第31話 本当の正解
授業の終わり、ノア先生に声をかけられた。
「オリバー、申し訳ないのですが」
先生はすまなそうに封筒を差し出した。
「エリオットの家に行って渡してほしいのです。授業のプリントと、先生からのお便りです。心配しているとお伝えください」
エリオットはここ数日休んでいる。
「……はい」
受け取ったものの、少しだけ迷った。
「今日は仔牛のジュニアを散歩させるって、ジャックと約束してたんだ」
「しょうがねえなあ」
レオが横から覗き込む。
「じゃあ、オリバーんち寄って、ジャックとジュニアも一緒にエリオットの家に行こうか」
「それがいいね」
自然にレオが一緒なのが、少しだけ嬉しい。
牛小屋ではジャックがにこにこ待っていた。
「お兄ちゃん、行こう!」
本当は仔牛に散歩なんて必要ない。母牛と外に出せば十分だ。
でもジャックは、ジュニアをまるで弟のように可愛がっている。
春の始まり。
ハコベが芽吹いている。
それを摘んでは、ジュニアに差し出す。
「ほら、ジュニア」
仔牛は嬉しそうに、ジャックの手から食べる。
「これ、ヒヨコグサって言って、人間も食べられるんだぜ。意外といける」
レオがニッと笑う。
両上の前歯が一本抜けていて、そこから舌がのぞいた。
「俺、あんまりエリオットと話したことないんだよな」
「レオが?」
目の前に現れたのは、大きな屋敷だった。
「風邪かな。……ここだ。と思う」
「間違いだったらどうするの?」
「その時は……謝ればいいさ」
背筋を伸ばし髪を撫でつける。
レオは服のほこりをはらっている。
門のノッカーを叩くと、エプロン姿の中年の女性が出てきた。母親かと思ったら、メイドだった。
「坊ちゃんをお呼びしますので、お待ちください」
しばらくして、エリオットが現れた。
「お前んち、すげえな」隣のレオが開口一番言った。
「大したことない」
表情は暗いが、顔色は悪くない。
「風邪じゃないのか?」
「……学校が楽しくないんだ」
ぽつり、と始まった言葉は、止まらなかった。
教わることも面白くない。
登校は寒い。
学校に行けばストーブが暑い。
何をしても心が動かない。
「やってられないんだよ。もう、やめる」
胸の奥が、ひやりとした。
やめる。
簡単に言える言葉じゃないはずなのに。
――待って。
喉の奥まで出かかった声を、飲み込む。
確かにエリオットとは、仲がいいわけじゃない。
でも。やめてほしくはないと思った。
それはエリオットのためじゃなく、自分のための言葉だと分かってしまった。
これは
自分自身の身勝手な願い。
でも――。
オリバーは、ただ黙って聞いていた。
話し終えたあと、そっと言った。
「でも……エリオットが、クラスメイトとして受け入れてくれたって感じたことがある。そのときは、嬉しかった」
目が揺れる。
伏せる。
「ごめん。もう決めたんだ。
…ありがとう。」
エリオットがしぼるように言った。
「決めたなら、それもいいと思う。ただ……」
一瞬、迷う。
「……また来るなら、一緒に仲間になろうよ」
引き止めない。
でも、扉は閉めない。
それが今の自分にできる、精いっぱいだった。
帰り道。
「学校、やめるんだな」
レオがつぶやく。
「家庭教師とかつくんじゃねえか。金、ありそうだし」
大きな屋敷。
きっと暖かい部屋。
困ることなんて何もなさそうに見えるのに。
それでも、学校が嫌になるのか。
苦しさは、外からじゃ分からない。
胸の奥が、少しだけざらつく。
「もったいない」
思わず言葉が出る。
この一年、辛いこともあった。
それでも。
「僕は早く学校に行きたい!」
ジャックが叫ぶ。
「不思議なもんだな。行きたくてもまだ行けない子と、行けるのに行きたくない子」
オリバーは首を少し傾けた。
「本当の正解なんて、ないのかもしれない。
後にならないと何もわからないのかも。
どれを選んでも正解なのかも。
わからないけど……」
少し間を置いて、呟く。
「決断は、勇気がいる」
エリオットは逃げたように見える。
でも、逃げると決めたのだ。
今は見守ることしかできないけど。
足元を見ながら歩く。
「戻ってきたら、笑顔で迎えよう」
「それもそうか」
自分たちは、これからどんな決断をするのだろう。
エリオットみたいに、学校が嫌いにならない保証なんてない。
次に崩れるのが、自分じゃない保証もない。
もしまた、みんなの視線が怖くなったら。
もし、教室に入れなくなったら。
エリオットを「もったいない」と言った自分は、同じことを言われたら耐えられるだろうか。
急に怖くなって息が苦しくなる。
そっと胸を押さえる。
エリオットの辛そうな顔が浮かんだ。
ふと、レオの顔を見る。
レオがこちらを見る。
にっと笑う。
抜けた歯が光る。
「そうだよな。学校には学校の良さがあるんだぜ。俺、前にも言ったけど。学校に行けてよかった。お前に会えた」
照れるような顔のまま、仔牛に話しかける。
「ジュニア。お前はどんな牛になる?」
モー。
「お乳いっぱい出すってさー!」
「オスだけどな」
レオがジャックへ即座に返す。
抜けた歯のまま、大笑いしていた。
笑えた。
息は吸えている。
今は。
もちろん先はわからない。
でも。
話しかければ、聞いてもらえる。
レオが笑っている。
ジャックがはしゃいでいる。
ジュニアが草を食んでいる。
息を吸う。
ちゃんと、吸える。
今の風は、寒くなかった。




