プロローグあるいは説明的独白
今回は一話まるまる前振りというか、タイトルまんまの扱いです。
次話から別の統一形式で合わせていきます。
違和感、と言うのだろうか。何かがおかしいなと思った時には、もう何がおかしかったのか忘れている。違和感とはそういうものなんだろう。ならば忘れたままにしておこうではないか。
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何せ私は忙しい。頭上で咲いては散っていく桜よりも、ずっと。
春は出会いと別れの季節、なんて言うけれど、別れの方はたいてい猛スピードで過ぎ去って行く。みんな、そんなにのんびりしていられないのだ。通り過ぎて行くものに、気を取られてなんかいられない。故に、別れは一過性のものでしか無い。
そうしてその後やって来る出会いの方は、知らぬ間に何カ月も居座って行く。一期一会なんて言葉もあるくせに。数カ月後の夏休みくらいまでは、新たな出会いとやらが大人気である。モテモテ。引っ張りだこ。引く手数多。期待の星。違うか。ともかく、大学生ともなれば出会いの一つや二つ、という意識が一般なのだ。
始業前に滑り込んだ門の先。よそよそしさの薄れた教室。履修届を握って歩く廊下。学食のテラス。付属図書館のエントランス。サークル部活棟。人々の言う出会いとやらは、そこら中に転がっているらしい。石ころじゃないんだから。片手間にほいほい拾えるものなのだろうか。そうして誰もがこぞって手に入れたがるそれは、大量生産で作り置きされる割にナマモノで、言うなれば熟して落ちた林檎のよう。拾ってやらないと喚きだす。
喚く林檎も騒ぐパンも、お伽話の中だけには収まっていてくれないのである。困ったもんだ。私には暇も体力もほとんど無いというのに、散々引っ張り回されたもんだからマイナス域に突入するほど削られた。
大量の薄っぺらなお友達と、林檎が大好きなお節介に引きずり回される日々との、代償として。
ちょいと高すぎやしないだろうか。
***
そんなわけで、私が違和感とやらを気にし始めたのは梅雨も盛りの6月頃。雨季が盛ってどうするんだ、早いこと過ぎてほしい。押し入れに黴が生えるかも。休日に歯ブラシ装備でドラえもんごっことかやだよ、私。
――そんなことを日々思いながら、私にはうっすらとした確信があった。きっとこの部屋のどこにも、黴なんか生えないだろう。ついでに言えば雨漏りすることもゴミが散らかることも、もしかしたら泥棒が入ることもないかもしれない。それが、私の部屋なのだ。違和感と言えない違和感なのだ。
それを気にし始めたのはつい最近だけれど、思い返してみれば最初から、だった気もする。この場合の最初とは私がこの部屋に来た最初、新生活に胸躍らす4月頭のことだ。まあ実際は諸々の登録やら手続きやら、きっと数カ月後には存在すら忘れるであろう契約書に追われる日々だったわけだけど。
それでもよく思い出せばやっぱり、その違和感はずっと部屋に居座っていたのだ。
ついでに言うと、ここはいわく付き物件である。
あんまりに安いことに魅かれて、1年だけ契約。いわく付きだけど。
住んでみて問題なかったら、そのまま卒業までの4年契約に改める予定。いわく付きだけど。
気にし始めるのが遅い、などと思わないでいただきたい。これは決して私が鈍いわけではないのである。そりゃ生まれてこの方自分に霊感なんてものを欠片も感じたことは無いけれど、無いんだけれども。それでも私はこの部屋で、違和感を感じ続けていた。つまり私は鈍くない。QED。完璧。
それならば私の危機管理能力の問題か? 答えは否。むしろその逆。私がすばらしく危機管理能力を働かせた結果、無意識にこの部屋の違和感を放置するに至っていたのである。正直、気にし始めたと言った今でもそこまでの問題は感じていない。なぜなら私は危機管理ができるから。
