牙鳴り
楊の住居を離れる。
こういう時、俺の神経はとても鋭敏で、視線すら感じ取ることが出来た。
誰にも注目されていない、その確信がある。
足早に住宅地を抜ける。
同じ道を通らないのは、待ち伏せを避けるため。
今はスマホから地図を呼び出せるので、現場を何度も踏査しなくて済む。
職人気質の刑事が減るわけだ。
魔法使に電話を入れる。
「なあに?」
やや機嫌が悪いようだ。ため息が出そうになるをやっと堪えた。
うっかり「うんざり感」なんかを出してしまったら、何日も口をきいてくれない。
本当に、面倒くさい女だ。
「今日は、声がハスキーで、色っぽいな」
棒読みだが、そんな事を言う。
どんなに上手く演じても、魔法使にはバレてしまう。だが、俺が彼女に気を使っているという事実が重要なのだ。
「あら、伊藤君たら、私が欲しくなっちゃった?」
「ああ、むしゃぶりつきたいぜ」
自分の棒読みのセリフに、さぁっと鳥肌が立つ。魔法使は、そこらのモデルが逆立ちしても敵わないほどの美女だが、本物の変態だ。肉体関係とか冗談じゃない。
重ねたお世辞の甲斐もあって、完全に魔法使の機嫌は良くなっている。
「スマホをペアリングしたのね。OK、自動追尾する。『華央貿易』『サクラ貿易』『中華貿易公司』ね。
感心、感心。アプリ使って下調べしたんだ。で、もっと深く探ってほしいわけね。いいわ、やってあげる。もぅ、伊藤君は私がいないと何も出来ないんだからぁ」
俺が何も言わないうちに、ポンポンと魔法使が話を進める。
やっぱり、魔法使から受け取ったスマホは、彼女によって監視されているらしい。
自分が俺をストーキングしていることを、隠しすらしない。まぁ、俺も万が一の時の命綱と思っているから黙認しているが。また、新宿地下街の時の様に、運よく高橋みたいな男が通報してくれるとは限らない。
「あ、そうそう『財団法人犯罪被害者支援会』と『社団法人心的外傷ケア協会』の調査資料も出来上がったし、一度、私の家においでよ。お土産は『チロリアン』がいい」
大塚駅周辺に、老舗の有名菓子店の本店があり、彼女はそこの菓子の銘柄を指定してまた一方的に通話を切った。俺のスマホにはナビ機能もついているから、俺が今どこにいるのか把握しているということを、すごく遠まわしに言っているのだ。本当に面倒くさい女だ。
高橋、に電話を入れる。
眠そうな田中の声がした。
「うっす、伊藤さん。この雑居ビルに出入りする奴は、殆ど面が割れたっす」
「そうか、苦労をかけた」
「別にいいすよ。仕事だし。そろそろ撤収にはいるっすよ。場所使用代を頼むっす」
「了解、今日一杯確保しておく。撤収準備にかかってくれ」
「うっす」
「そっちに行くから、その時詳しく聞くよ」
「うっす」
魔法使のリクエスト『チロリアン』を仕入れた後、大塚駅から山手線で秋葉原駅に向かう。
中央線に乗り換えて、市ヶ谷駅で降りた。途中のコンビニで差し入れを買い『財団法人犯罪被害者支援会』の監視場所に入る。
壁には、大きな模造紙があり、顔写真が何枚も貼りつけられていた。
赤く囲ってあるのが『財団法人犯罪被害者支援会』関係者だ。
常勤理事が一人。非常勤理事が一人。たまたま監査に来た非常勤の監事が一人。総務課長が一人。経理課長が一人。ここまでが、全部中年男性で、他の事務員十人は全部若い女だった。
女は皆、裕子とよく雰囲気が似ている。
若いのに、疲れたような顔をしている。そして、それを隠すためなのか、化粧が濃い。
「よく、相関関係まで調べたな」
これは、内部に入らないとわからない。
「ええ、まぁ、死んだ友が使った手口を使いまして……」
田中が口を濁す。
高橋がニヤニヤと笑っていた。
「田中君、純朴そうな顔して、誑しだぜ。まったく」
事務の女性を一人引掻けたらしい。
高橋が変態を装って女に絡み、白馬の騎士の様に颯爽と田中が登場。
かくしてお姫様は騎士にぞっこんというわけだ。
使い古されたスケコマシの手口だが、高橋はいかにも変態風で、田中はいかにも戦士という体格、容貌なので、女はコロリと騙されたのだろう。田中がひょろりとした優男なら、疑われたかもしれない。
