荒事師、口入屋
深夜の新宿。
お行儀が悪いことだが、歩きながらスマホで電話をかけた。
ラブホテル街を抜け、酔漢が放吟し、中国語やハングルが飛び交う新大久保の職安通りを歩く。
たしか、死んだ裕子はこの界隈で客引きをしていたはず。
警視庁と東京都が共同して行った『新宿浄化作戦』で、辻の暗がりに立つ街娼は減ったが、かつての裕子の同業者を今でもチラホラと見かけることは出来た。
「なあに?」
電話から魔法使の気怠い声が聞えた。
彼女はきっちり深夜一時に就寝する。
就寝時間には、まだ三十分ほど余裕があったが、眠気が襲っているのだろう。
「やあ」
「嫌よ」
即座に拒否された。しかも、通話を切られてしまった。俺からの電話は、何か頼まれ事と予測したのだろう。
まず、気怠い声に関して何か気の利いた事を言えればいいのだが、咄嗟に思いつかなかった俺の失策だ。
まったく、面倒くさい女だ。
画像データを送る。
そこには、ぶちのめされた今井の惨めな姿が映っていた。
そのうえで、もう一度魔法使に電話をかける。
「なあに?」
「君の情報のおかげで、殴り返す事が出来た。まずは、お礼を言いたくてね」
心にもない事を言う。
俺の言葉に『誠』が籠っていないのは、異様に勘が鋭い彼女なら声でわかるだろう。
だが俺が「感謝を表明した」という事実が重要なのだ。
「うふふ……いいのよ。それに、貢物も気にいったわ」
機嫌がいい声。
それに、少し息が荒い。
彼女が今、ぶちのめされた今井の画像を見ながら何をしているか想像しかけて、やめた。
おぞましい映像しか浮かばない。
「頼みがある」
「いいわ」
「黒澤と連絡をつけたい」
魔法使の荒い鼻息が止まる。まるで、冷水をかけられたかのように。
しばしの沈黙。
俺は無言で待った。
「……そうね、クロちゃんには、リハビリが必要だもの」
そんな独り言を言っている。
「おい……」
「あ、大変。あと二分で寝酒飲まないと。また連絡するね」
「まて、おい、リハビリってなんだ?」
また、通話は一方的に切られた。
くそっ! 本当に面倒くさい女だ。
「あ? なんだ、おっさん」
罵り声が漏れたのか、数歩前を歩いていた若造が振り返る。
白茶けた髪。
耳には銀色のピアス。
安酒の匂いがした。
「俺にかまうな」
イラついて俺が思わず言った返答が気に入らなかったのと、酔って気が大きくなっていたのとで、その若造が絡んでくる。
一触即発の場面になっても、体は正面を向けているし、急所をガードする素振りもない。
俺の肩を小突いたが、全くの無防備。コイツはいきがってるだけの素人だ。
「先に手を出したのは、お前だからな」
俺はそう言って、膝をかちあげた。
若造の股間に膝頭が食い込む。
同時に右腕をくの字に曲げて思い切りぶん回した。
掌がこの若造の喉にぶち当たり、そのまま咽仏を握り潰すようにして掴みながら引く。
柔道の『小内刈り』のラフプレー版みたいな感じで、股間を蹴った右脚で乱暴に若造の足を刈る。
受身を取ることもなく、若造はアスファルトに叩きつけられていた。
地面を転げまわってげぇげぇ吐いている若造を見下ろし、次いで自分の右手を見た。
喉を掴み潰した俺の手には、まだ若造の皮膚の温もりが残っていて、ジンジンと痺れていた。
―― どうかしている……
この若造が生意気なクソガキでも、こんな過剰な暴力を加える必要などなかった。
ごしごしと掌をスーツに擦りつけて拭きながら、逃げるようにその場を去る。
俺は今、簡単に境界を踏み越えなかったか?
そのわりに、頭の中は冷えていないか?
