第35話 1センチの風
第35話です。
できなかったことが、できるようになる。
それだけで、世界は少し広がるのかもしれません。
―たくさんのアプリコット―
アプリコットは思った以上に量があった。
「これ、全部やるの?……」
「文句言わないの。売ったんだから責任持つのよ.
その代わり、美味しく出来たらちゃんと食べさせてあげるから」
母さんの一声で、作業開始。
レオは種を外し、ガイルは蜂蜜を持ち上げてうなる。
「重っ……! なんで砂糖じゃねえんだよ」
「砂糖は貴重品なの。うちは蜂蜜多め」
「覚えて帰って、母ちゃんにやってもらう!」
「レオ。あんたんちのお母さんの方が上手よ、きっと」
「俺は自分ちの母ちゃん信じてるぜ」
「ガイルは自分でやる気ないだろ」
「だってさあ!」
笑いが転がる。
ジャックはもう半分飽きている。
―針に糸を通すみたいに―
ドライアプリコット用のざるが並ぶ。
母さんが言う。
「風で少し乾かせると楽よ。でもね――」
ちらり、とオリバーを見る。
レオが物知り顔で言う。
「姉ちゃんがさ、細かい風魔法は『針に糸を通す』ようにやるって言ってたぜ。俺は裁縫しないからわかんないけど。」
…こっちだって、やってないよ。
それでも、やってみる。
細く。まっすぐ。
アプリコットにだけ。
集中する。
あと少し――
「お、なんか涼しい」
ガイルがぬっと横に入る。
「いいきもちー」
その瞬間。
びゅおっ。
強くなりすぎた風がざるをあおる。
「うわっ!」
半乾きのアプリコットが庭に散る。
ジャックとジュニアが突撃。
いくつか持っていかれた。
「待てー!」
「ちょっとぉー!」
母さんの声と笑いが混じる。
レオがざるを拾いながら言う。
「だから力が荒いって」
オリバーは黙る。
できなかった。
また。
―やり直し―
庭を片づけて、もう一度。
「失敗して覚えるのよ」
母さんは怒っていない。
「風は目に見えないから難しいの」
レオが、そっと土を盛る。
簡単な壁。
風が逃げないように。
ガイルは今度こそ真面目に蜂蜜を混ぜる。
「今度は邪魔しねえ」
ジャックは……たぶん草を千切っている。
夕方なのに汗ばむ。
夏草は、もう少し固い。
オリバーは深く息を吸う。
細く。まっすぐ。
今度は、ざるは揺れない。
アプリコットの表面だけが、静かに揺れる。
風が、通る。
ちゃんと、届く。
「……うん。今のは上手」
母さんがぽつりと言う。
大きな声じゃない。
でも、聞こえた。
レオが横目で見る。
「方向はいいんだよ、お前」
ガイルは寝転がる。
「真面目だなあ」
オリバーは何も言わない。
でも、胸の奥が、ほんの少しだけ軽い。
昨日できなかったことが、今日できた。
大袈裟じゃない。
世界が変わったわけでもない。
けれど――
自分の中の何かが、
1センチだけ、広がった気がした。
ざるを壁ぎわに立てかける。
風はもう、乱れていない。
静かに、アプリコットの上を過ぎていった。