「人は演じたいと願っている役柄が目の前にあると、多少の不自然は目をつぶっちまうモンっす」
そう言って、田中が困惑した熊みたいに、ゴツイ手でごりごりと頭を掻く。
「内部の情報を、まぁペラペラと、良くしゃべってくれたよ。暗い感じの娘だったけどね」
片手拝みをして、高橋がアイスのカップをコンビニの袋から取り出す。
「会話に飢えていたんすよ。人を騙すのは、今でも胸が痛むっす」
ぼそりと、田中が言う。彼は、何か罪悪感を抱えているようだ。だが、そのおかげで魔法使の負担が減る。大助かりだ。
「給料を払わんといかんね。幾らだ? 言い値で払う」
「相場知らないんで、松戸さんと相談してください。私は松戸さんから受け取りますよ。それが、筋っすから」
「私は、日当五万円ね」
高橋が差し入れのアイスをパクつきながら言う。コイツは怯えていた時もウザかったが、馴れ馴れしくなった今は更にウザい。
壁の模造紙を丁寧に畳んで用意してあった安物のブリーフケースに収める。
市ヶ谷の監視所を辞する。
今度は、品川に向かう。
自分で自分を収監する牢獄を作った変態女と会わなければならない。気が重いが、俺には警察のように科捜研のバックアップはない。組織のバックアップもない。手札は限られているのだ。
魔法使の高層マンションのコンシェルジュとは、すっかり顔見知りになってしまった。
この連中は、コンシェルジュとは名ばかり。多分、民間軍事会社の傭兵どもだ。
この最上階のVIPフロアは、アラブの石油王の別荘やら、匿名の富豪などの所有物で、それなりの警備が必要なのだ。日本の警備会社では、武装したテロリストに対抗できない。
「ヘイ、セニョール。すまないが、手荷物を検査させてもらうぜ」
いつも手ぶらなのに、ブリーフケースを持っているのが、全身筋肉の黒人の兄ちゃんの気に入らないらしい。中には、畳んだ模造紙と『チロリアン』しか入っていないがね。
一通り調べられて、通過の許可が出る。
「HAHAHA! OK! OK! 手間かけたな、セニョール! 魔女によろしく伝えてくれ」
何が、セニョールだ、クソが。
今度は、ゴツい体つきの白人の兄ちゃんに最上階直通のエレベーターへ誘導される。
ロシア系だろうか? 俳優のドルフ・ラングレンに似ている。
エレベーターは、高速で移動してくれいのはいいのだが、気圧が変わって耳が痛いのが地味に辛い。
例によって、魔法使はエレベーターホールで待っていた。
長い黒髪は結い上げ、白いブラウスとぴっちりとしたタイトなミニスカートという格好。
ブラウスは大胆に胸元を開けていて、そこから赤いレースのブラが見える。細い金鎖のネックレス。鎖骨あたりに踊るのは、ダイヤモンドの眼を光らせたプラチナの猫だ。お気に入りのアクセサリーらしく、度々見かける。彼女の仕事モードの服装だ。
俺は、銀色の猫を見て、彼女の胸の谷間を凝視する。
勿論、わざとだ。魔法使は性的に俺を挑発していて、俺がそれに乗らないと機嫌が悪くなるから。
黒澤あたりなら、口笛を吹いたりして、下種に煽ったりするのだろうが、俺には出来ない。
いや、先日のあの様子の黒澤なら、今は魔法使の願望に応えるかどうかわからんが。
「伊藤君、いやらしい眼……」
魔法使が身をよじり、両手で胸元を隠しながら言う。
見られたくないなら、ボタンを閉めろと思うが、そんな素振りは見せてはいけない。
「あ、すまん……」
こうやって目線を外し、含羞の態度を見せるまでが『お約束』なのだ。まったく、面倒くさい女だ。
この寸劇に満足したのか、魔法使は俺と腕を組み、奥の会議室に向かう。
彼女はこの広い部屋から外に一歩も出ない。
トレーニングルームや、サンルームや、プールまである超がつく高級マンションだが、まるで豪華な牢獄だ。そして、彼女は囚人と同じく分刻みで決められたスケジュールをこなしながら、毎日生活している。
俺みたいな者は、その日常に侵入した刺激。刺激に飢えているところも、まさに囚人だった。
柔らかい胸のふくらみが、俺の腕に押し付けられている。
俺はそれに気が付いて恥じらう素ぶりを見せないといけない。ため息が漏れそうになるのを、やっと堪える。ここで、うんざりした態度を見せたら、ここまでの我慢が水の泡だ。
