9 夜の修道院庭園
本日1回目の投稿です
夜の修道院庭園は、昼とはまるで別の場所のようだった。
昼間は修道女や神官の視線が突き刺さる。遠巻きにささやかれ、祈りの声さえ嫌悪で汚された空気のなか、身を置くのがつらくて仕方なかった。だから今、誰もいないこの時間を選んで庭に出ている。軟禁とはいえ、この庭園だけは自由に歩くことを許されていた。
濡れた石畳に咲く、月の光がやわらかく降りていた。風に揺れる花々がほのかに香り、水音が静けさを添える。
(わたしが間違っていたのかな……)
ふと、そんな思いがよぎり、胸が締めつけられる。獣人族の子供が傷ついていた。ただ助けたかった。ただ、それだけだったのに。
「……こんな夜に、おひとりで?」
声に振り返った瞬間、思考がふっと止まった。
そこにいたのは、ミリエルだった。月明かりの中、白い外套を羽織り、柔らかな微笑をたたえて佇んでいる。その姿は、かつて自分が憧れた聖女そのものだった。
「ミリエル様……」
無意識に声が漏れる。懐かしさと戸惑いが胸に渦を巻いた。
「そう身構えないでください」
ゆっくりと、ミリエルはシエラの隣に腰を下ろす。穏やかなその動きは昔と変わらないのに、距離だけが遠く感じられた。
「明日、あなたに正式な処分が下されるそうです」
「……はい」
わかっていた。覚悟もしていた。けれど、こうして言葉にされると、胸の奥が冷たく染まっていく。
「破門は免れないようです。ですが、命までは取らないよう、わたくしから進言しています」
――命までは取られない。
その現実が、安堵と同時に、深い悲しみを呼び起こす。まるで「破門」は慈悲だとでも言わんばかりだ。信じてきた教会に、見限られるという事実。
「ありがとうございます……」
搾り出すような声でそう返すのがやっとだった。
ミリエルはそれ以上、何も言わなかった。ただ隣に座って、同じ夜空を見つめている。
それだけで、少し泣きたくなった。
「それでも……」
絞り出すように口を開いた自分の声が、思ったよりも震えていなかったことに、どこかで驚いていた。
「それでも、わたしは……間違っていたとは思っていません」
誰かを癒したいという思いに、偽りはなかった。あの子の痛みを、血を、苦しそうな呼吸を、見過ごせるはずがなかった。種族がどうとか、教えがどうとか、それよりも前に、命があった。ただ、それだけなのに――、
「ええ。間違っていません」
ミリエルはすぐに、肯定の言葉を返してきた。柔らかな微笑を浮かべたまま、その声には何の迷いもなかった。
「貴女は……正しいことをしました。それは事実です」
シエラの胸が、一瞬だけ、安堵で揺れる。けれど。
「でもね」
その声色が、少しだけ低くなった。
「正しさというのは、時に刃になります。……自分自身を、あるいは誰かを、無意識のうちに傷つけることもあるでしょう」
刃――という言葉に、シエラのまぶたが僅かに震えた。
「……シエラ、あなたは、優しすぎます。誰かが苦しんでいれば、自分のことなんて忘れて手を差し伸べてしまう――たとえ、その身が引き裂かれても」
その口ぶりは、まるで慰めるようで、同時に諭すようでもあった。けれどそこに、怒りも、嘆きも、拒絶もなかった。ただ――淡々と、でも確かに「距離」を保つような話しぶり。
「理想を掲げることは、素晴らしいですわ。わたくしも、それがどれほど眩しいものか、知っています」
シエラは、隣に座るミリエルを横目で見る。表情はやわらかい。けれどその目だけは、どこか遠くを見つめていた。
ミリエルの語りは穏やかだった。けれど、そこに漂う言葉の輪郭は、どこか曖昧で――柔らかすぎて、逆に掴めない。
「現実は、正しさだけでは立ち行かないのです」
その一言は、まるで霧の中に差し込む月光のようだった。明るいのに、どこか不安をかき立てる。胸の奥に、ほんのわずかなざらつきが残る。
(……どうして?)
