姿は見えない。
ここから見下ろしていると、天界から地上を見ているようで、本当は俺は死んでいるのではないと、不安になる。
息苦しくて窓に背を向ける。
汗をシャワーで洗い流してきたのか、タオル地のガウン姿を羽織った魔法使がサンルームの入り口に立っていた。
右手には、レモネード。
こいつは、運動の後、必ずクエン酸たっぷりの一杯のレモネードを飲む。
左手には、紙製のバインダー。こいつが、調査書だろう。
「おまたせ」
歩くたびに素足がガウンの合わせ目から大胆にむき出しになる。
胸元はわざとゆるくしてあり、豊かな胸の谷間が露わだった。
洗い髪は結い上げてタオルで包んであり、細いうなじが見える。
あられもない姿だが、わざとだ。
俺の眼に劣情が浮かぶのを見たいがための、演出。
生憎だが、『変態』に欲情するほど俺は飢えていない。
白い喉を見せてレモネードを魔法使が煽る。
ぽってりとした唇についた滴を舌で舐め取る。
普通ならセクシーな映像なのだろうが、俺には邪悪な蛇がちろちろと舌を出したようにしか見えない。
「そういうの、いいから。早く資料をくれよ」
ため息交じりにそう言ってやる。
魔法使が、不満げに鼻をならした。
「伊藤ちゃん、つまんない。 こんな美女見て、感じない?」
すくなくとも、君にはセックスアピールを感じないよ。
そう思ったが、俺の口から出た言葉は
「入院生活で『溜まって』いるんだ。やめてくれよ」
だった。
そう言って欲しいのだろうなと、思ったから。
黒澤あたりなら映画のシーンから見繕って上手く乗ってやるのだろうが、俺には無理だ。
俺の演技は上手い方ではない。セリフも棒読みだったし。
魔法使はウソを簡単に見抜く。だから、俺の言葉がウソなのはすぐわかっただろう。
それでも一応満足したのは、たとえウソをつかれても、それは『優しいウソをつく程度には、気に留めてもらっている』ということの証明であり、いちいちそれを確かめようとする傾向が彼女にはあった。
偏執的でキモチワルイうえに、面倒くさくて仕方がないのだがね。
「近くで、見ていい?」
俺の顔に魔法使が身を寄せる。
彼女が使う薔薇の香りのシャンプーが香った。
「いいぜ」
俺に残る眼の周りに痣を、それこそ舐めまわすように見ている。
どす黒い痣は、今は緑色や黄色などに変色していて、それは俺の肉体が修復されつつあることを示していた。
荒い鼻息がウザいが、この隙に資料に目を通す。
俺が決死の覚悟でカバンに仕込んだスマホは、上野署に運ばれていた。
やはり、警官が絡んだ案件だったらしい。
裕子のカバンは、少なくとも電池が切れるまでは上野署に保管されていて、そこから動いていない。
如月の下駄じみた顔が浮かんで、舌打ちする。
―― 野郎……上手く俺を誘導しやがったな……。
魔法使が、俺の痣を舐めようとしていて、ビクっと震えて舌をひっこめた。
横目で彼女を睨む。
魔法使は照れたように笑った。いやいやいや……可愛くないから。
「なんで、眼科に行くと思ったの?」
眼科を受診した犯罪者で、人相が合致した者がいた。
俺を殴りまわしたゴリラ野郎の可能性が高い。
「指を眼に突っ込んでやったのさ」
魔法使の眉間に皺が寄る。
探るような眼になった。
「伊藤ちゃんって、そういう人だっけ? ちょっと見直しちゃった」
コイツに認められてもなぁと思う。
だが、言われて初めてわかった。
俺もまた魔法使とおなじく、境界を簡単に踏み越えるようになっていないか?
漂う様に生きる「死人」たち。
あるものは、絶望して死を選んだ。
魔法使や黒澤は生きるために犯罪に手を染めた。
俺はどうなのだろう。
生きるための理由、または死ぬための理由を探しているだけなのかもしれない。
「そいつらを、どうするの?」
魔法使が問う。
俺の様な猟犬が追跡し追い詰めても、仕留めてくれるハンターはもう居ない。
結末をどうしたいのか、まだ俺はちゃんとした答えを持っていなかった。
「わからん。まだ、考えていないんだ」
資料を折って、背広の内ポケットに仕舞う。
「私が、殺してあげようか?」
俺の方を見ないで、魔法使がポツンとつぶやく。
こいつは、サディストで変態だが、情が深い。
悪女の深情けというやつか。
俺の逡巡を感じ取る程度には、敏いところもある。
「いや、これは俺の問題だよ。結論も俺が下さないとダメだ」
俺は今、境界線上に立っている。
闇に潜むか、陽の下を歩くか、いずれ選び取らなければならない。
自分自身で。