第5話「夢の中の逢瀬、現実の距離」
玲花の意識が浮上したとき、目の前に広がっていたのはまたしてもあの燃え盛る宮殿だった。
ごうごうと音を立てる炎、飛び交う怒号、そして鼻を突く血の匂い。現実としか思えないほどの鮮明な悪夢。玲花はぎゅっと拳を握りしめた。
(また、ここに来てしまった……)
けれど、以前感じたような圧倒的な恐怖はなかった。覚悟ができていたからかもしれない。それに、今回は一人ではなかった。
ふと見ると、少し離れた場所に寝間着姿のままの瑛心が呆然と立ち尽くしている。ただし、その姿は幼い少年ではなく、今の青年の姿だった。彼は自分の手のひらを見つめ、信じられないという表情を浮かべている。
「これは……俺の、夢のはず。だが、なぜ俺自身がここにいる……?いつもは、ただあの日の光景を傍観させられるだけだというのに」
どうやら、玲花の存在が彼の夢の法則に何らかの変化をもたらしたらしい。
玲花は、そっと彼に駆け寄った。
「陛下」
声をかけると、瑛心ははっとしたように顔を上げた。そして、玲花の姿を認めると、その氷のような瞳をわずかに見開いた。
「……やはり、お前か。本当に、来たのだな」
「はい。お約束ですから」
玲花が微笑むと、瑛心は少し戸惑ったように視線をそらした。現実の世界で見せる冷徹な皇帝の顔ではなく、年相応の青年の素顔がそこにはあった。
その時、悪夢が再び牙を剥いた。覆面姿の刺客たちが、血刀を手にじりじりと二人を取り囲み始める。現実の瑛心は武術の達人だが、ここは夢の中。しかも彼の心に深く刻まれたトラウマの具現化だ。彼の体は金縛りにあったように動かず、顔には苦痛の色が浮かんでいる。
「くっ……体が……!」
「陛下、しっかりしてください!」
玲花は咄嗟に彼の前に立ち、両腕を広げて刺客たちから彼をかばった。小柄な彼女の背中はあまりにも頼りない。けれど、その瞳には強い意志の光が宿っていた。
「この方には、もう指一本触れさせません!」
玲花が叫ぶと、不思議なことに刺客たちの動きがぴたりと止まった。彼らはまるで、玲花というイレギュラーな存在をどう処理していいか分からず、混乱しているように見える。
「……お前、一体何者なのだ」
背後から、瑛心のかすれた声が聞こえる。
「私は、ただのお針子です。でも、ここでは、あなたの味方です」
玲花は振り返らずに答えた。そして、震える手で彼の手に自分の手を重ねる。あの日と同じように、温もりを伝えるようにぎゅっと握りしめた。
「大丈夫です。ここはあなたの夢の中。あなたの心が、世界を作っているんです。だから、負けないで」
「俺の……心が……?」
「はい。あなたが望めば、この悪夢だって変えられるはずです!」
玲花の言葉に、瑛心の瞳が揺れる。彼は重ねられた玲花の小さな手を見つめ、そしてゆっくりと彼女の手を握り返した。温かい。凍てついた心に、じんわりと熱が広がっていくようだ。
瑛心は、深く息を吸い込んだ。そして、目の前の刺客たちを、初めて恐怖ではなく怒りを込めて睨みつけた。
「――消えろ、亡霊ども」
皇帝の覇気を宿した一言。すると、刺客たちの輪郭が陽炎のように揺らぎ始め、一人、また一人と砂のように崩れ消えていった。あれほど猛威を振るっていた炎も、まるで幻だったかのようにすうっと勢いを失い、やがて静かな夜の闇だけが残った。
悪夢が、晴れたのだ。
「……消えた……」
瑛心は、呆然とつぶやいた。何年も、何年も自分を苦しめ続けた悪夢を、自分の意志で退けることができた。信じられないような出来事だった。
彼は、隣で安堵の息をついている少女に視線を移した。彼女がいなければ、こんな奇跡は起こらなかっただろう。
「玲花」
初めて、彼は彼女の名前を呼んだ。
「はい」
「……礼を言う」
その言葉はぶっきらぼうだったが、紛れもない本心からの感謝だった。
玲花は嬉しくなって、満面の笑みを浮かべた。
「いいえ。お役に立てて、よかったです」
その屈託のない笑顔は、闇に差し込む月の光のように瑛心の心を穏やかに照らした。夢の中の二人の間には、現実世界のような身分も壁も存在しない。ただ、一人の青年と一人の少女がいるだけだった。
彼は、こんなふうに誰かと心を通わせたのが一体いつ以来だっただろうか、と考えていた。
***
現実世界で、玲花が目を覚ますと、すぐそばの寝台から静かな寝息が聞こえてきた。窓の外はまだ暗い。長椅子からそっと起き上がり、瑛心の寝顔を覗き込む。
穏やかな顔だった。いつも眉間に刻まれている険しい皺はなく、まるで幼子のように安らかに眠っている。悪夢を見ていない証拠だ。
(よかった……)
玲花は、自分のことのように嬉しくなった。
だが、その寝顔を見つめているうちに、ふと寂しさがこみ上げてくる。
夢の中ではあんなに近くに感じられたのに。名前を呼んでくれて、感謝の言葉までくれたのに。目が覚めれば、彼は手の届かない皇帝陛下で、私はただの侍女だ。昼間の彼はきっとまた、私に冷たい仮面を向けるのだろう。
夢の中だけの、かりそめの逢瀬。それが少しだけ、切なかった。
玲花は、彼を起こさないようにそっと毛布をかけ直してやる。その指先が、ほんの一瞬彼の頬に触れた。夢の中とは違う、現実の彼の肌の温かさに、どきりとする。
慌てて手を引っ込めた玲花は、自分の頬が熱を持っていることに気づいた。
(私、何を考えてるの……)
相手は天子様だ。分不相応な気持ちを抱くことなど、許されるはずがない。
玲花は自分の気持ちに蓋をするように、ぎゅっと目を閉じた。
現実の距離と夢の中の親密さ。そのギャップが、玲花の心を静かに、しかし確実に揺さぶり始めていた。




