第42話 それぞれの視線
山の空気は、少しだけ人を素直にする。
言わなくてもいいことまで、口にしてしまう日がある。
けれど川は、何も知らない顔で流れていく
――山へ行く――
朝の光が木々の間を斜めに差し込む。
葉がそよぎ、川面がキラキラと光る。
小鳥の鳴き声が、遠くの山の斜面から響く。
カワセミが水面に突っ込む。
バシュッ。そのまま小魚をくわえて飛び立つ。
「うわーかっこいい!瑠璃色!」
「来て良かったな」
レオがジャックの頭を撫でる。
「たくさん釣ろうぜ」
ガイルもにこにこだ。
今年は釣りチームが作られた。
「お兄ちゃん、負けないよ」
ジャックとレオ達もやる気だ。
釣り場よりも少し下流で陣取っている。
――ガイルとの釣り――
「オリバー、あのへんが良いかもだぜ」
ガイルが、川の一部を指差す。
枝が水面近くまで伸びている。
「だけど、あそこはどうやって? 糸がひっかりそうだよ」
「そこだ。あそこ。上流から流れるように。まあ。見てろ」
ガイルは餌をつけて流す。
「こんな感じで。まあ、気長にやろうぜ。」
「そだね。魚相手だもの。慌てても仕方ないものね」
風が葉を揺らし、川のせせらぎが静かに耳に届く。
ガイルは深呼吸する。
「やっぱ山は涼しいなあ。」
「水の流れる音もいいね」
ガイルの竿が、早速ピクッと動く。
「あ。取られた」
針を手に取って、餌を付け直す。
「でも食いつきはいいね」
「あらよっと。ちゃんと釣れてくれよ」
ヒュッと投げ、チラリとこちらを見てから、隣の岩に座った。
「なあ。オリバー、聞いてもいいか?」
「なに、改まって。」
「あのさ。白鳥祭の時、レオの姉ちゃん、きれいだったな」
「……そうだね」
ドキリとする。
揺れて舞う羽飾り。
心臓が訳もなく跳ねる。
「どう思う?」
……何を?
――母ちゃんへの頼み事――
ガイルは水面を見ていた。
……深刻な悩みか。
思い切ったように話し始める。
「レオには姉ちゃんがいて。オリバーにはジャックがいて。俺は一人っ子で。
なんだかさ。いいなあって思って。」
急にこちらを向く。
「だからさ。俺、母ちゃんに頼んだんだ。姉ちゃんが欲しいって。
そしたらさ、怒られたんだ。」
一瞬、跳ねていた心臓が止まる。
……姉か。
胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
「なあ。オリバー、どうしたらいい?俺、レオやジャックみたいに弟になりたいんだ。
……あんな目で、見られてみたい。」
ガイルは笑う。
子供なのか、少年なのかわからない顔だった。
――釣りの醍醐味――
いきなり同時に竿が引かれる。
「おい。オリバー!かかったぞ」
「ガイルこそ!引いてる引いてる」
「これデカいぞ」
大騒ぎで、二人して大物が釣れた。
下流からも「やったあ!二匹も同時にゲットだ!」
「これで三匹目だ!」と、ジャックとレオだ。
「ほーら。俺たちチームの勝ちだ。今度は勝ったぞ」
チラリとこちらを見る。
レオは得意気だ。
――ジャックとレオ――
「オットッと……うわあ!」
バッシャーン!
ジャックが水面近くの岩の上を跳ねていた。
滑って転んで、へそまで濡れた。怪我はない。
「うわーん。」
「そのまま脱いで泳いじゃえ。服は干せば乾く」
「そうかなあ。」
「気持ちいいだろ!」
「うん!」
「泳ぎも教えてやるよ」
「本当?わーい!」
パチパチと火が爆ぜる。
魚は格別に美味い。
笑い声が澄んだ山に響いた。
――それぞれの視線――
釣りも終わり、川辺で腰を下ろす。
火は小さくなり、炭の赤が静かに瞬いている。
オリバーは、ガイルの言葉を反芻していた。
姉ちゃんが欲しい。
弟になりたい。
胸の奥が、まだわずかにざわついている。
白い羽飾りが揺れる光景が、夕暮れの光と重なる。
それが何なのか、自分でもまだ分からない。
ただ、視線だけが少し変わった気がした。
ガイルは石を一つ拾って、川へ放る。
ぽちゃん、と水音がして、波紋が広がる。
母親に怒られたことを思い出したのか。
少しだけ照れた顔をする。
けれど、その目はどこか真剣だ。
本気で、あの「姉」という存在を羨ましがっている。
レオは、釣果を並べて満足げに笑う。
だがふと、オリバーとガイルの方を見る。
ほんの一瞬だけ、視線が鋭くなる。
勝ったのは魚の数だけだと、どこかで分かっているように。
ジャックは、濡れた服を振り回しながら笑っている。
今日という一日が、ただ楽しくて仕方がない。
その無邪気さが、場の空気を柔らかくする。
空はゆっくりと橙色に染まり、
山の影が川面に長く落ちる。
風が一度だけ、強く吹いた。
葉が鳴り、水面が揺れる。
川は変わらず流れていく。
誰の心の揺れも知らない顔で。
けれど、今日という一日は、
確かにそれぞれの胸の中に、小さな波紋を残していた。




