狩りは静かに始まる
風の中に冬の気配がある。
高層ビルに囲まれた公園には、コンクリで冷やされた隙間風が流れていた。
西武新宿線が、ガタゴトとプラットホームを出て、ヘッドライトで闇を切り裂きながら走って行った。
物悲しい警笛を残して。
ラブホテル街の端。
電車の高架下の雑多な店。
チラチラと瞬く街灯。
そびえる高層ビルが、まるで巨大な渓谷に思える。
ポツンと残された公園は、谷間にこびりつく平地みたいだった。
ネットが無くなり、輪だけになったバスケットのゴールポスト。
そこに若者が四人。この寒いのにバスケの2on2に興じていた。
地面を叩くボールの音。靴底がアスファルトに擦れてキュッと鋭く鳴る。
彼らの笑い声が弾けて、ビルの谷間に反響した。
この公園のベンチで俯いて座っている俺は、コートの襟を立ててニット帽を目深にかぶっている。
くたびれた紺色のスーツ姿。これは、量販店で買った安物のスーツだ。
ワイシャツも、魔法使とエイブ老人からもらったシルク製ではなく、「皺にならない形状記憶ワイシャツ」。俺には、これで十分だ。
エイブ老人からもらったスーツもワイシャツも上等すぎて、使う場面を選ぶ。
靴は革靴に見えるが、実はラバーソールの安全靴。爪先に鉄板が入っている代物。
俺の目の端には、今井の姿。
錆びたバスケットゴールや子供が遊ぶ遊具の他に東屋があり、そこのベンチで雨風を防げる。
今井はそこを占拠して、日中の居所にしているのだった。
ゴリラみたいな巨漢がそこに居て睨みつけてきたら、気味悪がってだれも近づかないだろう。
見知らぬ人間に近づかれる事を嫌う今井にとって、広い空間にある東屋は『安全地帯』というわけだ。
俺は、コンビニの袋を手に下げながら、東屋の近くのベンチに座っていた。
コンビニの袋の中には、安物のジンのポケット瓶。
タオル地のハンカチに中身をこぼしてあった。
今の俺は酒臭いだろう。
週末の夜、酒臭いくたびれたサラリーマンがベンチで酔いを醒ましているのは、不自然ではない。
事実、今井が東屋を出ていつもの通り道を歩いていく時も、俺に一瞥も向けない。
景色に溶け込むのが迷彩ならば、おれがやっているコレも立派な都市迷彩と言える。
十メートルの距離をあけて、俺もベンチを立つ。
ジンをこぼした袋は、そのままベンチに残す。
ホームレスがこの公園を巡回していて、忘れ物をくすねたり、ゴミをさらったりしている。
彼らが、瓶に半分ほど残ったジンを見つけて、ホクホクで持ち帰るだろう。
ポケットに手を突っ込み、ハンズで買い求めた品物を握りしめて、今井の大きな背中を追う。
ラバーソールの靴は足音を立てない。
それに、もともと俺は静かに動く癖がある。
集団で歩いていて、いつの間にかフェードアウトするのは、俺の得意とするところだった。
背面に鷲が翼を広げたデザインの革ジャンを今井は着ている。
横須賀の古着屋で買い求めたものらしい。
今井は体格がいい。
米軍基地がある横須賀の古着屋は、米兵の私物の古着が売りに出されることがあり、サイズ的に今井に合う物が多いということ。
そんなことまで、松戸は調べ上げていた。
どうやって嗅ぎまわるのか、俺には見当もつかないが。
今井の『鼠の通り道』を行く。
彼奴が安全と思っているルート。
鼠の駆除業者の話では、ドブネズミは安全が確認できた通り道から外れないという。
それを見つけ、罠を仕掛けるのが、プロのテクニックらしいのだが、今井のような犯罪者も同じようなこだわりがある。
俺たち特捜部のメンツは、それを『鼠の通り道』と呼んだ。
今井にとっての『鼠の通り道』は、公園から人通りの多い職安通を抜け、住宅街に入るルート。
そこに、今井がヒモの真似事をしているトウが立ったキャバ嬢の部屋があり、彼女が出勤している間に彼奴がシケ込むのだ。
その不細工なキャバ嬢は明け方帰宅するのだが、無人の部屋に帰るわけではないというのが良いらしい。
ゴリラと不細工。いい組み合わせだよ。
用心深い今井も、キャバ嬢のアパートの近くまでくると気が抜けるのか、ヘッドホンをつけて音楽を聴きはじめる。
松戸が掴み、俺も確認した今井の『癖』だ。
十段ほどの階段がある。
新宿近辺はもともと丘陵地帯で、意外と段差が存在していた。
この地点の街灯は切れていた。
偶然ではない。俺が石で割ったのだ。
コンビニもオフィスビルもないので、監視カメラがないのは確認していた。
街灯が切れていて灯りがないので足元が危ないが、今井は慣れた道なので気に留めていないようだ。
足取りは変わらない。
ヘッドホンを今井が付けたのを確認して、俺は一気に距離を詰めた。
俺は足音をさせないし、大音量の音楽が今井の耳を塞いでいる。
後方は全くの死角になっていた。
ポケットから、ハンズで購入した旅行鞄の中身を整理するための大きな巾着袋を取り出す。
それを広げた。
そして、大きな今井の背中に飛びつく。
