黒澤
握り飯屋に入る。握り飯と味噌汁しかメニューにない店だ。
早朝からやっている。大塚の売春組織摘発に手伝いに行った際、所轄の警官に教えてもらったのだった。
俺は、梅干しと鮭を具材に頼み、セルフサービスのお茶を安っぽいプラスチックの湯呑に注いだ。
具材はツナマヨネーズだのから揚げなどがあるが、俺はどうも受け付けない。食に関しても、保守的なのだろう。
客は俺を含め三人ほど。
二人はこれから出勤するらしい中年のサラリーマン。握り飯をテイクアウトするらしい。
もう一人は、水商売らしい女。
化粧が厚く眼に精気がないので、年齢不詳だ。
不意に死んだ裕子を思い出す。
彼女は、眼に力があった。底辺の仕事をしていたが、そこから抜け出そうとしていた。
何かヤバい金に手を出して、手っ取り早く現状を打破しようとしたのは愚かだが、なにも死ぬことはなかった。殺されていいはずはない。
生きていれば、何度だってやり直すことは出来る。
死ねば、そこでおしまいなのだ。
気が付いたら、俺は握り飯を平らげていた。
『死人』にされて以来、思考がループする癖がついてしまった。
だれとも関係を深めず孤独に生きていると、自問自答が習慣になる。
そうやって、人は毀れてゆくのだろう。
無性に、エイブ老人の珈琲が恋しかった。
彼の城『BOWMORE』に静かに流れる俺には題名も知らぬジャズも。
金を払って店を出る。
用心深い猫のような眼で、水商売風の女が俺を見ていた。
俺の警察官の残香を感じたか。ひょっとすると、コイツは売春婦なのかも知れない。
店を出て魔法使に電話をかける。
「なあに?」
「やあ、おはよう」
彼女の声から、この日の機嫌を探る。
今日は、不機嫌な声ではない。運がいい事に。
「クロちゃんへの連絡でしょ?」
「そうだ」
昨夜と同じく、しばしの沈黙があった。
俺は、無言のまま待つ。
「クロちゃん、可哀想なの」
「どういうことだ?」
「言えない。本人から聞いて。専用電話回線、転送しといたから」
ブツンと、また一方的に通話が切られた。
黒澤が可哀想とは、一体何事なのだろう。
スマホを見ると、いつの間にか電話帳に黒澤の連絡先が追加されていた。
このスマホは魔法使から渡された物だ。何か仕掛けがしてあるのだろう。まぁ、俺には見当もつかないが。
いつの間にか作られている黒澤の短縮ボタンを押す。
会社や学校に向かう人々を眺めながら、壁に背をもたれかけさせる。
誰も俺を見ない。誰も俺に注意を向けない。
地面か自分のスマホの画面だけを見て、ただ歩いている。
俺は本当に死んでしまっていて、幽霊になってこの世界を漂っているのかもしれない……などという馬鹿な考えが頭にうかぶ。
「よう」
電話から、寝起きのような声。
黒澤はストイックで早起きだ。この時間まで眠っているのは珍しい。
「伊藤か? 今の名前は伊藤だったよな? 久しいな」
微かにオイルライターの「カキン」という音が聞こえる。
目覚めの一服ってわけか。相変わらずハイライトだろうか。
「力を借りたいと思ってね」
「いいぜ」
久闊のあいさつは無し。いきなり要件を切り出したが、こいつは即答した。
「内容くらい聞けよ」
「今、開店休業中で暇なんだよ」
ふっふ……と笑い声が聞こえる。自嘲の笑いだ。こいつは、決してこんな笑い方をする男ではなかった。魔法使の言葉は大げさだと思っていたが、にわかに心配になってきた。どうした? 黒澤……
「俺にわざわざ連絡を取ったってことは、暴力沙汰だろうが。いいぜ、なんでもやる」
黒澤は陽気な男だった。『死人』にされた後も、どこか『陽』の雰囲気があった。
今のこいつには、それがカケラもない。
俺は魔法使と違って、普段は黒澤と連絡をつけない。
だから、黒澤の変わり様に戸惑っていた。
「心配するな、大丈夫だよ。ちょっとゴタついて、しばらく逼塞していたんだ。そろそろ体を動かしたいと思っていたところさ」
俺の沈黙を逡巡と見たか、黒澤が言葉を重ねた。
別の選択肢を……と、考えなくもなかったが、黒澤ほど信頼できる者はいない。
信用に足る人物として松戸がいる。だが彼は俺と同じく荒事には向かない。
松戸の相棒の須加田女史は剣道三段の猛者だが、ヤバめの案件に巻き込むのを躊躇う。今やすっかり『表』の人間なのだ。『裏』の尻尾を引きずる松戸とは違う。
やはり、黒澤が適任者だ。それに、魔法使は彼には仕事が必要だと判断している。それを信じてみるしかない。
「お前の予想通り、荒事だ。ボクサー崩れの古矢田って知ってるだろ? あいつを捕えたい。俺にはなんとか言う拳法は扱えないしな」
「俺の流派は華嶽希夷門心意六合八法拳だよ。何度も教えただろ? いいかげん覚えろ」