十畳ほどの会議室は、円卓が置いてあり、高級そうな革張りの椅子が六個、リヴォルバーの弾丸よろしく等間隔で置いてある。
その一つに魔法使が座り、その隣に俺は座った。
周囲の家具や調度品が高級すぎて、異分子よろしく「浮いた」感じの安物のブリーフケースを開ける。
そこから『チロリアン』を取り出して、魔法使に差し出した。
「ほら、リクエストの品だよ」
「わぁ! 嬉しい!」
そう言って、魔法使は大事そうにお菓子の缶を抱えて、ひらりと笑う。
まるで、無垢な少女の様で、こうしていれば、コイツも多少は可愛いのになと思う。正体はソシオパスの変態女だが。
円卓の上に、高橋が作った相関図を広げる。
魔法使が身を乗り出して、写真付きの図表を見ていた。
「これ、伊藤君が作ったの?」
グロスが塗られて、つやつやした真っ赤な唇に小さな『チロリアン』を放り込みながら、魔法使が言う。
「いや、高橋っていう、身分証を作ってもらった男が作成したのさ」
「ふぅ~ん」
ぺろりと、ピンク色の舌が魔法使のぽってりと厚い唇をなめた。
普通ならエロチックな光景なのだろうが、俺には毒蛇がチロチロと舌を出した様子にしか見えない。
「良く出来てる。豚ちゃんが死んじゃったので、新しい助手が欲しかったのよね。雇いたいわ」
「好きにしな。日当は五万円らしいぜ」
フラッシュメモリを、魔法使に渡す。
そこには、模造紙に貼られた顔写真の画像データが収められている。
「結構鮮明に映っているから、顔認識ソフトにかければ、人物を特定できると思うわ」
魔法使がポケットにフラッシュメモリを仕舞う。足を組み換え、太ももの奥の際どいところまで見せつけるのはわざとだ。自分への興味が持続しているかどうか、いちいちテストしてくるのがウザい。
「資料だけど、玄関に置いてあるから。『財団法人犯罪被害者支援会』と『社団法人心的外傷ケア協会』だけど、数年前から、かなり親密みたいよ。非常勤役員とか監事が両団体で兼任しているし」
会議室の壁面の一部を開けると、冷蔵庫になっている。
俺はそこからミネラルウォーターを二つ取り出して、一つを魔法使に差し出す。
「あ、ごめん、伊藤君。この時間は、炭酸水摂取の時間なの」
俺は、また冷蔵庫に戻ってペリエのガスありと交換する。何だって同じだろうがよ。
「クロちゃんだけど……」
一口炭酸水を飲んで、魔法使が口を開く。
「毀れかけちまってる。如月から、しばらく離すべきだ」
「そう……だよね……、でも、言うこと聞いてくれないの」
奴は何かに駆り立てられている。鮫の様に、泳ぐのを止めると溺れ死んじまうと思っているかのように。
「大怪我でもしない限り、奴は止まらん」
「両脚折っちゃおうか?」
そういって、泣き顔みたいな顔で、魔法使が笑った。
久しぶりに『BOWMORE』に足を踏み入れる。
エイブ老人は嬉しそうだった。
珈琲のいい香りがする。
多分、パナマ・フィンカレリダを焙煎したのだろう。
如月が来ると、エイブ老人は彼奴の好みの珈琲を用意する。
俺から遅れる事五分で如月が到着する。
俺を見て、碁盤みたいな顔に微かに笑みを浮かべ、換気扇の下の専用席に俺を誘う。
ポケットからジタンの箱を取り出して、マッチで火をつけた。
俺は、背広に入れっぱなしだったハイライトを引っ張り出して、百円ライターで火をつける。
エイブ老人が、ハンドドリップで珈琲を淹れるのを見ながら、二人でただ紫煙を燻らせていた。
「麹町署の桑田、死んだよ」
ポツンと如月がつぶやく。
「轢き逃げ。犯人は捕まっていない。ブレーキ跡がない。ご丁寧に二度轢いてる。これは、殺しだよ」
やっと掴んだ手がかりが、桑田だった。
桑田を手繰って楊まで行き着いた。
だが、俺はどこかでミスをしたらしい。桑田は末端。敵は素早く尻尾切を断行した。
「追跡中でした」
「知ってる」
ポカリと、如月が煙で輪を作る。
「らしくないね。君のミスだ」
俺には返す言葉がなかった。ミスだという事は分かる。
だが、どこで下手こいたのか、見当がつかない。
―― ガチン
俺の首元で、逆襲に入った敵の牙が噛合って、牙鳴りをさせたような気がした。