ミリエルは、いつも優しかった。誰よりも穏やかで、学舎の誰に対しても平等で、教えも行いも誠実だった。だからこそ、あの人の言葉は、いつだって心にまっすぐ届いた。
けれど今、その声は……もう、昔ほど近くには感じられなかった。
「ミリエル様……」
声をかけようとして、ためらった。
(わたしのために、言ってくれているはずなのに……)
頬を撫でる風は冷たい。夜気が肌を冷やすはずなのに、首筋に汗が滲んでいるようだった。理由は分からない。けれど、心の奥のどこかが警鐘を鳴らしていた。
そんなシエラの視線を受け止めながら、ミリエルはほほ笑む。
「ねえ、シエラ。あなたは……“選ばれた”ことの意味、考えたことはあるかしら?」
「……選ばれた?」
問い返すと、ミリエルは頷いた。
「聖女候補として神聖教会に迎えられ、治癒魔法を授かり、人々を導く立場にあるということ――それは、ただの偶然ではないのですよ」
その口調は優しく、まるで子供に物語を聞かせるかのようだった。けれど、話されている内容は明らかに“現実”だった。
「世の中には、正しいことを思いながらも届かない人がたくさんいる。想いがあっても、力がなければ、導くことはできない。けれどあなたには、それができる。意志と、力と、器がある」
「器……」
その言葉が引っかかった。肯定のはずなのに、その声はどこか機械的で、冷たい響きだった。
「正しい意志を持つ者は、導かれるべき存在なのです」
ミリエルの笑みが、ほんの僅かに深くなる。けれどその奥に、かつてのあたたかさを探そうとしたシエラは、なぜか目を逸らしたくなった。
(なにかが……違う)
胸の内に、またざわめきが広がる。
今のミリエルは、たしかに「正しいこと」を言っている。けれど、その“正しさ”の向こうにあるものが、どうしても見えない。それは教会の教えよりも重く、しかしもっと曖昧な“何か”だった。
「シエラ。あなたは優しい。その優しさを、どうかこれからも捨てないで」
ミリエルはそっと手を伸ばしてきた。シエラの肩に置かれたその手は、あの頃と変わらぬあたたかさだった。
「……ありがとうございます、ミリエル様」
その一言に、どれほどの思いを込めたか、シエラ自身にも分からなかった。ただ、胸の奥に灯るかすかな違和感は、消えることなく、静かに息づいていた。
庭園の夜は、深く、静かだった。
月の光が石畳を照らし、わずかに風が枝葉を揺らす音だけが耳に届く。修道院の外れ、人の気配はとうに途絶え、花壇の向こうで咲く白い花が、月光を帯びて淡く揺れていた。
ミリエルは、しばらく何も言わなかった。
シエラもまた、言葉を飲み込んでいた。目を合わせようとして、やめる。視線を花へ落とすと、それだけで涙がにじみそうだった。
そんな彼女の頬に──
そっと、指が触れた。
「……あなたには、難しかったかしら」
囁くような声だった。静かで、あまりに優しいからこそ、かえって胸に刺さる。
「正しさを貫くというのは、時に人を苦しめるのです。周りも、自分も……傷つけてしまうことがあります」
ミリエルの瞳が、まっすぐにシエラを見ていた。けれど、そこにある感情は読めない。ただ、底知れない光と静けさだけがあった。
「あなたはあなたの信じる道を行けばいい。でも……正しさだけで、現実を変えられると思わないこと」
それは命令でも教訓でもなかった。ただ、祈るような響きだった。
(わたしの信じた道は、間違っていたの……?)
シエラは、問いかけたかった。けれど、やめた。
「……それでも、私は」
言葉が自然に口をついて出た。震えていたが、かすかに笑みすら浮かべながら、シエラはミリエルの手にそっと自分の手を重ねる。
「それでも、私は……誰かを見捨てないと決めたんです」
誰かが苦しんでいるなら、手を差し伸べる。どんな種族であっても、どんな立場であっても。教会の教えが何を言おうとも、世界がそれを間違いだと叫ぼうとも。
(それが……わたしの信じた「光」だから)
ミリエルの瞳が、わずかに細められる。それが喜びなのか、寂しさなのか、あるいは別の何かなのか、シエラには読み取れなかった。
けれど、その手は離れていった。
「……ええ。あなたは、そう言うと思っていましたわ」
優しい声が、夜風に溶けていく。
「さようなら、シエラ」
ミリエルは振り返ることなく、修道院の暗がりへと歩き出した。夜の帳にその背が消えていくまで、シエラは何も言えず、ただその場に立ち尽くしていた。
やがて月が雲に隠れ、夜の静寂が戻ってくる。
シエラはひとつ、深く息を吸った。
心が、重くもあり、軽くもあった。不安と決意が混ざり合い、胸の奥で波打っている。それでも彼女の足は、ゆっくりと修道院の方へと向かっていた。
明日、自分は破門され、教会から追放されることになる。それは、今まで信じてきた世界との決別でもあった。
けれど――それでもいい。
(私は、私の道を行く)
そう心の中で唱えながら、シエラは夜の回廊をひとり歩いた。
次回投稿は本日正午頃の予定です