第3話「かすかな糸を手繰り寄せて」
皇帝陛下の勅命はさざ波のように後宮を駆け巡り、数日のうちに尚服局へと到達した。
「先日納品した陛下の御寝着に触れた者を全てリストアップせよ、ですって?」
女官長は、高順様から伝えられた命令を訝しげに復唱した。高順様は皇帝陛下の最も信頼する側近だ。その彼が直々に来たということは、決して些事ではないのだろう。
「はい。いかなる理由であれ、あの御寝着に触れた者は一人残らず。些細な繕い仕事でも構いません」
高順様の鋭い視線が、尚服局の女官たち一人一人を射抜く。皆、何事かと顔を見合わせ、不安げに囁き合っていた。
(陛下の御寝着……)
私の心臓が、どくんと大きく跳ねた。あの日の夜のことが鮮明に蘇る。燃え盛る炎、幼い陛下の涙、そして私が握りしめた小さな手。
あれ以来、私は眠るのが少し怖くなっていた。幸いここ数日は別の女官の穏やかな夢に入り込んでいたけれど、いつまたあの地獄のような悪夢に引きずり込まれるかと思うと、気が気ではなかった。
まさか、あの夢の中の出来事が陛下に何か影響を与えたというのだろうか。いや、そんなはずはない。私の力は、ただ夢を覗くだけの取るに足らないものなのだから。
「該当するのは……仕立てを担当した私と、刺繍を施した春梅、そして……」
女官長が視線を巡らせ、私のところでぴたりと止まった。
「袖口のほつれを直した、李玲花。あなたね」
「は、はいっ!」
突然名前を呼ばれて、私は思わず裏返った声を出してしまった。周囲の視線が一斉に私に突き刺さる。やめて、そんなに見ないで。私はただ、言われた通りに仕事をしただけ。
高順様の視線が、私を捉えた。まるで値踏みするかのような冷徹な光。あまりの威圧感に、私は俯くことしかできなかった。
「……その方か」
高順様は何か考えるように顎に手をやり、やがて私に向かって言った。
「李玲花とやら。何か香の類を焚き染めているか?あるいは、薬草の類を扱ったか?」
「え……?」
香?薬草?
私は自分の袖の匂いをくんくんと嗅いでみた。いつも使っている安価な洗い粉の匂いと、糸や布の匂いがするだけだ。
「い、いえ。特にそのようなものは……。ただ、私の実家が薬師でして、幼い頃から薬草には親しんでおりましたので、もしかしたら匂いが染みついているのかもしれません」
私の実家は都の片隅で小さな薬屋を営んでいる。その手伝いで調合した安眠効果のある薬草の匂い袋を、お守りとしていつも仕事着の懐に忍ばせているのだ。まさか、その匂いが?
「……そうか」
高順様は意味深に頷くと、それ以上は何も聞かず、「リストは確かに受け取った」とだけ言って足早に去っていった。
残された尚服局は、嵐が過ぎ去った後のように静まり返っていた。皆、遠巻きに私を見ている。好奇と、少しの嫉妬と、侮蔑が混じった視線。
「玲花、あなた一体何をしたの?」
「天子様の目に留まるなんて、まさか色目でも使ったんじゃ……」
「この娘、普段はおとなしい顔して、抜け目ないわね」
違う、そんなんじゃない。私は何もしていない。そう叫びたかったけれど、声にならなかった。私はただ、この波風が早く過ぎ去ってくれることを祈るしかなかった。
だが、私の淡い期待は、翌日無残にも打ち砕かれる。
再び尚服局に現れた高順様は、有無を言わさず私にこう告げたのだ。
「李玲花。陛下がお呼びだ。参上せよ」
その言葉に、尚服局全体が凍りついた。
私が?この、後宮の最下級の針子でしかない私が、天子様に?
頭が真っ白になる。足が震えて、その場に崩れ落ちそうになった。周りの女官たちが、信じられないものを見るような目で私を見ている。
「さあ、立て。こちらへ」
高順様は私の返事を待たず、腕を掴んで歩き出した。引きずられるようにして、私は慣れ親しんだ尚服局を後にする。どこへ行くのかも分からない。ただ、自分の人生がもう後戻りできない場所へ向かっていることだけは、漠然と理解できた。
連れてこられたのは、後宮の奥深く、天子様がお住まいになる紫宸殿だった。
これまで見たこともないほど豪華絢爛な回廊を抜け、巨大な扉の前で待たされる。心臓の音がうるさいくらいに耳元で響いていた。
やがて、扉がゆっくりと開かれる。
広い、だだっ広い部屋。中央にはいくつもの書簡が積まれた黒檀の机。そして、その向こうに一人の男性が座っていた。
逆光で顔はよく見えない。けれど、その人から放たれる圧倒的な存在感だけで息が詰まりそうになる。彼が、この国の皇帝、龍瑛心陛下。
「……お前か」
地を這うような、低く、けれどよく通る声が響いた。
私は慌ててその場にひれ伏し、額を床にこすりつけた。
「お針子の李玲花にございます!この度は、お、お目通りを賜り、身に余る光栄に……」
「顔を上げよ」
命令は簡潔で、拒むことを許さない響きを持っていた。
私は恐る恐る顔を上げた。そして初めて、皇帝陛下の顔をまともに見た。
(……きれいな、人)
噂に違わぬ、神が創られたかのような美貌。けれど、その黒曜石のような瞳は底なしの闇をたたえていて、吸い込まれそうになる。表情は能面のように固く、一切の感情を読み取らせない。
彼は、ゆっくりと席を立ち、私の方へと歩み寄ってくる。一歩、また一歩と近づくにつれて威圧感が増していく。私は蛇に睨まれた蛙のように、身動き一つ取れなかった。
私の目の前で、彼が立ち止まる。そして、すっと手を伸ばしてきた。
彼の指先が、私の頬にそっと触れる。ひやりとした感触に、びくりと肩が震えた。
瑛心は何も言わず、ただじっと私の顔を見つめている。その瞳の奥で、何かが揺らめいたように見えた。それは疑念か、好奇か、それとも――。
やがて、彼は確信したようにかすかに息を吐いた。
「……見つけた」
その声は、安堵と、そしてほんのわずかな熱を帯びていた。
「お前が、俺の夢の中にいた女だな」




