死者からの依頼
俺には特に行くあてもない。
なので、気が付くと『BOWMORE』に足が向いてしまう。
ある時は、曲名も知らないジャズに耳を傾け、どんな豆を使っているかわからない珈琲を飲む。
また、ある時は、聞いたこともないシングルモルトの由来などをを聞きながら、それを勧められた飲み方で試す。
そうして、一日が終わってゆく。
エイブ老人は、毎日こんな様子では健全ではないと考えているようで、色々な小さな用事を俺に頼んでくる。
誰かに書類を届けたりする、ガキの使いの様な用事から、トラブルの解決みたいな事柄まで、様々だ。
俺はこの街でエイブ老人を介していろんな人に『便宜を図る』無許可の探偵みたいな役割を果たしていて、それをこの変わった老人を喜ばせるためだけにやっている。
「バーに探偵がいるのが、憧れだったのですよ」
ここは、彼の願望が顕現した場所。
俺にはどうせやることがないし、それならば『エイブ劇場』の小道具になってやってもいい。
そう、思っていた。
いつもの様に端の席に座ると、エイブ老人が焙烙鍋で珈琲豆を炒り始めた。
小さな陶器の鍋に豆が転がるカラカラという音が、眠りを誘う。
立ち上る香ばしい匂いも相まって。
この香を邪魔したくなくて、俺はカウンターではタバコを吸わない。
そもそも、あまりタバコは好きじゃないんだ。
俺の同期で数少ない友人でもある『互助会』の傭兵をやっている男は、ヘビースモーカーだったが。
胸ポケットにあるハイライト。奴はこればかりを吸っていたっけ。
カウンターにふと目を移すと、ジャック・ダニエルのミニボトルに、可憐なスズランの花が一輪生けてあった。
「あの人、死にましたよ」
エイブ老人が、珈琲を焙煎する手を休めず、ぽつんとつぶやく。
俺は、一瞬誰の事だかわからなかったが、ジャック・ダニエルとスズランで、暴行されているところを助けた売春婦の事だと気が付く。
売春稼業から足を洗う。
そんなことを言っていた。
よく考えたら俺は、彼女の名前すら知らない。
名乗ったのかも知れないが、記憶にない。
焙煎を終え、炒りあげた豆の粗熱をとる間に、エイブ老人が棚から白い封筒を取り出す。
それを、俺の前に差し出した。
「これを、裕子さんから。預かっていたものです」
その封筒には、ニ十枚の一万円札と、几帳面な字で書かれた手紙が入っている。
手紙には、ヒモの暴力から救ってもらったお礼と、それがどれほど嬉しかったかが、綴られていた。
人は、裕子に欲望を吐き出し、ただ通り過ぎてゆく。
そんな、彼女が抱えていた孤独が手紙に透けて見えた。そうか、お前、裕子って名前だったんだな。
彼女もまた『死人』であり、そこから抜け出そうとしていたのかも知れない。
「こいつは、受け取れない」
俺には彼女の魂に寄り添う資格がない。
金も手紙も『死人』には過ぎた代物だ。
「これはね、彼女の初任給だったんです。受け取っておやりなさい」
体を売るのをやめ、マトモに働きはじめたのは、本当だった。
そのきっかけが俺だったと、手紙には書いてある。
「猶更、受け取れない。そんな大事なもの」
いやいやと、エイブ老人が首を振る。
「彼女は、お金を渡すことでしか、誰かの注意を惹けないと思っていたのです。あなたには、彼女の気持ちを受ける必要がある。縁を結んだのですから」
俺は、暴行されている彼女を見殺しにすることも出来た。
だが、それをしなかった。
それが、縁というモノなのかもしれない。
結局、封筒を受け取ることになった。
これは一種のバトンだ。
エイブ老人にしても、死んだ裕子にしても、そんな気は無いのかも知れないが、俺は裕子に対して何かをしなければならないという義務を背負ってしまった。
「では、このお金の分、彼女の事を調べてみます」
俺の言葉に、エイブ老人が苦笑を浮かべる。
「そこまでは、望んでいません。多分、彼女も」
大事なものを受け取った。それを俺が受け取るためには理屈が必要なのだ。
俺は事案を追う優秀な猟犬だった。
提供できるのは、その技術だけ。
だから、その猟犬の眼でこの事案を見直す。その依頼金なのだと考えたのである。
我ながら面倒くさい性格だと思うが、それが俺なので仕方がない。
プジョー社製のコーヒーミルで、焙煎した珈琲豆をエイブ老人がガリガリと挽いている。
ミル本体にある小さな引き出しを、それごと引き出すと、小さな山になった粉末状の珈琲が見えた。
それを、ペーパーを敷いたドリップにあける。
「本当は、ネルを使って濾した方がいいんですが、手入れが大変でね」
そんなことを言いながら、漏斗状の珈琲ドリップをとんとんと叩く。
こうすると、珈琲の目が詰まり湯の通りが悪くなって、じっくりと濾されることになるらしい。
細くお湯が出る様に注ぎ口が管のようになっているヤカンを、まるで科学者が実験器具でも扱うような慎重な手つきでエイブ老人が傾ける。