そう、例えば。この部屋の違和感とは具体的にどんなものであるか。
それを知ったが最後、もう誰も私の危機管理能力にケチをつけることはできないだろう。
疲れて帰って来た日は、迷わずベッドにダイブしたい。よって私は靴を脱ぎ散らかす。そして案の定寝坊した翌朝、私はそろえられた靴に足を滑り込ませて、スムーズにスタートダッシュを切る。
夏休みの宿題は一週間で終わらせる派だった私は、レポート課題においては提出前夜が関ヶ原。一週間というのはもちろん、8月24日からの一週間。そして当然のように机で寝落ちる。翌朝固い床の上でバキバキの体を起こしたら、肩にかかっているブランケットを畳んで電気を点ける。
ベッドの上でおやつを食べて、うっかり皿を置きっ放しなんてことは、まあ無くもない。そのままぼんやり洗い物を始めて、当然のようにおやつを食べた皿もシンク内で洗い切る。
トイレットペーパーが補充されていないことはまず無い。晴れた日に出掛けて帰ってくると、お日様の香りの布団が敷かれている。夕立の中ずぶ濡れで部屋に駆け込んだら、玄関先に積んであるバスタオルが大活躍する。煮込み料理なんかした日には、探していた鍋敷きはテーブルの真ん中にちょこんと鎮座ましましている。
ーーあれ、私は実家からお母さんでもつれて来たんだっけ?
あーはいはい、一人暮らしね、実家から持ち込みの家具は机とベッドと戸棚と母親ね、あるある。
ねーよ。
お分かりいただけただろうか。いただけないと困るんだけども。私は、一体どこに、危機管理能力を発揮する要素を見出せばいいのか。それは稀代のセンシティブと謳われていたかもしれない私にさえ、到底無理な話だろう。
要するに、この部屋の違和感はオカンなのである。反抗期の子供じゃないんだから、私は手当たり次第母親に反発したりなんかしません。ちゃあんと感謝の心を持っています。おかーさん、いつも私の一人暮らしを支えてくれてありがとう。おかげで毎日快適だよ。でもエアコンを勝手に止めるのはやめてね。6月はもう暑いと言っていいと思うの。
…お分かり、いただけただろうか。
要するに、実害が無いだけあって、全くといっていいほど危機を感じないというのが現状である。むしろ私にとっては利益しかない。こんないわく付き物件が格安だなんて世も末だ。
確かに、物が勝手に動いたりするのは世間一般では恐ろしい怪奇現象と見られるのだろう。そりゃあ私だって、ハサミが飛んで来たり食器が割れたりしたら困る。というか怒る。けれどもこの部屋に限って見てほしい。靴をそろえてブランケットをかけて電気を消してお布団を干して、なんて怪奇現象のどこが恐ろしいというのか。こんなのただの見えないオカンである。むしろ見えないぶん邪魔に感じることが無くて快適じゃないか。部屋のゴミ拾いまでしてくれてるんだぞ。
つまり、だ。結論としてはごく単純。
私はここに住み続けるだろうし、怪奇現象さんには今後とも頑張っていただきたい。私が鈍いのではない。かつての住民たちが臆病すぎるだけである。と。
我ながら分かりやすい結論だろう。論述のレポートなら加点をいただいてもいいくらいだ。
だがしかし、このレポートにはなんと続編が付いている。また加点ポイントである。
これまでオカンオカンと心のうちで呼び続けていたが、はてさてここにいるのはオカンそのものなのであろうか。中年の奥様がいるなどという確信は無いのである。何せ姿が見えていない。
まあ恐らく幽霊とかそういった類のものだと予想すれば、人型をしているであろう事は確定としていいだろう。これで透明の大蜘蛛がいますなんて言われた日には、えーと言われた日には、友達を家に呼びづらくなるかもしれない。蜘蛛嫌いは多いし。いやそうではなく。