「覚える気ねぇよ。今の古矢田の住居のデータを送る。野郎、引退したはずなのに『口入屋』で復活していやがった」
「そうか、では、お仕置きしないとな。連絡、感謝する。頼ってもらえてうれしい」
こいつは、聞いててこっちが赤面しちまう言葉をさらりと言う。今みたいに。
「奴の住居は要塞化してるぞ。俺に手には負ん」
黒澤が鼻で笑った。
「慣れてるからな。任せろ」
そう言って通話を切る。
ハイライトを咥えようとして、俺が寄りかかる壁に貼られたポスターに眼をやる。
『豊島区は路上喫煙禁止です』
……と、書いてある。ポケットにハイライトを戻し大塚駅まで歩く。
大きくカーブして、ガタゴトと都内唯一の路面電車が走っていた。
新宿南口に向かう。都庁のある方向だ。その下には新宿中央公園があり、その一角には路上生活者のコロニーがあった。
近くのコンビニで、ワンカップの日本酒を六本買った。
それを、ぶら下げて木々の隙間にあるブルーシートで造られたテントが散在する木立に入ってゆく。
かすかにラジオの音がする。
煮炊きの臭いもした。
こんな都会の片隅で、家も戸籍もない者たちが暮らしているのだ。
盥で洗濯をしている男を見つけて、近づいてゆく。
髭面の男は手を休めず、上目づかいに俺を見た。
「人を探しているんだが」
そう言って、そいつの前にしゃがむ。
警戒して、男の眼がすっと細くなった。
「アンタ、警察か?」
東北訛りの声。
バブル経済と呼ばれた時期、都市部には建築ラッシュで多くの労働者が流入した。
東京は東北からの出稼ぎ労働者が多かった。
バブルが弾けたあと、一攫千金を夢見て東京に来た労働者はあぶれてしまう。
殆どは郷里に戻ったが、何らかの事情で里帰り出来ない者は、最初は山谷などのドヤ街で日雇いの仕事につき、そこからあぶれると上野公園や新宿中央公園に流れる。
この金盥と洗濯板でシャツを洗っている男は、そうした人たちなのだろう。
「ちがう、俺は警察官じゃない。まぁ、探偵みたいなものだ」
うさんくさい奴とは思われただろうが、警戒感は薄れたようだ。
身じろぎして、わざとビニール袋の中身を見せる。
ワンカップの酒をみて、男がひび割れた唇をなめた。
「命の恩人を探しているんだ。若い男。癖毛の長髪。レンズに罅が入った黒縁の眼鏡。記憶力がいいんだ」
そう言って、俺は袋ごとワンカップの酒を男の方に押しやる。
男は、ひったくるようにしてそれを受け取り、大事に抱きかかえた。
「多分、そいつは『教授』だよ。ほら、あのテントに住んでる」
男が指を差す。
そこには、木材の端切れとブルーシートで造った台形のテントがあった。
「ありがとう」
そう言った時には男はもうワンカップを開けて、飲んでいた。
その眼が「はやくあっちいけ」と言っている。
一応ドアらしき構造物があったので、ノックする。
返事がないので「入るぜ」と声をかけてべニア板のドアを開ける。
そこには、俺が今井にぶちのめされた時、俺から金を抜き取って『BOWMORE』に連絡を入れたホームレスの男が居た。
手には三十センチほどの鉄パイプに、カセットコンロ用のボンベを繋げた物を握っている。
これは、見た事がある。
ボンベのガスを鉄パイプ内に充填させ、百円ライターを分解して取り出した電気着火装置で爆発させて弾丸を飛ばす、使い捨て単発銃だ。
男は怯えていて、手がブルブルと震えていたが、まだ着火ボタンは押していない。
「おいおい、物騒なものを向けないでくれ」
害意がないことを示すために、両手を上げる。
男の頬がぴくぴくと不随意筋肉収縮を起こしていた。
「あれは、もうもらったものだ。返さないよ」
意外と幼い声だった。見た目より年齢は若いのかも知れない。
「あれは、君に進呈したものさ。それを取り返すつもりはないよ。単にお礼を言いに来たんだよ」
鉄パイプがやや下を向く。
手の震えも止まっていた。やれやれ、暴発のリスクは多少軽減したようだ。
「礼には及ばない。報酬はもらったし。さあ、帰ってくれ」
鉄パイプで、ベニアのドアを男は指し示した。
「情報がある。ここは、新宿の『浄化作戦』に指定されたんだ」
これは、如月からもたらされた情報。
俺を助けたのがホームレスの男と知って、わざとリークしてくれたのだった。
隅田川沿いの通称『ホームレス長屋』は強制排除された。
新宿駅地下街のホームレスコロニーも左翼連中が乱入して乱闘騒ぎになったが、排除された。
今度は、上野公園と新宿中央公園がターゲットに選ばれている。
「それは、困る」
「だろうね」
今は、こうしたテント村を形成するのは難しい。
ゆくあてが無くなったホームレスはどこに行けばいいのだろう?
だが、俺は少なくとも一人は助けることが出来る。
「新しい身分証と、住居。それを提供できるが、受けるかい?」




