襲撃
新宿駅西口の外側にあるコインロッカーは空振りだった。
鍵の形が違うし、人通りが多すぎる。
裕子は用心深い性格だった。
そういう人間は、自分が安全と考えるルートから外れないものだ。
裕子は、西口から歌舞伎町を抜けてラブホテル街で客を取っていた。
なので貴重品を預けていたのは、やはり新宿西口のカレー屋周辺のコインロッカーで間違いないだろう。
人が多すぎてもダメ。少なすぎてもダメ。
裕子の思考になって、コインロッカーを絞り込む。
俺が思いついたのは、駅の拡張工事で、人の流れが変わった通路だった。
この通路は、西口から南口に抜ける近道だったのだが、南口の再開発に伴い、もっと大きな通路が出来て廃れた通路。
新しい通路は、広くてきれいだが、人が多い。
新宿駅の迷宮じみた地形に慣れている古くから新宿駅を使っている者は、ここを通る。
たしか、ここにコインロッカーがあったはずだ。
ここを探してダメだったら、この件から本当に手を引く。
如月に軽蔑されようが、俺の最優先事項は生き残ること。
餌を投げ与えるかのように渡された金を使い切るまで。
あの金は、俺の価値。これが無いと、俺は単なる野良犬だ。
無くなったら、俺は生き切ったと考えていいだろう。
その時に、死ねばいい。
俺は優秀な猟犬だった。その誇りの残滓みたいなモノは、まだ胸にくすぶっている。
価値がなくなるまでは、死ねない。
それが、俺が自分に課したルール。
微かなカレーの匂いを嗅ぎながら、人の流れから外れて薄暗い通路を行く。
緑色に染色されたコインロッカーが見えた。
俺を、何か急いだ様子の中年の男が追い越してゆく。
所々錆が浮いたコインロッカー。
縦五段横十列ほどの規模。
鍵がかかっているのは、三箇所。
タブがへし折られたコインロッカーのキーを取り出す。
タブがないので何番のロッカーかわからないが、一つづつ試すしかあるまい。
上から二段目右から四列目のロッカーを試す。
鍵穴にするりとキーは入った。
少し躊躇って、回す。
―― カキン ――
開錠された。
ここが、裕子が使っていたコインロッカーだった。
まるで、彼女が俺を導いたかのようだ。
「私を探して」
……と。
「何をやったんだ、お前は」
ロッカーを開ける。
中には、黒い合成皮革の安っぽいボストンバッグ。
それをロッカーの中に押し込んだまま、チャックを空ける。
紙の束が見えた。札束だ。
帯で纏められた百枚の一万円札の札束が、ぎっしりと詰め込まれていた。
ざっと数千万円はある。
これか。これで、裕子は死ぬことになったのか。
推理しなくてもわかる。これは『ヤバい』金だ。
俺は、いきなり首根っこを掴まれて、思い切り後ろに引かれた。
迂闊な事に、誰かが後ろにいても、気がつかなかったのだ。
裕子のバッグに気を取られていたということもある。
咄嗟に肘を後ろに突きあげたが、筋肉の鎧で跳ね返されてしまった。
鉄板に分厚いゴムを巻いたような感触だった。
思い切りロッカーに頭を叩きつけられる。
まるで、マウンテンゴリラ並みのすごい力だ。
目の前に星が飛ぶ。
頬の骨が「めりっ」と嫌な音を立てた。
地面が揺れる。
俺の脚はまるで豆腐になってしまったかの様に力が入らない。
一度引かれ、また叩きつけられる。
腕を上げて防備することも出来ない。
脳からの指令を、腕が受け取り損ねていた。
俺の頭の鉢を割るつもりか、もう一度ロッカーにキスさせられる。
鼻の軟骨がやられたか、ボタボタと鼻血が流れた。
また、叩きつけられる。
もう一度。更に、もう一度。
やっと、腕が動く。
だが、俺の意識はすでに飛びかけていた。
『くそっ! 動け! 動け!』
気力を振り絞りつつ、右手を広げて後方に振る。
力など入らない。
だから、狙ったのは相手の眼球だ。
俺の薬指が、何か生暖かい物を掠った。
「痛っ! この!」
ゴリラ野郎が小さく呻く。
どれだけ体を鍛えても、強化できない場所はある。眼球はその一つ。
ワイシャツごと掴まれ締め上げられた首が少し緩んだ。
圧迫された気管が解放され、どっと肺に空気が入ってきた。
再び絞められないよう、その隙にワイシャツのボタンを千切り飛ばす。
ゴリラ野郎は、今度は俺の髪を掴んで、ロッカーに俺の頭を叩きつける。
ロッカーと俺の頭の間に、左手を滑り込ませる事にギリギリ間に合う。
脳みそを撒き散らす代わりに、ミシッという音を立てて手の甲の骨が折れた。
腫れ上がってふさがりつつある視界に、ゴリラ野郎の顔が映る。
正確には、目出帽をかぶった頭部が見えただけで、顔は判らなかったのだが。
唯一無事な右手を伸ばす。
