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『「幼馴染が壊れそうだから」と仕事を押し付けて浮気する婚約者様。そんなに面倒なら領地も利権もまるごと全て頂戴いたしますわ』

掲載日:2026/10/17

領地も利権も要らないと仰るなら、遠慮なくまるごと頂戴いたしますわ


「すまない、エレオノーラ。今日の観劇だが、急用ができてしまって行けなくなった」


王都の一等地にある高級カフェのテラス席。待ち合わせ時間から優に一時間遅れて現れた婚約者――グランヴェル伯爵家の嫡男カイルは、着席すらしようとせず、申し訳なさそうに眉を下げてみせた。


「急用、でございますか? 本日は数ヶ月前から予約を押さえていた特別な演目でございますのに」

「ああ、本当にすまない。……実は、ミリィの飼っている子猫の具合が急に悪くなってしまってね。あいつ、一人じゃ不安で泣き崩れてしまっているんだ。幼馴染の俺が付き添って獣医へ連れて行ってやらねばならなくて」


ミリィ。

カイルの遠縁にあたる子爵家の娘で、いわゆる「幼馴染」だ。

小柄で頼りなげ、大きな瞳を潤ませては男の庇護欲をそそるタイプのご令嬢。カイルが私との約束を反故にして彼女の元へ駆けつけたのは、今月だけでもう四度目だった。


「子猫の看病……でございますか。命あるものですから心配なのは理解いたしますが、ミリィ様のご実家にも使用人は大勢いらっしゃるはず。伯爵家の跡取りたる貴方が、婚約者との先約を破ってまで付き添うことでしょうか」


エレオノーラが紅茶のカップを静かにソーサーに戻すと、カイルはあからさまに不快そうな顔をした。


「エレオノーラ、君はいつもそうだ。冷酷すぎると思わないか? 目の前で弱っている幼馴染を助けようとする俺の優しさを、なぜ理解できない。君のように何でも完璧にこなせる強い女性ばかりじゃないんだよ。ミリィは繊細で、俺が支えてやらなければ壊れてしまうんだ!」

「……私が強いから、後回しにしても構わないと?」

「嫉妬は見苦しいぞ。俺とミリィはただの家族同然の付き合いだ。それより、今日の領地運営の書類、君の家に届けておいたから。鉱山の採掘権の更新と、秋の収税報告書の決裁、よろしく頼むよ。君の領地経営の手腕はいつも助かっている」


カイルはポンと私の肩を軽く叩くと、振り返りもせず足早に立ち去っていった。

急いでいる風を装いながら、その足取りはどこか浮き立っている。


一人残されたテラス席。

冷めきったダージリンを口に含みながら、エレオノーラはふっと冷ややかな笑みを漏らした。


「……家族同然、ね。なら、その愛しいご家族と永遠に仲良く暮らすとよろしいわ」


---


その日の夕方。

エレオノーラは実家であるクラーク公爵家の執務室を訪れていた。

机の向こうに座る父――現当主のアレクサンドル公爵は、娘から事情を聞くなり、冷徹な青い瞳をすっと細めた。


「カイル君がまたミリィ嬢の元へ行ったのか。しかも、グランヴェル領の公務をまるごと我が家に押し付けたまま」

「はい、お父様。これで通算十二回目になります。彼にとっては、領地の経営も、領民の生活も、私との婚約も、すべて『優秀なエレオノーラが勝手に片付けてくれる便利な添え物』に過ぎないようですわ」

「ふむ。以前から君が気にしていた『ミリィ嬢との不穏な距離感』について、我が家の情報部を使って徹底的に洗わせておいた。……これを見るかい?」


父が机の上に置いたのは、分厚い革表紙の調査報告書だった。

エレオノーラがめくると、そこには克明な記録と鮮明な魔導写真がびっしりと並んでいた。


先週、エレオノーラが一人で仕上げた治水工事の視察の裏で、カイルとミリィが高級リゾート地の湖畔で腕を組んで舟遊びに興じる姿。

先々週、体調不良を理由に夜会をドタキャンしたカイルが、ミリィに高価なダイヤの首飾りを買い与え店から出てくる姿。

そして何より――。


『グランヴェル領の東部金鉱山、採掘権の無償貸与誓約書(裏書き:名義人ミリィ・フォン・ハドソン)』


「……まあ」

思わずため息が出た。呆れ果てて、怒りすら通り越してしまう。


「カイル君は、君が寝る間を惜しんで立て直した東部鉱山の莫大な利権を、私的にミリィ嬢へ横流しする算段をつけていたようだね。自分は名義貸しだけ行い、実務の責任はすべて『代理決裁者』である君に背負わせるつもりだったらしい」

