毒蛇の頭
桑田の行動を監視する。
張りついていて分かった。彼奴の生活は律されていて単調だ。
決まった時間に起きて、決まった時間の電車に乗り、麹町駅で降りて勤務先に行く。
昼は近所の弁当屋でのり弁を買い、ペットボトルのお茶を買う。
勤務先を出ると、市ヶ谷の『財団法人犯罪被害者支援会』に顔を出し、結構な時間をそこで過ごす。
中に盗聴器などは仕掛けていないので、何をやっているのかは不明だが。
その間、俺は、田中と高橋が詰めている部屋に行く。
壁に八十センチ☓一メートルほどの大きな模造紙が二枚貼りつけてあり、デジタルデータをプリントアウトした写真が添付されていた。
サインペンで、相関関係が記されており、この構成は高橋が考案したらしい。
俺が差し入れしたアイスをぱくつきながら、高橋が領収書を差し出してくる。
ここに運び込んだ機材の領収書らしい。
プリンター、予備の一眼レフデジタルカメラ、ノートパソコン、模造紙や細々した文具、そういった物を、オフィス用品をデリバリーする会社の依頼したらしい。
「アシがつくと嫌なので、現金払いにした。支度金がすっからかんだぜ」
俺は財布ごと高橋に渡す。
中には十万円ほど入っているはずだ。
高橋は、アイスについていたペラペラのスプーンを口に咥えたまま、慣れた手つきで財布から一万円札を抜き取り、俺の目の前で数えはじめた。万札を抜いた後の財布は、俺に投げて返してきた。
「足らないよ」
「今はこれしかない。次来る時に残金を持ってくる」
財布をポケットに戻しながら俺は苦笑を浮かべていた。
蹴られ続けた野良猫みたいに怯えていた『教授』は何処に行ったのやら。
「交代だぜ、高橋さんよ。やあ、伊藤さん」
大柄な男がのっそりとトイレから出てくる。松戸から紹介を受けた田中だ。
このトイレの窓が『財団法人犯罪被害者支援会』が入っている雑居ビルを監視するのに最適で、田中と高橋は交代で見張っているのだった。
取り寄せたオフィス用品の中に、備蓄品として防災グッズの『簡易トイレ』があったのはそれが理由。
あくまでも、これは「緊急事態」用で、普段はこの雑居ビルに一階の防災センター用の共有トイレを使っているらしい。
「差し入れっすか。ありがたいっす」
田中は遠慮なくコンビニの袋に手を突っ込み、カップのアイスを二個取り出した。
俺に渡してくれるのかと思ったら、どうやら二つとも自分で食べるらしい。
「拳の靭帯を壊しちまって。これは再生手術の跡っすよ」
俺が右手の甲にある大きな傷を見ているのに気が付いたらしい。図体で勘違いされそうだが、コイツはかなり頭の回転が速く、敏い。
「痛そうだな」
「今は、特に」
バニラアイスを、僅か三口位で平らげ、キーンとこめかみが痛んだのか、田中が武骨な顔を顰める。
今度はチョコミントのカップを開け、そこにペラペラの付属スプーンを突き刺す。
「この傷を負った日、ある男が死んだんすよ。まぁ、この傷は奴の墓標みたいなものっす」
田中はそう言って、ほろ苦く笑いながらそっと右手の甲の十字の傷を撫でた。
彼の手の傷は癒えた様に見える。だが、心に負った傷は癒えてはいない様に見えた。
誰もが、傷を抱えて生きている。
田中も、松戸も、黒澤も、魔法使も、裕子も、誰もが皆。そして俺も。
「やっこさん、出てきましたぜ」
トイレから高橋の声がする。
俺は折り畳みの簡易ベッドから身を起こして、床に畳んで置いた背広を羽織る。
「あとは頼んだ」
「数人顔写真が揃ったら、ほぼ全員揃うっす」
眠っているとばかり思っていた田中が、ぼそりと言う。
いや、たしかに眠っていたので、きっと眠りが浅い性質なのだろう。
「助かるよ」
「いや、ビジネスっすよ。きっちり約束の銭は頂くっす」
いつもは、桑田はここから有楽町線に乗って小竹向原駅に向かう。
だが、今日は途中の池袋駅で降りてしまった。
それを尾行する。
ぶらぶらと西口に向かっているようだ。
池袋は『東武デパート』と『西武デパート』があり、西口が『東武』、東口が『西武』と、田舎から出てきた者は少し混乱するらしい。
桑田が西口を出て、北上する。
池袋駅北口周辺のラブホテル街に向かっている。
北口を使わず、広い西口を使ったのは、人の群れに紛れるため。
駅構内から北口に向かうルートは、狭くて人が少ない。用心深い桑田らしい行動だった。
これでピンときた。
桑田はまた『口入屋』の古矢田と連絡をつけようとしているのだ。
誰かの指令を受けたということか。
案の定、桑田は古矢田の店の前を通り過ぎる。
普通の通行人みたいに、店の方に眼も向けない。
店の灯りが消えているので、不審に思ったのだろう。
古矢田は既に黒澤に鉛弾をぶち込まれて、今頃は死体隠蔽の専門家『解体屋』に引き渡されていることだろうが、桑田はこのことを知らない。
桑田は、ここから立ち去る動きを見せていた。
ちょっとでも違和感があれば即撤退。なかなかいい判断だ。
スマホをポケットから出して、どこかに連絡を入れている。
俺も魔法使に電話を入れた。
「なあに?」
よかった。今日は機嫌がいい声だ。
「黒澤から、古矢田のスマホを受け取ったか?」
「うん」
「そこに今、着信はあるか?」
「ないわ」
「そうか、ありがとう」
「うん」
今回は俺から通話を切った。魔法使は何か話したそうな様子だったが、今はそれどこではない。
桑田は古矢田が不在と見て、彼奴に電話を入れたのかと思ったのだが違うらしい。
古矢田と連絡がとれなくなった桑田は、何処に連絡をいれたのか?
