序章・第2話 見えない接続
レオンは、その日のことを覚えていなかった。
祠に入ったことも。
石の台座に触れたことも。
世界の色が一瞬だけ消えたことも。
何一つ。
「レオン、大丈夫?」
朝食の席で、母が少し心配そうに顔を覗き込んだ。
「ん? なにが?」
「昨日、帰ってきたあとぼーっとしてたでしょ」
「あー……そうだっけ」
記憶を辿ろうとしても、何も引っかからない。
ただ、少しだけ疲れていた気がする。
「ちょっと歩き回ったからな。山のほうまで行ってたし」
「山って……あんたまさか――」
言いかけた母の言葉を、レオンは軽く笑って遮った。
「大丈夫だって。危ないとこは行ってないよ」
嘘ではない、と思った。
少なくとも、危険なことをした記憶はない。
ただ――
ほんの一瞬だけ、胸の奥にひっかかるものがあった。
何かを忘れているような。
大事なことを置いてきたような。
けれどそれは、次の瞬間には消えていた。
外に出ると、村はいつも通りだった。
朝の煙。
畑に出る人たちの声。
遠くで走り回る子どもたち。
世界は何も変わっていない。
「お兄ちゃん!」
後ろから駆けてきたのはアルだった。
まだ寝癖の残る髪のまま、息を切らしている。
「おそい!」
「起きるの遅いのが悪いんだろ」
「ちがうもん! おきてたもん!」
「はいはい」
頭を軽く撫でると、アルは少し不満そうにしながらも嬉しそうに目を細めた。
いつも通り。
何も変わらない。
そのはずだった。
「ねえ、お兄ちゃん」
歩きながら、アルが小さな声で言う。
「なんだ?」
「きのうのこと……」
「きのう?」
レオンは首をかしげた。
「なにしたっけ」
その瞬間、アルの足が止まった。
「……おぼえてないの?」
「え?」
「ほこら……」
その言葉を聞いたとき。
胸の奥で、何かが“引っかかった”。
一瞬だけ、視界が揺れる。
祠。
石の台座。
手を伸ばす感覚。
そこまで浮かびかけて――
「……あー、あれか」
レオンは軽く笑ってみせた。
「中入っただけだろ? 何もなかったし」
言葉は自然に出てきた。
考えたわけでもないのに、“そういうこと”として処理されていた。
けれど、アルは笑わなかった。
「ちがう」
「何が?」
「……なんでもない」
アルはそれ以上何も言わなかった。
ただ少しだけ、レオンの手を強く握った。
レオンは気づかなかった。
その小さな違和感に。
その日からだった。
ほんの些細なズレが、日常の中に混じり始めたのは。
たとえば、何でもない瞬間。
水を汲みに井戸へ向かう途中、ふと足が止まる。
理由は分からない。
ただ、何かに呼ばれたような気がする。
振り返っても、誰もいない。
風も吹いていない。
なのに――
「……今、なんか」
言いかけて、言葉が続かない。
何もなかったはずなのに、確かに“何か”があった感覚だけが残る。
夜。
布団に入って目を閉じると、夢を見るようになった。
色のない空間。
音もない。
温度もない。
ただ、広がっているだけの“何か”。
そこに、自分がいる。
身体はあるのに、動かせない。
声を出そうとしても、出ない。
それでも、不思議と恐怖はなかった。
むしろ――
どこか、懐かしいような感覚があった。
「……」
何かがいる。
そう感じる。
けれど、見えない。
形もない。
気配すら曖昧。
ただ“観ている”。
そんな感覚だけが、確かに存在していた。
目を覚ます。
天井が見える。
見慣れた自分の部屋。
「……夢か」
そう思って起き上がる。
だが、胸の奥に残る感覚は消えない。
誰かに見られていたような。
どこかへ繋がっていたような。
説明のつかない違和感。
それでも、日常は続く。
畑を手伝い、剣の素振りをして、アルと遊ぶ。
村の人たちと笑い、普通に一日を終える。
何も問題はない。
体調も悪くない。
力が抜けることもない。
むしろ――
ほんのわずかに。
剣を振る感覚が、鋭くなっている気がした。
「……気のせいか」
レオンは首を振る。
そんなはずはない。
ただの思い込みだ。
誰も気づかなかった。
その変化に。
祠の奥。
誰も踏み入らない場所で。
石の台座は、静かにそこにあり続けている。
風は吹かない。
音もない。
けれど――
ほんのわずかに。
その表面に刻まれた文様が、淡く揺らいでいた。
まるで呼吸するように。
そして。
人の目には見えない領域で。
“それ”は確かに認識していた。
適合。
観測。
接続。
感情はない。
善悪もない。
ただ、事実だけがある。
「種は、植えられた」