そして、目出帽を横にずらしてやった。
ゴリラ野郎が、俺から手を放す。
目出帽を直して視界を取り戻そうとしている。
俺は、その顔面に思い切り後頭部をぶち当ててやった。
ぐちっと相手の鼻が潰れる音がした。
同時に、脚を後ろに跳ね上げる。
俺の踵が男の股間に激突していた。
悲鳴を上げて、ゴリラ野郎が地面に転がる。
俺は、グラグラ揺れる地面を踏みしめて、サッカーボールの様にコイツの頭を蹴ろうとした。
特殊警棒を振り出す『カシャッ』という音と同時に、俺の後頭部に衝撃が走った。
後ろから、誰かにぶん殴られたのだ。
俺は数歩よろめいて、コインロッカーに頭から突っ込み、そのままズルズルと四つん這いになった。
コインロッカーに俺の血が、前衛書道家の文字を思わせて、縦一文字を描く。
「てこずりやがって」
神経質に震える声で、警棒で俺を殴った奴が言う。
「すんません」
内股になって、ゴリラ野郎が立ち上がる。
一回り大きなゴリラ野郎は、この警棒野郎より下位らしい。
警棒野郎が、ロッカーから裕子のバッグを取り出す。
確認しないという事は、中身を知っているということか。
「この、野良犬が。クンクン嗅ぎまわりやがって」
警棒男が、バッグを取ったついでと言った感じで俺を蹴りあげる。
爪先が脇腹に食い込んで、肋骨が悲鳴を上げた。
ゴリラ野郎まで加わって、俺は蹴り回された。
俺は、呻きながらゴロゴロと転がり、打点をずらす事しかできない。
跳びそうな意識は『野良犬』と吐き捨てられた時から、持ち直していた。
俺は誇り高き猟犬だった。
今は地べたを這っているが、俺を野良犬呼ばわり出来るのは、俺だけだ。
警棒野郎が、目出帽でくぐもった声で、ゴリラ野郎に「行くぞ」と言っていた。
体中が痛む。
眼窩骨折でもしたか、両目は腫れ上がって殆ど視界がふさがっていた。
世界が斜めになっている。
壁に肩を打ちつけるようにして、やっと立った。
重そうにバッグをゆすり上げて歩み去ろうとする警棒男に、後ろから縋り付く。
いや、縋り付こうとした。
警棒男は振り返りざま、ひょいと俺の手を躱して、アッパー気味のボディを打つ。
腰が入った、いいパンチだった。
「しつけえよ、野良犬」
そう言って、体をくの字に曲げて血反吐を吐いている俺の後頭部に、肘を落としてきた。
顔から地面に倒れる。
手を伸ばして、バッグを掴んだ。
警棒男は、乱暴にバッグを引いて、俺の手からバッグを捥ぎ取った。
―― また、言ったな! 俺を野良犬と!
俺の意識は、ここで飛んだ。
気が付くと、俺は仰向けになっていた。
一瞬、何が起こったのかと混乱したが、襲撃されたのだ思い出す。
誰かが、ごそごそと俺の体を探っていた。
毛玉が出来た蓬髪。饐えた様な体臭。無精髭に覆われた顔。
この地下道を住処にしているホームレスだった。
地下道は雨露をしのぐことが出来、夏は涼しく、冬は暖かい。
だから、一日の大半をここで過ごすホームレスは多い。
追い出されないため、ボランティアで地下道の清掃をしているという名目だ。
それで、駅側からはお目こぼしされている。
地下道には酔っ払いも多い。
彼らが反吐を撒き散らすこともある。
ホームレスは、これらを木工所から譲ってもらった大鋸屑にまぶして、処理したりする。
居汚く眠りこける者は、財布を抜き取られるのだが。
俺は、財布を盗られるところだったらしい。
血まみれの男を見て、まず財布を確認とは、さすが新宿だ。
「そいつは、財布ごとやるよ。その代り、一つ頼まれてくれ」
俺がいきなりしゃべったので、ホームレスは飛び上がるほど驚いたようだった。
ソイツの手には、しっかりと俺の財布が握られていた。
現金だけが入っている財布だ。
身分証も名刺もクレジットカードも入っていない。
路上で売っていたパチモンの財布で、これがどこで売っていたかなど追跡できない代物。
用心深い猫のような眼で、ホームレスは俺を見る。
「俺は今スマホが無くてね。だから、今から言う番号に電話してくれ。小銭は持っているか?」
ホームレスが、黒く垢で汚れた顔を、左右に振る。
「ズボンのポケットに小銭が入っている。それもやるよ。だから、電話してくれ」
ホームレスが頷く。
俺は、『BOWMORE』の電話番号を告げた。
その間にも血はドクドクと流れ、手足がやたらと寒い。
脈動の度に、体中が痛む。
くそ、くそ、好き勝手に蹴りやがって。
「番号、覚えたか? もう一度言おうか?」
ホームレスが、首を振る。
一度聞いただけで覚えたということか。
立ち去るホームレスの後ろ姿を見ながら、再び俺の意識は途切れた。