猟犬は再び臭跡を辿る
病院内のカフェで松戸と会った。
相変らず表情に乏しい顔で、病院のクソ不味い珈琲を飲んでいる。
「やぁ」
「おう」
短い挨拶を交わす。
コイツと会うのは一年ぶりだ。
「クソ不味いだろ? それ」
安っぽいプラスチック製の椅子を引き寄せて座りながら言う。
松戸はずずっと珈琲をすすり……
「美味いか不味いか、オレにはわからんし、興味もない」
……と、ぶっきらぼうに松戸は答えた。
俺は紅茶をたのむ。
お湯と市販のティーバックが出てくるだけで四百円もするボッタクリメニューだが、これが一番味的にはマシだった。
コイツには、俺をぶちのめしてくれた「今井 貞夫」の身辺調査を頼んだ。
このゴリラ野郎が立ち寄る場所、交友関係、住所、一日のタイムスケジュールなどを調べてもらうためだ。
それが、紙製のフォルダにまとめてあった。
それを松戸が、フォーマイカの安っぽいテーブルに置く。
俺がそのフォルダに手を伸ばすと、松戸はそれを遮るようにフォルダの上に分厚い手を乗せた。
その手の甲には十五センチほどの傷跡があり、これは短刀で突かれた時に掌で受け貫通した時に出来た傷だった。同じような傷が掌側にもある。
「オレにも、一枚噛ませろ」
強い眼で、松戸が俺を睨む。
相変らず、何の起伏もない平坦な声だが、俺には怒りが滲んでいるのがわかる。
「いいのか? こいつは、如月がらみだぞ?」
松戸が唇を引き結ぶ。
「くそ、くそ、くそ! 野郎は今、汚職事案に鼻先を突っ込んでいるという噂だぞ」
如月め、やはりそうか。
松戸は彼の退職に同情的な元同僚らのコネが警察内部にある。
須加田にもおなじく。
だから警察内部の『噂』が耳に入るのだ。
「如月からみじゃなけりゃ、手助けしてやれたんだが、オレはここで手を引く」
何の起伏もないしゃべり方なので、付き合いのない奴はわからないだろうが、松戸は残念そうだった。
「如月が、そんなに嫌いか?」
「嫌いだね、大嫌いだよ」
人当たりのいい如月なのだが、なぜか松戸のような叩き上げの警官だけには嫌われる。
彼奴のうさんくささが、鼻につくのだろう。
俺もそうだ。
「浮気調査とか、うんざりなんだよ。お前と組めば、面白い事案に絡めると思ったんだがな」
コイツの言う『面白い事案』は、俺たちを「死人」にした一連の事案のこと。
俺たちの手の届かないところで、俺たちを掛け金にしたゲームをした奴らの喉笛に松戸は喰いつきたいのだ。腹を食い破って、内臓を引きずり出したのだ。
等しく、その願望は俺の胸にもある。
それを知っているので、松戸は俺の事を同志と思っているのだった。
「俺の様に『死人』にされたならともかく、『生きている』お前が首突っ込んだら、死ぬぜ」
誰だか知らないが、相手は警官も平気で殺す連中で、危険だ。
組織の後ろ盾のない松戸は特に危険だった。
すっかり冷めたクソまずい病院の珈琲をぞぶりと飲んで、松戸が顔をしかめる。
「オレの今の有様が、『生きている』って言えるか? え?」
松戸は、俺の金を受け取らなかった。
ただ働きさせてしまったようだが「見舞金の代わりだ」といって、頑として受け取らないのだ。
『面白い事案』には必ず噛ませろと念を押して松戸は去って行った。
松戸と組んでいる須加田の苦労がわかる気がする。
資料を隅から隅まで読む。
そこには、俺を殴り回しやがった『今井 貞夫』の行動が事細かに書いてあった。
尾行し、写真を撮り、記録をつけ、裏付ける。
ヤクザの下請けをしているチンピラである今井の生活が手に取るようにわかる。
重要なのは、奴の固執だ。
今井はいろんな奴の恨みを買っている。
だから用心深い。
それゆえ、安全と分かっているルートや方法に固執する。
罠にかからない賢いドブネズミは、安全なルートを発見するとそこしか通らない。
それが……
『鼠の通り道』
今井のような犯罪者も同じように鼠の通り道を持っている。
松戸はそれを探り出すのが異様に巧みなのだった。
今井は、一日の大半を新宿駅に近い映像関係の専門学校の近所の公園で過ごす。
広いところに陣取るのは、誰かが近づいても事前に見ることが出来るため。
そして、この公園はラブホテル街の外れにあり、公園から走り出ると迷路のような入り組んだ道に入ることが出来る。
今井はパラノイアの傾向が、あり「自分が特別だ」という根拠のない優越感があると同時に、誰かに狙われているという強迫観念もあり、一定以上に誰かが接近すると攻撃衝動を見せることがある。
これは、彼奴がとある組の売上金をくすねた時、監禁されてヤキを入れられた経験による。
これが、心の傷になっているのだろう。
広くて見通しがきく人気のない公園は、彼奴が安らぐ空間なのかもしれない。
