第一話「婚約破棄? 結構。では次はこちらのターンですわ!」
貴族街の一角、冬の名残がわずかに残る朝の冷気を払いながら、クラリス・エヴァンスは静かに立っていた。
古ぼけた屋敷の門。かつては伯爵家として名を馳せたエヴァンス家の屋敷も、今や落ちぶれた貴族の象徴として見向きもされない。扉の装飾は褪せ、庭の花壇も手入れが行き届かず、ところどころ雑草が顔を覗かせている。
だがその場に立つクラリス本人は、まるで何一つ失っていないかのように堂々としていた。
──たった今、王宮より正式な文書が届いたのだ。
「アレクシス・ルヴァン・フレイアス殿下との婚約は、諸事情により破棄とする」
たったそれだけの内容。花押と紋章の押された文書に、無機質な冷たさと王家の都合だけがにじむ。
侍女のリサが蒼白な顔で文書を掲げながら、泣きそうな声で叫んだ。
「れ、令嬢様……っ! し、失礼ながら、落ち着いて……っ! あの、これはきっと、なにかの間違いで――」
「違いませんわよ」
クラリスは一歩、堂々と踏み出す。瞳の奥には凍てついた鋼のような光が宿っていた。
「婚約破棄、結構ですわ。むしろ、ちょうどいい機会ですこと」
「き、機会って……令嬢様ぁ!?」
「ふふ。だって、これで――次はこちらの番ですもの」
クラリスはその場で踵を返し、まるで祝勝の宣言でもするかのように背筋を伸ばした。手にした文書を一瞥し、そのまま笑みを浮かべて屋敷の奥へと戻っていく。
その姿に、リサはぽかんと口を開けて立ち尽くしていた。
***
クラリス・エヴァンス。元はエヴァンス伯爵家の嫡女として育ち、幼い頃より礼儀作法、学問、そして王侯貴族との立ち回りを仕込まれてきた。
その生まれと美貌、そして才覚から、若くして第二王子アレクシスとの婚約を結び、将来は王太子妃とすら噂されていたのだ。
だが――。
父親がとある貴族との政争に敗れ、領地の収入源をほぼ失う。取り入っていた商人にも見放され、あっという間に屋敷の使用人は半分になった。
そして今日、届いたのが“婚約破棄”の正式通告だった。
普通の令嬢なら泣き崩れてもおかしくないだろう。王子との婚約が消え、家は没落し、未来は閉ざされたも同然。
だがクラリスは、違った。
「……殿下の婚約破棄が、たった一通の文で終わると思ったら、大間違いですわよ」
クラリスは自室の机に広げた地図の上、王宮の位置に小さな赤い印をつけた。
「次は、こっちから仕掛ける番。王子を婿に迎える、それが私の次の計画」
「え? えええ!? い、今なんと……!?」
リサが驚きすぎて椅子ごと転げた。
「婚約破棄を逆手に取るのよ。これで、私は“自由”の身。王家の鎖は外れた。だったら、今度は“女の側から求婚”してやればいいじゃない」
「そ、それって……そんな前代未聞……!」
「でしょうね。でも、だからこそ価値がある。貴族でなくとも、王子に選ばれる女がいるという事実は、この国の“階級”という神話を一つ壊せる」
その口ぶりは、まるで政治家だ。いや、革命家の方が近いかもしれない。
「婚約破棄の件で“かわいそうな令嬢”として王都で同情されてる今なら、話題性も抜群。うまく動けば、貴族社会の女たちの共感も得られるわ。王家としても軽んじられない」
「れ、令嬢様……あの、私には頭が追いつきません……」
リサは机の上の地図を見つめていたが、そこにはびっしりと作戦メモが記されていた。
・殿下の周囲の使用人への根回し
・王宮内での偶然を装った接触
・女官仲間からの好感度工作
・殿下の「理想の女性像」リサーチ
クラリスは机に肘をつき、紅茶を一口すすった。表情には余裕すら浮かんでいる。
「“女は待つもの”ですって? いいえ、そんな時代はもう終わりですわ」
「そ、そうですか……! ではわたくし、全力でサポートいたしますっ!!」
涙目だったリサが、いつの間にか目を輝かせて拳を握っていた。
クラリスがふっと笑う。
「ふふ。殿下が“捨てた”というのなら、その結果がどうなるか、見せて差し上げましょう。王子としてではなく、“男”として選ばれる覚悟があるか、試してみますわ」
その頃、王宮の書斎で。
「……ふむ、彼女の反応は?」
「はい。『次は私があなたを娶ります』と」
報告を受けたアレクシス殿下は、書類の手を止め、わずかに口元を綻ばせた。
「……そう来るか。やはり、クラリスは面白い」
そう呟いた彼の瞳に宿ったのは、隠しようのない“恋する男”の光だった。
婚約破棄など、ただの口実。
最初から彼は、クラリスが自由になり、自分の意思で自分を選ぶ未来を願っていたのかもしれない。
物語の舞台が、動き始めたーー