序章・第1話 触れてはいけない場所
山あいの小さな村には、子どもたちが決して近づいてはいけない場所があった。
村の外れ。
獣道を抜けた先、木々に囲まれるようにして建つ、古びた石の祠。
昼でも薄暗く、風が吹いても葉擦れの音が妙に遠い。
大人たちはそこを「禁域」と呼び、理由を詳しく語ろうとはしなかった。
だからこそ、子どもには気になる。
「お兄ちゃん、ほんとに行くの?」
幼い声が、草むらの中で小さく震えた。
振り返ったのは、九歳の少年――レオン。
日焼けした頬にいたずらっぽい笑みを浮かべ、四歳の弟へ手を差し出す。
「怖いのか?」
「……ちょっと」
「じゃあ、手ぇつなぐか」
当たり前みたいに言ってくるその言葉に、アルは少しだけ口を尖らせた。
怖いわけじゃない、と言いたかった。
けれど、本当は少し怖い。
祠そのものより、そこへ続く道が、いつもより静かすぎる気がしたからだ。
それでも、レオンがいる。
アルにとって、それだけで世界の大半は大丈夫だった。
差し出された手を握る。
大きくて、温かい。
まだ子どもの手なのに、アルには何でも守ってくれそうに思えた。
「だいじょうぶ。すぐ戻るから」
「うん」
二人は雑草をかき分け、禁域へ足を踏み入れた。
祠は思っていたよりも小さかった。
村の集会所よりずっと古く、壁のあちこちに蔦が這っている。けれど崩れてはいない。不思議と、誰かがずっと守ってきたみたいに形を保っていた。
入り口にはしめ縄の名残のような縄が垂れ、色あせた札が風もないのに揺れている。
「これ、さわっちゃだめって言われてたやつ?」
アルがそう訊くと、レオンは顎に手を当てて少し考えるような顔をした。
「たしかに言われてたな」
「じゃあ帰ろうよ」
「でも、何があるのか見たくないか?」
「……みたい」
「だろ?」
悪びれもしない返事に、アルはむっとした。
やっぱりお兄ちゃんはずるい。怖いことを言っているのに、楽しそうなのだ。
祠の中はひんやりとしていた。
夏の終わりだというのに、そこだけ春先の石蔵みたいに冷たい。
土と古い石の匂いがして、奥には丸い広間が一つだけあった。
そして中央に、それはあった。
石の台座。
低く、円形で、何かを捧げるための祭壇のようにも見える。
表面には見たことのない文様が刻まれていて、長い年月を経ても不思議なくらい欠けていなかった。
アルはレオンの服の裾をそっと掴んだ。
「……なんか、へん」
「へん?」
「しずかすぎる」
言葉にした瞬間、自分でもおかしいと思った。
音はある。レオンの呼吸も、自分の鼓動も聞こえている。
それなのに、何か大きなものが息を潜めてこちらを見ているような、そんな気配がした。
レオンも、今度ばかりはすぐに返事をしなかった。
台座をじっと見つめている。
「お兄ちゃん?」
「……いや」
レオンは小さく首を振った。
けれどその目は、台座から逸れない。
吸い寄せられている。
そんなふうに見えた。
「帰ろうよ」
アルがもう一度言う。
今度は少しだけ強く、袖を引いた。
レオンは、はっとしたように瞬きをした。
それからいつもの笑顔を作ってみせる。
「大丈夫だって。ちょっと見るだけ」
「みるだけ?」
「ああ。触るだけ」
「それ、みるだけっていったのに」
思わず言い返すと、レオンは吹き出した。
「たしかに」
その笑い方に少し安心して、アルもつられて笑いかける。
いつものお兄ちゃんだ。
強くて、やさしくて、ちょっと無茶をする、いつもの。
だから、次の瞬間に起きたことを、アルはうまく理解できなかった。
レオンが台座へ手を伸ばした。
迷いのない動きだった。
指先が石に触れた、その瞬間――
世界から、色が消えた。
空気が白くなったわけではない。
暗くなったわけでもない。
ただ、そこにあったはずの色だけが、すっと抜け落ちた。
レオンの髪の色も。
アルの服の色も。
石の冷たさを示す灰色さえ、どこかへ消えてしまう。
「……え?」
自分の声が、ひどく遠い。
祠の中だけではない。
目に映るすべてが、薄く、曖昧になっていく。
まるで世界そのものが、息を止めたみたいだった。
レオンの身体が、ぴくりと揺れた。
「お兄ちゃん!」
アルは反射的にその腕にしがみついた。
確かにそこにいる。温かい。
なのに、輪郭だけが少しずつ遠ざかるような、不気味な感覚があった。
レオンは苦しそうではなかった。
痛がってもいない。
ただ――
何かを、聞いているようだった。
「……お兄ちゃん?」
返事はない。
代わりに、広間のどこからともなく、風でも声でもない何かが流れ込んでくる。
意味は分からない。
けれど、アルは本能で理解した。
ここにいてはいけない。
そう思った瞬間、色は一気に戻った。
赤茶けた石。
薄暗い祠。
差し込む夕方の光。
全部が何事もなかったかのように戻ってくる。
アルは息を呑んだ。
心臓がうるさいほど鳴っている。
「……お兄ちゃん」
レオンは、しばらく台座に手を置いたまま動かなかった。
やがてゆっくりと振り返る。
その表情は、困ったようでもあり、ぼんやりしているようでもあり、アルの知らない顔だった。
「どうしたの?」
「それ、こっちのせりふだよ……!」
半分泣きそうになりながら叫ぶと、レオンは目を丸くし、それからいつものように眉を下げて笑った。
「ああ、ごめん。ちょっと変な感じしただけ」
「へんなかんじ?」
「うん。なんか……」
言いかけて、レオンは口を閉じる。
言葉を探しているようだった。
けれど結局、首を振る。
「なんでもない。帰ろう、アル」
本当に何でもなさそうに、また手を差し出してくる。
アルは迷ってから、その手を取った。
さっきと同じ温度。
同じ手。
同じお兄ちゃん。
それなのに、何かが違う気がした。
祠を出ると、森の音が戻っていた。
鳥の声。風の気配。遠くで鳴く獣の気配。
さっきまで息を潜めていた世界が、一斉に動き出したみたいだった。
「だれにも言うなよ」
帰り道、レオンが少しだけ低い声で言った。
「なんで?」
「怒られるから」
「それだけ?」
レオンは答えなかった。
ただ苦笑して、アルの頭をくしゃりと撫でる。
「俺がちゃんと守るから」
その言葉に、アルは小さくうなずいた。
守る。
お兄ちゃんはいつだってそう言う。
だからきっと、本当に大丈夫なのだと、そのときのアルは信じていた。
その日のことを、村の誰も知らない。
二人だけの秘密。
祠の奥で、ほんの一瞬だけ世界の色が消えたことも。
レオンの目が、ほんのわずかに遠くを見ていたことも。
誰も知らないまま。
禁域のさらに奥。
人の祈りも届かない場所で。
静かに、確かに。
何かが目を開けていた。




