第8話「皇太后の微笑、皇帝の決意」
「御医を呼べ!今すぐだ!」
瑛心の怒号が、混乱の極みにある宴会場に響き渡った。彼はぐったりと意識を失った玲花の体を固く抱きしめ、その顔は怒りと絶望で蒼白になっている。
皇太后とその側近たちは一瞬だけ動揺を見せたが、すぐに平静を装った。まさか、あの娘が自ら毒を飲むとは計算外だった。だが、これで邪魔者はいなくなった。結果的には好都合だ。
「まあ、陛下。落ち着いてください。その娘は、自ら罪を認めて毒をあおったのです。陛下に危害を加えようとした、大罪人なのですよ」
皇太后が、慈母のような仮面を貼り付けて瑛心に近づく。
その瞬間、瑛心は地獄の底から響くような声で言い放った。
「――黙れ」
その声に含まれた殺気に、皇太后の顔がこわばる。
「この女が、俺を害するはずがない。これは、罠だ。こいつを陥れ、そして俺を殺そうとした奴がいる」
瑛心は、血に濡れた玲花の唇を指でそっと拭うと、氷の刃のような視線でその場にいる者たちを一人一人、射抜くように見回した。その視線に射すくめられた者は、皆、蛇に睨まれた蛙のように身を縮こませる。
「高順!」
「はっ!」
「この宴に関わった者、一人残らず捕らえよ!杯に触れた者、酒を準備した者、全員だ!吐かぬのなら、拷問も許可する。誰が黒幕か、必ず突き止めろ!」
「御意!」
高順はすぐさま兵を動かし、会場は阿鼻叫喚の渦に包まれた。妃たちは泣き叫び、貴族たちは己の無実を訴える。
そんな中、皇太后だけは涼しい顔でその様子を眺めていた。
(おやりなさい。どうせ、証拠など出てきはしないわ)
毒を仕込んだのは、彼女が飼っている口の堅い侍女だ。捕まっても、決して自分たちのことは白状しないだろう。むしろ、この騒ぎで瑛心が冷静さを失い無関係の貴族を罰すれば、彼の求心力は落ち自分たちに有利に事が運ぶ。
やがて、御医たちが駆けつけ、玲花は急いで別室へと運ばれていった。瑛心は、血の気の失せた彼女の顔から一瞬たりとも目を離さなかった。
(死なせはしない。絶対に、死なせものか……!)
もし玲花を失ったら、自分はまたあの光のない闇の中へ逆戻りだ。いや、光を知ってしまった今、その闇は以前よりもっと深く、冷たいものになるだろう。その恐怖が、瑛心の心を締め付けた。
数刻にわたる、懸命な治療が行われた。
瑛心は、治療室の前でただひたすら待ち続けた。長い、長すぎる時間だった。
やがて扉が開き、疲れ切った表情の御医が姿を現した。
「陛下……」
「玲花は、どうだ」
「……非常に珍しい、遅効性の植物毒でございます。解毒はいたしましたが……予断を許しません。意識が戻るかどうか……」
御医の言葉に、瑛心は拳を強く握りしめた。壁を殴りつけたい衝動を、必死にこらえる。
彼は、意識のない玲花が横たわる寝台のそばへ寄った。顔色は紙のように白く、呼吸もか細い。今にも消えてしまいそうだった。
瑛心は、彼女の冷たい手を握りしめた。いつも自分の手を温めてくれた、優しい手。その温もりが、今は感じられない。
「……すまない」
絞り出した声は、ひどくかすれていた。
「俺が、お前を危険な目に遭わせた。俺が側に置いたばかりに……」
後悔が、津波のように押し寄せる。彼女を後宮に招き入れたのは自分のためだった。自分の孤独を癒すため、悪夢から逃れるために、彼女の優しさを利用した。その結果が、これだ。
彼女を守ると誓ったのに、何もできなかった。
その時、部屋の外から高順の声がした。
「陛下。関係者の尋問が終わりました。杯を準備した皇太后様の侍女が、毒を仕込んだと自白。しかし、誰の指示かは頑として口を割りませぬ」
「……そうか」
瑛心は、静かに答えた。侍女が口を割らなくとも、黒幕が誰なのかは分かりきっていた。皇太后だ。父を殺した連中と、おそらくは繋がっている。彼らは父だけでなく、自分をも亡き者にしようとしている。
そして、その牙は今、自分の最も大切な存在に向けられた。
瑛心の瞳に、燃えるような怒りの炎が宿った。
もう、待つのは終わりだ。守りに入っているだけでは何も変えられない。大切なものを、また失うだけだ。
父の仇を討ち、この腐った宮廷を浄化する。そして、玲花が安心して笑える世界を作る。
そのためなら、どんな手段も厭わない。
「玲花……」
瑛心は、眠る彼女の額にそっと自分の額を寄せた。
「俺は、戦う。お前が目覚めた時に、全てが終わっているように。だから、必ず戻ってこい。……俺の、光よ」
彼は決意を固めた。皇太后一派を完全に滅ぼすための、危険な策を。そして、その策を成功させるためにはどうしても玲花の力が必要だった。
彼は、玲花の耳元で囁いた。
「お前の力で、俺をあの悪夢へ連れて行ってくれ。あの日、俺が見落とした犯人の手がかりが、きっとまだ残っているはずだ。お前が、俺の目になってくれ」
それは、意識のない彼女には届かない一方的な願い。
だが、瑛心は信じていた。自分たちの魂は夢を通じて、深く繋がっていることを。
彼は玲花の手を握りしめたまま静かに目を閉じた。
彼女の意識が戻るのを待ちながら、そして彼女と共に最後の戦いに挑む覚悟を、その胸に刻みつけていた。