ゴリラ野郎は、コインロッカーの時の俺と同様、背後からの襲撃に気が付かなかったようだ。
すっぽりと、頭から袋をかぶせられて、「うお!」と声を上げる。
俺は、巾着袋の紐を思い切り引いた。
今井の首が締まる。
彼奴は咄嗟に首を守ろうとして、手を上げた。
俺は、その瞬間に、革ジャンを背中の途中まで引きずり降ろす。
革ジャンに引っかかって、今井の手が胸のあたりで止まった。
慌てずに手を後ろに回して革ジャンを脱げば、この一種の拘束状態を脱する事が出来のだが、今井はパニックになっていた。
それもそのはず、頭に布袋を被せられて、ヤクザに凄惨なリンチを受けた経験があることを松戸は探り当てていた。
今井の「攻撃衝動」も「神経質」もこれがトラウマになっているから。
それをコイツは追体験しているのだ。
今井の腕の筋肉が膨れあがり、革ジャンがミチミチと音を立てていた。
パニックのあまり、引き千切ろうとしているらしい。
俺は横蹴りの要領で、今井の膝の裏を思い切り蹴り、間髪を入れず肩を今井の背中にぶち当てた。
二歩、よろよろと今井は歩いて、階段を踏み外す。
両手がふさがったままの今井は、受け身をとることも出来ずに、痛そうなゴンゴンという音を響かせて階段を転げ落ちてゆく。
転がった今井が、仰向けになって地面に横たわる。
左手の指が、不可能な方向に曲がっているのが見えた。
右の手首は力が入らないのか、ぷらんとぶら下がるだけ。
脱臼したのかも知れない。
布製の袋が、じわじわと黒く濡れてゆく。
鼻を強打したのだろう。大量に鼻血が出ているのだ。
ひーひーと悲鳴を上げながら、今井が後ずさる。
俺はわざと足音をさせて、悠々と階段を下りた。
そして、無言のまま、今井の頭を思い切り蹴る。
鉄板入りの爪先がゴツンと今井の頭蓋骨に当たる。
蹴る。
蹴る。
蹴る。
蹴る。
蹴る。
今井の体を万遍なく蹴る。
特捜部に配属になる前、俺は江戸川区葛西所轄の地域安全課に勤務していて、そこは土地柄なのか粗暴犯が多かったのだが、自称『喧嘩屋』を取り調べたことがある。
そいつが、得意気に人間の弱点をペラペラとしゃべったのだが、俺はそれを覚えていたのだ。
脚の脛の脇にある腓骨を蹴る。
肋骨の脇に爪先を喰い込ます。
鎖骨を踏み抜く。
どれも、折れやすい骨だった。
「てめぇ! こんな事してタダで……」
今井が口を開くたびに、蹴る。
下手したら死ぬなぁと思いながら、それでも止まらない。
俺は暴力的な人間ではなかったはず。
なぜ、止まらないのか。
脳内で、殴り回されていた自分の映像が再生されていた。
『野良犬』と蔑まれた。
今井が悲鳴と哀願だけを口にするようになる。
壊す。
毀す。
砕く。
心も、肉体も。
今井はそうなりつつあった。
スリムジーンズの股間が濡れている。
今井は失禁していた。
泣いている。
叱られた子供の様に。
くそっ! くそっ! くそっ!
今、危うく喉を蹴り潰しそうになった。
そうなれば、今井がいくら頑丈でも死ぬ。
『俺は今、何の躊躇いもなく殺そうとしなかったか?』
急に沸騰していた頭が冷えた。
どうかしている。
俺は「死人」にされてから、何かが変わってしまったようだ。
ポケットから、携帯ランプ用のホワイトガソリンを出す。
そのキャップを開けて、今井の頭に被さった布袋にどぼどぼとかけた。
今井はそのガソリンの匂いに竦み上がったみたいだった。
ハンズで入手したジッポライターの蓋を開ける音を聞かせてやる。
「やめてくれ、やめてくれ、お願いだ、やめて」
俺は、頭のニット帽を引きずり下ろす。
これは、折りたたんだ目出帽なのだった。
顔を隠す。
そのうえで、
「頭の袋を取れよ、今井 貞夫」
と言う。
この私刑を始めて、最初に出した声がこれだった。
フルネームを言ったのは、お前の事を調べているぞという暗喩。
メッセージは伝わったか、ガクガクと今井が震えはじめた。
「いやだ! 取らない! 顔は見ません」
今井は袋を取る意味が分かっている。
俺をヒットマンと思っていて、顔を見たということこは、殺されるということだと理解しているのだ。
「てめぇ、警察官と組みやがったな、タダじゃすまねぇぞ」
わざと伝法な口調で言う。
「何のことか……」
今井が口ごもった。
血とオイルで濡れた袋がせわしなく膨らんだり萎んだりしている。
呼吸が荒くなったのだ。
わかる。これは、恐怖のサインだ。
「とぼけてもムダだ。上野署の誰と組んだ? 言え、今井」
見ていて哀れなほど、今井が震える。
「し……知らなかったんです、相手が警察官だったなんて。仲介されただけなんです」
「仲立ちした奴は誰だ?」
いやいやと今井が首を振った。
「勘弁してください、殺されちまう!」
ジッポライターのホイールロックを擦る。
ボッと点火した音。
「焼きゴリラにするぞ、てめぇ」
また、今井の頭を蹴る。
今井は悲鳴を上げた。
そして、叫ぶようにある店の名前を告げたのだった。