次にどうするのか見届けなくてはならない。
桑田は池袋西口公園に足を向ける。
ここは昔、『援助交際』という名の売春をもちかける女と、それを漁りにくる脂ぎった親父どもをマッチングする場だったところ。
今は、閉館時間を過ぎて灯りを落とした『芸術劇場』の大きな窓ガラスを大鏡に見立て、金がないダンサーや演劇人の卵たちがレッスンスタジオ代わりに使っているらしい。
所轄警察署の浄化作戦の効果もあって、この公園は比較的健全な場所になってる。
かつて、売春と買春のマッチング会場だった噴水広場の縁石に、桑田は腰かけている。
誰かを待っている。そんな様子だった。
夜の公園に、ぶらぶらとスーツ姿の男が歩いてくるのが見えた。
普通のサラリーマンに見えるが、違う。
俺は自動車警邏隊にも所属していたことがあるので、違和感には敏い。
普通の通行人と、何か怪しい奴とは、一見同じでもどこかが異なるものだ。
男が、ぼけっとライトアップされた噴水を眺めている桑田を観察し、周囲に目を配っているのが分かった。ほらな。こういう奴は堅気じゃない。
フラッシュを焚くわけにもいかないので、デジカメの動画機能でこの男を捉える。
ファインダーを覗きながら、どこかで見た顔だと気が付いた。
細面の顔。金壺眼。人中がせり出していて、どこか猿を思わせる容貌。
ただし、どこの誰だか、記憶の引き出しから出てこない。
俺は、何十人もの指名手配犯人の顔が頭に叩き込まれていたのだが、その能力はすっかり錆びついてしまったらしい。
苛立たしくて、情けなくて、思わず舌打ちが出た。
また、魔法使の『顔認識ソフト』に頼らなければならないだろう。
二言三言、猿男と桑田が言葉を交わし、猿男は池袋北口方面へ、桑田は西口へと歩きはじめる。
俺は迷ったが、結局猿男を尾行する事に決めた。
桑田の住居は割れているので、新しく舞台上にあがった野郎の正体を調べるのが先だと思ったのだ。
猿男は、かつてポルノ専門に上映していた映画館の跡地を通って、ラブホテル街に入ってゆく。
池袋北口には、商店街の枝道を入るとラブホテルに行きつくという変わった場所で、かつては西口でマッチングを終えた売春女と買春男が連れ立って歩いている場所だった。
今は、そんな姿は見かけないが。
異様に猿男は用心深く、尾行は神経を使った。
突然、コースを変えたり、曲がり角でしばらく立っていたりして、油断できない。
「何を怯えてやがる」
猿男はコンビニに寄り立ち読みしているが、眼は雑誌など見ていない。
通りを監視しているのだ。
俺は、視界に入らない暗がりで男がコンビニから出てくるのを待っていた。
十分ほどで、猿男がコンビニから出てくる。
何も買わなかったようだ。
尾行者はいないと安心したのか、普通の足取りで五分ほど殆ど閉店している商店街をぶらつき、ある雑居ビルに入ってゆく。
住所を記憶し、二十ほどある郵便ポストをさりげなくデジカメで撮影する。
監視カメラがあるので、慎重に死角を選ぶ。
オートロックのドアの先にエレベーターがあり、最上階の五階でランプが停まった。
猿男は五階で降りたらしい。
五階にある四つのテナントを見る。
個人輸入代行の貿易会社っぽい社名が、ワンフロアを占拠しているらしかった。
新しい手筋だ。
俺は警戒される前に、その場を離れる。
この貿易会社と汚職警官と『財団法人犯罪被害者支援会』と『社団法人心的外傷ケア協会』。
これがどう繋がっているのか、まだ全体像は見えてこない。
だが、裕子を殺して自殺に見せかけた『毒蛇』の頭を掴んだ感覚がある。
陽の下に引きずり出して、ズタズタに切り裂いてやる。
俺の胸に暗い情念の炎が灯っていた。