「私が押印した書類をすり替えて、私横領の片棒を担がせる計画でしたのね。なるほど……『君の領地経営の手腕にはいつも助かっている』とは、そういう意味でしたか」


エレオノーラはパチンと報告書を閉じた。

唇の端を優雅につり上げ、完璧な淑女の笑みを浮かべる。


「お父様。グランヴェル家が我がクラーク家に負っている多額の融資の返済期日、いつでしたかしら?」

「来月末だね。カイル君の父君である現伯爵が病に伏せって以来、経営の全権を任されたカイル君には再三督促状を送っているが、『婚約者のよしみで猶予を』と泣きついてきていたよ」

「でしたら、きっちり精算していただきましょう。あの方、領地の経営も、公務も、利権も、何一つご自身では背負う気がないようですもの。そんなにいらないとおっしゃるなら――我がクラーク家が、まるごとすべて頂いて差し上げますわ」


---


一週間後。

王宮の小夜会にて、カイルはやはりミリィを同伴して現れた。

ミリィは胸元が大きく開いた華美なドレスを身にまとい、カイルの腕にこれ見よがしにしがみついている。周囲の貴族たちが眉をひそめる中、カイルは得意げに鼻を鳴らしていた。


そこへ、静かに歩み寄るエレオノーラ。

今宵の彼女は、夜空を映したような深い瑠璃色のドレスに身を包み、堂々たる美しさを放っていた。


「やあ、エレオノーラ。今日も綺麗だね。……あ、ミリィが君の冷たい視線に怯えているんだ。挨拶くらい優しくしてやってくれよ」

カイルが勝ち誇ったように笑う。

ミリィもまた、瞳を潤ませながら上目遣いでエレオノーラを見上げた。

「エレオノーラ様……ごめんなさい。カイル様が、どうしても私を一人にしておけないって連れてきてくださって……私、お邪魔でしたら帰りますぅ……」

「いいんだミリィ、君は堂々としていればいい」


茶番もいいところだった。

エレオノーラは扇を優雅に閉じ、涼やかな声で告げた。


「ええ、どうぞご歓談をお続けになって。私はただ、カイル様にお渡ししたい書類があってお持ちしただけですから」

「書類? なんだ、領地運営の確認事項か? いつも言っているだろう、細かい実務は君の判断に任せるって。サインなら後でいくらでもしてやるから」

「いいえ、今すぐここでご確認いただきたいのです」


エレオノーラが合図をすると、背後に控えていた公爵家の法務官が、羊皮紙の束をカイルの前に差し出した。

一番上の羊皮紙に刻まれた紋章を見て、カイルの顔から血の気が引いた。


「こ、これは……婚約破棄承諾書……並びに、債務不履行に伴う領地および利権の強制譲渡契約書……!?」

「はい。貴方と私の婚約は、本日ただいまをもちまして白紙撤回と相成りました」


ざわり、と周囲の夜会会場が静まり返る。

カイルは狼狽し、書類を凝視した。


「な、何を言っているんだエレオノーラ! 婚約破棄だと!? 家同士が決めた約束を、君の一存で勝手に破棄できるわけがないだろう!」

「私の一存ではございません。あちらをご覧になって」


エレオノーラが指差した先には、クラーク公爵と、病み上がりで顔を真っ青にしたグランヴェル伯爵の姿があった。

伯爵は杖をつきながら、怒りで震える手で息子を指弾した。


「カイル……! 貴様というやつは! 婚約者をないがしろにして浮気にうつつを抜かすばかりか、公爵家から借り受けた融資を使い込み、我が領地の要である金鉱山を私物化しようとしていたそうだな!」

「ち、父上!? なぜここに……それに、使い込みだなんて、誤解です!」

「誤解ではありませんわ、カイル様」


エレオノーラは冷然と告げる。


「貴方がミリィ様に横流ししようとしていた東部鉱山の採掘権、そしてグランヴェル領の過去三年の帳簿、全て我が家の調査部が精査いたしました。貴方が私に丸投げしていた公務の書類の裏に、どれほどの違法な契約が仕込まれていたか……全て王室司法省にも提出済みです」

「なっ……!?」

「クラーク家は、グランヴェル家に対する融資の全額即時返還を請求いたしました。無論、貴方の放蕩と怠慢で傾いたグランヴェル家に、返済能力などございませんわね? ですので――」