今井はトウが立った落ち目のキャバ嬢のヒモを気取っており、西新宿にあるその女の部屋を住居にしているが、その公園から決まった時間に決まったルートで帰る。
彼奴にとっての『鼠の通り道』だ。
リハビリの傍ら、外出許可をとって、そのルートを辿ってみる。
防犯カメラの位置。
街灯の有無。
人通りの多さ、少なさ。
そういった事柄を綿密に調べてゆく。
体はめきめきと修復されていき、自主的なトレーニングのおかげで、リハビリ担当の横河さんが目を見張るほどになった。
体は、多分殴り回される前よりだいぶ軽い。
それはそうだ。
まるで刑務所にでもいるかのように、規則正しく病院食だけを食べ、体を鍛え続けているのだから。
鍛え、シャワーを浴び、食い、眠る。
資料を読み、実際に現地を歩き、今井の動きをトレースする。
頭の中には、襲撃プランが出来上がりつつあった。
あとは、自然に体が動けるように調律するだけ。
松戸から資料を受け取って、ほぼ一週間が経過していた。
眼窩骨折はほぼ修復され、左手の骨折も、肋骨も、同じく修復された。
退院の日取も決まり、理学療法室に通うのも最後になる。
「伊藤さんは、ボクシングとかされているのですか」
俺の左手をマッサージしながら、横河さんがそんなことを言う。
「いいえ。格闘技はやりません」
俺とおなじく『死人』にされた同僚の黒澤は、何度聞いても覚えられない長い名前の拳法を習得していて、合気道も柔道も逮捕術も射撃の腕も抜群で、まるで戦士の様な男だったが、俺は術科に関しては中の下といったところ。射撃などからきしだった。
「私の元彼がボクサーで、ちょうど試合前の減量中の様子が、伊藤さんみたいな感じだったのです」
まぁ、試合前というのは、言えているかもしれない。
マウンテンゴリラみたいな 今井 貞夫 を殴りにいこうとしているのだから。
「なんだか、怖い目をしていて、近付きにくくて……」
俺の目つきが悪いのは生まれつきだが、いつぞやは看護師も怯えさせたし、今度は横河さんまで怖がらせてしまったようだ。
つまりは、印象に残ってしまったということで『死人』としては、よろしくない。
「はは…… 昔、やんちゃしてましたから、未だにその尻尾が残っているんでかね。お恥ずかしい限りです」
そう、嘘ついて頭を掻く。
やんちゃどころか、俺は何の面白味もない普通のガキだったよ。
それにしても、死人になってから、何度嘘をついただろう。
俺の存在自体が嘘みたいなものなのだが。
「でも、横河さんのご指導で、入院前より体が絞れたような気がします。今までありがとうございました」
深々と頭を下げると、彼女が首筋まで真っ赤になって慌てる。
「伊藤さんが努力なさった結果です。私、初めて担当患者さんを持ったもので、ウザかったんじゃないかって、ずっと心配で。とにかく、伊藤さんが元通りになってよかったです」
まぁ、熱意が空回りするきらいはあったけど、まだ若いからしかたあるまい。
最後のリハビリを終えると、医務局から院内処方箋と請求書が届けられた。
病院内の薬局から痛み止めを受け取る。
「どうしても痛かったら飲んでください」
と、渡された薬には全く手をつけていないので、ストックが増えるだけなのだが、それをポケットに仕舞う。
約一ヶ月分の入院費を払って、晴れて退院となった。
経過観察のため、予約をとらされたが、多分もう来ないだろうとおもう。
野に放たれた猟犬は、再び臭跡を辿らなければならないから。
まずは、今井だ。
こいつを捕え、今井を末端とする 手筋を手繰る。
組織内組織『互助会』の幹部という噂の如月が絡んでいるとなれば、おそらく警察内部の汚職事案。
本来は内部監査の仕事だが、警察の内部監査の警官は、
『なるべく偉い奴に貸を作って、後々うまい汁を吸う』
……のが主たる目的で、殿上人のキャリア様とも地を這うノンキャリとも別種の奴らだ。
組織に巣食うダニだと嫌う者も多い。
そもそも内部の綱紀粛正が機能してたら、不祥事のデパートと揶揄される神奈川県警があんな体たらくのわけがない。
度々外出していたが、退院後の空気はまた別物だ。
見えない鎖がつながっていた様な今までと違い、自由はいい。
久しぶりに『BOWMORE』に足を向ける。
エイブ老人には色々と世話になった。きちんとお礼に伺わなければならない。
嫌だが、如月にも。
そのあとは、新宿南口の東急ハンズで必要なものを買い、新宿西口周辺に居る今井を狙う。
上野署の誰かが今井と接触した。
その誰かがわかれば、裕子が横領しようとした金がどんな金なのかがわかる。
まずは、今井から聞き出せるだけの情報をすべて吐き出させないといけない。
そして、俺をぶちのめしてくれたツケをたっぷりと払ってもらうつもりだ。