珈琲の粉が湿る程度で止めて、約二十秒蒸らす。
ふわっと、香りが立った。
裕子の事を思う。
笑うと、右の頬にえくぼが出来た。
口の脇に小さなほくろがあった。
髪は少し痛んでいて、それを気にしていた。
そんな、小さなことしか思い出せない。
顔だって、見ればわかるのかも知れないが、記憶が曖昧だった。
他人の顔を正確に思い出すのは、俺の特技だったはず。
どんな人ごみの中でも、指名手配犯人を見分けることが出来たはずなのに。
それが、この二年間の『死人』生活で、すっかり錆びついてしまったようだ。
エイブ老人が珈琲を淹れている。
俺は、ぼんやりとそれを見ていた。
なので、背後でマッチを擦る音が聞えた時はかなり驚いた。
この店には俺しかいないと思い込んでいたから。
肩ごしに振り返る。
照明の死角になる暗がりに、マッチの炎に照らされて一瞬だけ男の顔が浮かんだ。
珈琲の香りに、独特なタバコの香りが混じる。
ジタンというタバコの香りだ。
不思議と、珈琲の香りに合うような気がした。
男が潜んでいる暗がりは、ちょうど換気扇の真下。
紫煙は、店内に漂うことなく、ゆらゆらと換気扇に吸い込まれてゆく。
ジタンはあまり自販機では売っていないタバコだ。
タバコ専門店で買わないといけないのだが、コイツを好んで吸う奴を一人俺は知っている。
「捜査するなら協力しよう」
そんな声が聞えた。
まるで、オペラ歌手の様によく通る声だった。
のっそりと、暗がりから男が出てくる。
暗がりに居ると、まるで大きな獣が蹲っているように感じるのに、明かりの下に出ると、それほど大きな体格ではない。
ただし、顔はだいぶでかい。
体と頭の大きさのバランスが悪いのだ。
その頭は角ばっていて、まるで分厚い碁盤に目と鼻と口を大雑把に張り付けたような面相だった。
眉は太い。それが、八の字に下がっているので、まるで下駄の鼻緒だった。
この男、名前を 如月 隼 という。
まるで、宝塚歌劇団の男役の様な名前だが、本名だ。
名前と容姿とのギャップに侮られがちだが、コイツは日本の最高学府の法学部を上位の成績で卒業。
警察庁に捧職し、熾烈なキャリア同士の出世競争を勝ち抜いて警視正にまで最短距離で上った男だった。
その碁盤みたいな頭には、優秀な頭脳が収められていて、つられて眉が下がってしまいそうな顔の裏には、冷徹なエリート官僚の顔が隠れている。
俺は、コイツが大嫌いなのだ。
偉ぶったりしないので、ノンキャリの警官からも評判はいい。
だが、俺はどこかコイツにうさん臭さを感じている。
すべてが演技に見えて仕方がない。
侮られる容姿も、快活な性格も、名前ですら。
「ええっと、あー…… 今の君の名前は伊藤君だったね」
手に持った灰皿に短くなったジタンを押し付けながら、如月が言う。
これも、演技だ。
コイツの記憶力はズバ抜けていて、何年、何月、何日が、何曜日でどういった事件があったか、瞬時に言える男なのだ。
「ええまぁ……」
しかも、こいつは口がうまい。
如月のペースにはまらないようにするには、なるべく言葉を少なくすることだ。
珈琲が出される。
いつもとは、少し香りが違った。
「如月様も、よろしければ」
俺の隣に珈琲が出される。
如月が、拝むような仕草をして、それを受け取った。
目を閉じて、香りを嗅ぐ。
そして、ズズッと音を立てて珈琲を口に含んだ。
「パナマ・フィンカレリダだね。ああ、素晴らしいね。深い森の匂いがする」
などと言っている。
エイブ老人は、うれしそうだった。
「なぜ私の好みを知っているのかね?」
今度は、普通に珈琲を飲みながら、如月が言う。
ズズッと空気と一緒に珈琲を口に含むのは、鑑定士のやりかたらしい。
「秘書の方から伺っておりました」
「それで、わざわざ? いやぁすまんね」
「いえいえ、如月様なら、いつでも歓迎いたします」
キャリア様で警視正ともなると、総務課から秘書が派遣される。
警察官とはいえ、ノンキャリである我々と違い、犯罪の捜査というよりは役所の書類仕事が主な仕事だ。
秘書が交通整理をしないと、処理する案件が多すぎて収拾がつかなくなるのだろう。
といっても、コイツの場合は普通のキャリアとも違う。
警視庁最大の所轄署である新宿署に『重大犯罪捜査教導課』という異例中の異例の部署を作って、そこの責任者に収まっているのだ。
これは、事件に口は出すが責任は取らないという無責任な部署で、名目上は
『過去の事件を収集し、分類・分析を行うことによって、今後発生する重大犯罪に対し有効な手段を捜査本部に有用な助言と協力を行うため、総括的権限を持つこととする』
……と、なっており、多分現場では頭痛の種だろう。
この部署のキモは『総括的権限』の部分で、判りやすい言葉でいうと『なんでもあり』ということだ。