エレオノーラは優雅に微笑んだ。


「担保として設定されていたグランヴェル領の全領地、商業利権、および鉱山採掘権は、法的手続きに則り、我がクラーク家がすべて差し押さえ、買い取らせていただきました」

「領地を……買い取った……!?」

「ええ。もうグランヴェル『伯爵領』は存在いたしません。明日からは我がクラーク公爵家の直轄地となります。あ、ご安心くださいませ。私がこれまで通り、責任を持って完璧に統治して差し上げますわ。貴方がいつも『お前に任せる』と仰っていた通りにね」


「ば、馬鹿な! そんな横暴が許されるか! 俺の領地だぞ! 俺は将来の伯爵なんだぞ!」

「将来の伯爵? いいえ、貴方はただの平民にお成り下がったのですわ」


冷たい声を響かせたのは、カイルの父である伯爵だった。


「お前のような愚息、我が家から廃嫡する! これ以上グランヴェル家の名を汚されてたまるか! ……公爵閣下、エレオノーラ様、誠に申し訳ございませんでした……!」

伯爵はその場で深々と頭を下げた。


梯子を外されたカイルは、わなわなと唇を震わせ、隣にしがみついていたミリィを見た。

「ミ、ミリィ……! 俺にはお前がいるよな? 俺たちの愛は本物だよな!?」


しかし、ミリィはサッとカイルの手を振り払った。その瞳からは、先ほどまでの涙や儚さは跡形もなく消え去っていた。


「……は? 冗談じゃないわよ。伯爵家の跡取りだから相手をしてあげてたのに、領地も財産もない、ただの無一文の男になんの価値があるのよ!」

「ミリィ……!? お前、飼い猫が病気だって泣いていたのは……」

「あんなの、高価なプレゼントを買わせるための口実に決まってるじゃない! 寄らないでよ、貧乏人!」


ミリィは吐き捨てるように言うと、蜘蛛の子を散らすようにカイルから離れ、逃げるように会場の出口へ向かった。しかし、扉の前で待ち構えていた騎士たちによって、あっけなく詐欺と背任の共犯容疑で拘束された。


「きゃあああ! 離しなさいよ! 私は悪くないわ、全部この男が勝手にやったことよ!」


見苦しい悲鳴が遠ざかっていく。

一人残されたカイルは、へたりと床に膝をついた。


「うそだ……こんなはずじゃ……。エレオノーラ、頼む、やり直してくれ! 俺が悪かった! 君のありがたさが身に染みて分かったんだ! これからは君だけを愛する、領地の仕事も君と一緒に……」


這いつくばってドレスの裾に手を伸ばそうとする元婚約者を、エレオノーラは冷ややかな目で見下ろした。

汚れを払うように一歩、優雅に後退る。


「お断りいたします。私は、自分の仕事に責任を持てず、大切な人を蔑ろにするような無能な寄生虫を飼う趣味はございませんの」


カイルは息を呑み、絶望に目を見開いた。


「貴方がミリィ様と愛を育むために放り出していた領民たちの生活も、税の計算も、荒れた鉱山の復興も、すべて私が背負います。……貴方が『面倒だ、要らない』と捨て置いたものは、私にとっては価値ある大切な財産でした。まるごと全て頂戴して、もっと豊かに繁栄させてみせますわ」


扇を広げ、口元を隠して優雅に微笑む。


「どうぞ、お望み通りご自由におなりになって。あ、でもこれからはご自身で働いて日銭を稼がなければ、明日のパンも買えませんことよ? 繊細な貴方に務まるかどうかは存じませんけれど……精々、頑張って生き抜いてくださいましね」


「エレオノーラァァァッ!」


衛兵たちに両脇を抱えられ、引きずられていくカイルの絶叫が、夜会のホールに虚しく木霊した。


人々が道を開ける中、エレオノーラは父の元へと歩み寄った。

父アレクサンドルは満足そうに目を細め、愛娘にワイングラスを差し出す。


「見事な手際だったよ、エレオノーラ。明日から新領地の視察で大忙しになるが、大丈夫かい?」

「もちろんでございます、お父様」


エレオノーラは誇らしげに微笑み、グラスを掲げた。


「誰かの機嫌を伺いながら片手間に行う仕事ほど、退屈なものはございませんから。これからは私の力で、私の手で、愛する領地と領民を幸せにして差し上げますわ」


月光が差し込む王宮のテラスで、若き女領主の新しい人生が、華々しく幕を開けたのだった。




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