残り香
俺は死んだ。
正確には「死んだことになっている」 ……だ。
俺はとある重大犯罪を追跡する警察庁長官直属の『特別捜査部』に抜擢された警察官だった。
単に『特捜部』とだけ呼称される異例のタスクフォースチーム。
自分で言うのもなんだが、俺たちは優秀だった。
問題は優秀すぎたこと。
捜査の過程で、当時の権力者にとって色々と都合が悪い事実まで掘り出してしまったらしい。
俺たち、地面を這いずる現場の警察官にはわからない取り決めが、雲上人のキャリア様と敵との間でなされたのだろう。
警察庁長官銃撃事件を境に『特捜部』は急きょ解散。
集められた優秀な猟犬たちは、それぞれの都内所轄署や県警に帰っていった。
それから、しばらくしてのことだ。
元・特捜部の警官が死んだり社会的に抹殺されたりし始めたのだ。
一時期、警官の拳銃自殺や、不祥事による懲戒免職が続いたことがあっただろう?
あれらの殆どは、特捜部の連中だった。
彼らは自殺したのではない。殺されたのだ。
彼らは不祥事などしない。嵌められたのだ。
俺たちを、キャリア様たちは助けてはくれなかった。
頬かむりをして、見て見ぬふりを決め込みやがったのだ。
追い詰められた俺たちを救ったのは『互助会』という名前の、公式には存在していない警察内の相互支援組織。いわゆる『組織内組織』っていうやつだ。
仕事の特殊性から、我々は普通の保険にも入れない。なので、警察共済という仕組みを利用する。
これも相互互助組織だが、『互助会』はもっと幅が広い。
例えば、命を狙われた警察官を死んだことにして保護したりもする。
日本ではあまり前例がないが、アメリカなどでは『証人保護プログラム』という制度があり、裁判の際、検察側に有利な証言をする代わりに警察権力がその証人を保護するというもの。
そのために、新しい身分証を作り、全くの別人として、知らない場所で人生を再出発させたりする。
不利な証言をされた犯罪組織から、証人を守るためだ。
その証人は、命が保障される代わりに、全ての物を捨ててゆく。
友人も、家族も。
自分が生きていた証さえ。
そして、身分の偽装がバレないよう、隠れるようにひっそりと生活する。
これは、果たして「生きている」といえるのだろうか?
自分が、同じ立場になって、初めて分かった。
これは、地獄だ。
俺は死んだ。
正確には「死んだことになっている」……だ。
俺は『死人』として漂う。
ただ生きているフリをしながら。
名前を変え身分をリセットした者は俺以外にもいて、その中で真面目な奴ほど失った絆を求める。
俺と同期で、同じ警察学校で同じ釜の飯を食った奴も、『死人』になった一人だったが、『互助会』のために傭兵まがいのことをしているらしい。
命知らずの兵隊を集めて、『互助会』が社会悪と断じた連中を始末して回っているそうだ。
俺も誘われたが、断った。
組織に命を救われたくせに何だが、どうも『互助会』は鼻につく。
奴らに都合よく使われるのは、気に入らなかった。
退職金代わりに、定年まで警察に努めた際にもらえたはずの給金と退職金が支給されている。
理屈でいえば、贅沢さえしなければ死ぬまで喰うには困らない。
生きることはできるはずなのに、自殺者も多い。
殺されないために『死人』となったのに、自らを殺すのは皮肉でしかないが、気持ちはわからないでもない。
何もすることがなく、漂う様に生きていると、ふとした瞬間に死神が耳元で囁く。
「もう、死んじゃえよ」
……と。
例えば、月が綺麗だったとき。
例えば、雨が街路樹を濡らすとき。
例えば、頑是ない子供が天使に向かって笑うとき。
例えば、どす黒く淀んだ荒川の流れに桜の花筏が流れるとき。
俺は死神の吐息を、背後に感じる。
一歩前に踏み出し境界を超えないのは、俺にまだ怒りがあるから。
俺を……俺たちを、殺したり殺そうとした奴らや、それを黙認した奴らは、死を望んでいる。
そんな奴らのために死んでたまるかという思いがあった。
人間は社会性の動物だという。
だから『死人』である俺にも、薄いながらも『縁』が出来る。
日がな一日籠っているこの店『BOWMORE』がそれだ。
この店のマスターであるエイブ老人とは、ある春の宵に出合った。
なんとなく桜が観たくなって、上野に出向いた時だ。
咲き誇る桜の下で、酒を飲みどんちゃん騒ぎをする人々に耐え切れなくなって、ぶらぶらと隅田川沿いを下り、橋の上で遠くに聞こえる人々のざわめきを聞いていた。
近くにいると不快だが、遠くから眺めると、なんだか微笑ましい。
欄干によりかかり『死人』となってから吸い始めたタバコを咥えていた。
その時に、遠慮がちに話しかけてきたのが、エイブ老人だった。
話の内容は、覚えていない。エイブ老人も忘れてしまったそうだ。
彼はその時、俺が橋から身を投げるのではないかと危惧していて、なんとか気を逸らそうと必死だったらしい。