再び猟犬の真似事をするようになって、俺は少し変わってしまったのだろうか。
いや、俺は『死人』になった日からとっくに毀れていて、今頃になってそれに気が付いただけなのかも知れない。
巣穴のような、棺桶のような、貸倉庫の中で目を覚ます。
簡易ベッドから身を起こし、寝袋のチャックを開けた。
使い続けていた寝袋からは饐えた汗の臭いがして、目覚めとしては最低の部類に入る。
時間は、早朝。四時間ほどぐっすりと眠った事になる。
着替えと石鹸を持ってシャワー室に向かう。
本来はこのビルの管理人のための施設なのだが、いつでも使っていいと言われているのだ。
このビルのボイラー室から直接供給される給湯システムらしく、うっかり『湯』のバルブだけを捻ると、熱湯が噴き出る危険なシャワー。
慎重に冷水と混合しつつ、ちょうどいい塩梅を探るのが面倒くさい。
髪も体も一個の石鹸で洗いながら、それでも背中に張り付いていた疲労は剥がれ落ちてゆくかのようだった。
ドアノブに引っ掛けておいたバスタオルを体を拭う。
バスタオルを腰に巻いただけの姿で、ペタペタとサンダルの音を響かせて巣穴に戻る。
早朝なので、誰とも遭遇しないはずなので、これでいい。
新しいワイシャツと下着を身に着けて、濃紺の背広を着用する。
このどこにでもあるスーツは、この都会での迷彩のようなものだ。風景に溶け込む。
地味なストライプのネクタイを締め、上野のアメ横の軍装品店で買い求めた軍用パーカーを羽織る。
夜勤明けで眠た気な守衛の佐々木さんとあいさつを交わす。逆三角形のまるでカマキリを思わせる顔が疲労で黒ずんでいた。
「また、夜勤を替わったんですか? 体、壊しますよ」
心配してそう言う。
満州で戦った元兵士の佐々木さんの孫みたいな年齢の同僚はトッポい兄ちゃんで、よく仕事をさぼる。
佐々木さんは、彼の代わりに夜勤を引き受ける事が多く、三日連続徹夜などというのも珍しくない。
「まぁ、俺、戦争いってるから」
佐々木さんは笑って、肉体疲労時の栄養補給を行うという有名健康ドリンクのインドネシア製パチモンドリンクを飲む。
このビルのテナントに、こうしたインチキ商品を輸入する代理店があるのだ。
そこのサンプル品を佐々木さんはもらってくるらしい。逆に体に悪そうなのだが。
「伊藤さんも飲むかい?」
「いえ、それ胸焼けするので」
佐々木さんの誘いを断って、信濃町駅前に出る。
まだ、通勤ラッシュの時間ではなく、駅は閑散としていた。
薄闇に無機質な白い蛍光灯が、微かな放電音を響かせて小さく瞬く。
人気のない信濃町駅のホーム。
闇を切り裂く巨獣の様に、ヘッドライトを光らせて電車が走っている。
朝まで飲んでいたのか、反吐の酸い臭いが漂う着崩れたスーツを着た中年男性が、何かをブツブツつぶやきながらシートに座っていた。また、別のシートでは、眠たそうな顔をした若い男女が互いにもたれ合うようにして座っていた。
窓には薄明の街の光景が、通り過ぎてゆく。
俺は、新宿で降りて、山手線に乗り換え、池袋に向かう。
今井が吐いた人材派遣をする人物の本拠地が池袋なのだ。
今井は言わばフリーランスの暴力代行。この業界では、『荒事師』と呼称される。
『荒事師』は個人事業主みたいなものだが、これらを名簿にまとめ需要と供給をマッチングさせる者が出てきた。
これが『口入屋』と言われる連中で、裏の人材派遣会社みたいな役割を担っていた。
俺を襲撃した何者かが雇ったのは今井。
その今井を、謎の人物に仲介したのが、元・荒事師の 古矢田 文造 という男だった。
年齢六十を超えて、業界から足を洗ったはずなのだが、またぞろ裏稼業に手を染めたらしい。
体格に恵まれただけの今井と違い、古矢田はクルーザー級のプロボクサー出身で、引退後はヤクザの用心棒を経て荒事師をしていた暴力のプロフェッショナルだった。
かなり狂暴な男だったので、まぁ、老いたりとはいえ俺の手には余るだろうと予想していた。
そこで、何度聞いても覚えることが出来ない長い名前の格闘技をマスターしている黒澤の助けが欲しかったのである。
その古矢田が事務所を構える池袋北口のゴチャゴチャしたラブホテル街を歩く。
一度は裏稼業から足を洗った古矢田は、引退金を使ってこの界隈に小さなバーを開いていたはず。
犯罪者が屯っている店で、昔の誼で仕事を世話するうちに、口入屋になったのだろう。
通行人を装って、店の前を通る。
窓ガラス代わりのステンドグラスを透かして、誰かが店内で動いているのが見えた。
古矢田 本人かどうかわからないが、確かに誰かがここにいる。
巧妙に隠しているが、入り口付近に監視カメラ。
木製に偽装しているが、入り口のドアは、多分鋼鉄製。
ステンドグラスは、見せかけだけできっと防弾ガラスに違いない。
カントリーウエスタン風の装いだが、要塞化されたヤクザの事務所そのもの。
古矢田の現役復帰は本当だったらしい。
だとしたら、そのツケは野郎自身で支払う事になる。
疑われる前に、この場を去る。
ヤクザの尻尾が未だについている古矢田は、本拠地を造る。
本拠地があると、事業活動がやりやすいが、それは弱点にもなるもの。
黒澤の組織のように、実体がない方が実は守りが堅い。
池袋から離れて、隣の大塚に移動する。
そこには、握り飯の専門店があり、俺はそこで朝食を摂ることにしたのだった。
魔法使が起床するのは、きっちり午前七時。
その後二十分間、ストレッチなどの運動をし、シャワーを浴びた後、軽い食事をする。
PCに向かって、俺にはさっぱりわからん作業を始めるのが、午前九時丁度。
午前八時四十分から二十分間の食休みがあるのだが、電話をするならその時間しかない。
作業の邪魔をされると、あの変態女は機嫌が悪くなる。