私は全くとして、ここにいらっしゃるであろう幽霊さんの見目を知らないのである。そもそも透明であるかどうかすら分からない。たた素早くて私の目には捉えられないだけかもしれない。実は物陰に隠れられる程度のちいさいおっさんなのかもしれない。可能性は無限大である。
そうとなれば、確かめてみたくなるのが人の性である。私という人間の性である。思い立ったが吉日、とは誰が言ったか。秀逸である。そんな至言を胸に、私は既にいくつかの方法を試してみていた。
部屋中写真を撮ってみる。鏡を持ち歩いてそれ越しに部屋を見てみる。お香を炊いて煙の流れを監視してみる。こっくりさんをやってみる。エトセトラ、エトセトラ。
我ながら、よくやったと思う。褒めてつかわす。毎日忙しいだけのしがない大学生が、ここまでやったのである。ちょっとくらい尻尾を掴ませてくれたっていいのではなかろーか。
そうしてことごとく空振って、三振どころか五振も六振もした私が最後に手を出したのは、スカスカなバイトのお給金袋を吹っ飛ばす、文明の利器であった。まあ本体の値が張るだけであって、既に持っていた身としては痛くも痒くもないんだけれど。そこは言葉のあやというやつである。
高画質長時間録画機能付き、手のひらサイズのコンパクトカメラ。猫のストラップ付き。
ちゃんと容量のあるメモリを使えば、丸一日でも録画できちゃう優れ物である。そのメモリも高いんですけどね。止むに止まれず一個だけお買い上げしてしまった。そういくつも買う余裕は無いし、録るたびにパソコンに移して再利用する方針で。
これまでに録ったのは、概ね二種類。
まず一つ目は、私が出掛けている間。お片付けの場面を劇録できるかとも思ったけど、そううまくはいかなかった。誰もいない部屋を映した、うんともすんとも言わない映像は退屈以外の何物でも無い。初回であれだけ手ごたえが無かったのに、三日ほどは粘った自分を褒めてやりたい。時間の無駄遣いだったけどね。ははは。
そして二つ目は、私が寝ている間。これは正直期待値が大きかった。寝て起きたらあれれ、なんて経験も多かったことだし。まあお察しの通り収穫はありませんでしたけどね。時折私の寝言が入っているくらいで、あとは静かなもんだった。せっかく豆電球つけっ放しにしてたのに。
となれば、残るは一択。――私が部屋にいる時、の録画である。
ちょっと躊躇いが無かったわけじゃ無い。いや嘘です。だいぶ避けてました。
だって考えてもみてほしい。自分が、一人暮らしの部屋で、気ままに暮らしているのを、自分で、見るのである。生活実態は私が誰よりも知っている。鑑賞しながらその堕落ぶりに絶望すること請け合いだ。これなんて羞恥プレイ。
録ってるあいだはちょっとしっかりしておけば、とかいう問題ではないのである。やるなら徹底的に、少なくとも他と同じ三日分くらいはデータが欲しい。
私が、三日間外ならぬ自身の目を気にして、傍から見て恥ずかしくない生活を送れるか?
答えは否。情けなくなんかない。素直なのはいいこと。
けれどそんなことを考える間にも、気付けばカーテンは閉まっているし、飲みっぱなしのコップは机の上から消えている。ああうん、暗くなってきたし外から見えちゃうもんね。コップは水掛けておかないと乾いちゃうもんね。
…何を警戒することがあるんだろう、と思うことだってある。むしろ常に思ってる。
ここまで来たら、世話焼きな同居人の顔くらい拝ませてくれ、の方が本音になりつつある。
しょうがない、しょうがない。
そう言い聞かせて、帰宅から就寝までのぼっちホームビデオを録ったのである。よくやった、私。
途中からカメラなんか忘れてだらけ始めたのは、内緒だ。本格的に心が抉られるのはこれからなんてのも、内緒だ。
ほとんど自棄のように、缶ジュースとコンビニケーキをお供にして。
まだ真新しいパソコンに、そっとメモリを押し込んだ。