今となっては、笑い話だ。
その時、渡された名刺を頼りに、俺は後日この『BOWMORE』を訪れた。
エイブ老人は、コーヒーを輸入する商社に勤務していた商社マンだったそうで、定年退職後、趣味であったお酒の収集品の展示や、憧れだったバーテンダーの真似事や、ジャズのコレクションを流すため、この店を新宿の片隅に開いたらしい。
商売気は全くない。
「バーごっこの舞台ですからね」
そういって、鶴の様に痩せている白髪のエイブ老人は笑った。
くの字に曲がった、マホガニー製のバーカウンターに、六つのスツール。
その内側は、エイブ老人の聖域だ。
棚に並んだ、名も知れないシングルモルトの瓶。
ちょっとしたカクテルも作るので、リキュール類も並んでいる。
手回し式の古びたコーヒーミルがカウンターの端に。
車のメーカーであるプジョー製のミルなのだそうだ。
珈琲豆は、前職の伝手もあり、味などよくわからない俺でも旨いと感じる珈琲だった。
ブレンドの配合は「企業秘密」らしい。
焙煎機はなく、使う分だけ小さな焙烙鍋で生豆を炒っていた。
俺はエイブ老人の本名を聞かない。
エイブ老人も俺の事は聞かない。
お互い、それが心地いい距離感なのだ。
特に看板が出ているわけでもない、半地下の店『BOWMORE』。
一見の客が入るには、勇気が必要な店だが、俺以外に常連客はいる。
この新宿で、多少有名なクラブのオーナーが、夕方になるとコーヒーを求めてやってくる。
時代遅れのテカテカに整髪料で固めた、オールバックの髪型の男で、吸血鬼かと思うほど不健康に肌が白い。
元・猟犬である俺は、コイツが犯罪者であることは分かった。
相手も、俺が警察官だとわかるのだろう。
昔喧嘩ばかりしていた犬の様な感じで、軽く会釈するだけで、お互い眼も合わさない。
夜になると、女が一人入ってくる。
俺がいつも座るカウンターの端の席の二つ隣に座って、エイブ老人とおしゃべりしていつの間にか帰ってゆく。
この女は、売春婦だった。
事務所があって、そこから客のところに出向く『派遣型』ではなく、街角に立ち客引きをする、いわゆる『街娼』。
この『街娼』にも二種類あって、ヒモと呼ばれるマネージャー兼寄生虫がついていて、安全に商売できる代償に上前を撥ねられるタイプ。もう一つは、ヒモ無しで個人事業主タイプ。
この女は、ヒモ付きだったにもかかわらず、こっそり個人事業もしていた女だった。
そんなことされたら、ヒモは商売あがったりになる。
基本的にヒモは商品なので女を大事に扱うが、裏切った場合は例外。
他の女に示しがつかなくなるので、凄惨なリンチを加える。
俺は、ヒモが女を暴行していた現場に居合わせたのだった。
どうも、俺にはクラブのオーナーに見抜かれたように「警官」の尻尾がまだついているようで、ふとした拍子にそれが出てしまうらしい。
余計なことなのだが、気が付いたら俺はヒモをぶちのめしており、女を助けていたのだ。
女には名乗らずその場を立ち去ったはずが、彼女は偶然この新宿で俺の姿を見つけて尾行されたようだ。
それで、この『BOWMORE』がバレてしまった。
「あたし、もうすぐ、この町をでるんだぁ」
大きな独り言を女は言う。
剥がれかけた赤いマニュキュアを付けた指で、丸い氷が浮いたジャック・ダニエルの水割りをかき回しながら。
「まとまったお金が手に入るから、田舎に帰ってお店でも開こうかな」
遠目には若い女だ。
ただし、売春婦などをやっていると、早く老けてしまう。
身にも心にも過酷な稼業なのだ。
だが、この女は売春稼業に身を落としていても、どこか前を向いている雰囲気がある。
気力があると言っていい。
だから、ヒモを騙して手っ取り早く銭を稼ごうとしていたのであり、銭を稼ぐということは、ここから抜け出そうと足掻いていたということなのだ。
どこかあきらめてしまったような、他の街娼とは少し異質だった。
「お前向きの街じゃない。金が出来たなら、抜け出した方がいい」
彼女の独り言に、答えたのは気まぐれだ。
俺と話そうとしても、無視され続けていたので、それゆえの問わず語りだったのだ。
ぱっと女の顔が輝く。
「じゃあさ、じゃあさ、アンタも来る? あたしの田舎は小さな漁村だけど、新鮮なお魚が手に入るし、あんた一人ぐらい養えるよ」
グラスを持って、女が俺の隣に座る。
ふわりとスズランの香水が香った。
俺は女を見た。
その瞳に、何を見たのか、女は顔を曇らせて黙り込み、二つ離れた席に戻った。
「冗談よ。冗談」
俯いてそんな言葉をつぶやく。
俺は、冷めた珈琲に目を落とし、静かに流れるビル・エバンズの曲に耳を傾けていた。
誰かにワルツを捧げるという内容の曲らしい。ピアノの旋律がメランコリックだった。
ふと、目を上げると、もう女の姿はなかった。
微かなスズランの香りを残して。
これが、この女を見た、最後の姿だった。