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6 隻腕の剣士

1日3回の投稿予定です

本日2回目の投稿です


残酷描写注意

 王城の裏手――それは人目につかぬ廃墟の迷路だった。戦や災厄で崩れたまま放置された外壁、焼け焦げた廊下、苔むした石畳。かつては貴族用の離れに繋がる庭園通路だったようだが、今や廃屋の残骸が連なるだけの忘れられた一角にすぎない。


 闇の裂け目を縫うように、音を殺して進んでいた。

 息は荒く、胸は焼けるように熱い。泥と血が乾いた衣が肌に張り付き、膝は痛みで軋む。

 体力はすでに限界に近かった。


 それでも歩を止めぬのは、追手の気配が未だ王城内に残っているからだ。動きを止めた瞬間に、息の根を止められるかもしれない。


 逃げろ。

 まだ逃げねばならぬ、と本能が告げている。


 安堵はなかった。ただ冷えた思考だけが残る。通気孔を抜け、廃屋の床下から這い出したのがつい先ほど。身体を起こした時、砕けた窓ガラスに映った己の姿が脳裏を焼いた。金髪、金眼、やや細身の体躯――それはゼギス=レスティエスの顔だった。


(……この身が悪逆の限りを尽くしてきたと言うのか)


 思い出すのも忌々しい。牢で聞いた数々の蛮行。恫喝、暴力、略奪、そして殺人。

 勇者の名を踏みにじった愚か者。


 ゼギスの怒りの矛先は、ただ一人の所業に向けられたものではなかった

 この世界だ。


 目覚めてから、まだ日も浅い。だがゼギスの目はすでに、王国の歪みが見えている。

 虐げられている人間族以外の者たちと、それを当然と考える人間族


 三百年――あの最後の戦から、少なくともそれ以上の時が過ぎていたが、これでは進化ではなく、退化だ。

 これが『平和』と言うのであれば、腐っているとしか言いようがない。

 判断するにはまだ早すぎるかもしれないが、


(……この国に、未来などあるのか)


 焦燥と疲労の中で、それでも思考は止まらなかった。いまはまず体を癒さねばならない。魔力も十分ではない。

 食料と水の確保。服の交換、負傷箇所の手当て。

 だが、それらは単なる準備にすぎない。――目的は明確だ。


 《隔離保管庫》。危険指定品、魔導兵装、廃棄された魔核――あらゆるものが封じられた王城の禁域。そこに《魔王の残滓の欠片》がある。それが何を指すのかは分からないが、「魔王」とついているならゼギスと無関係ではあるまい。

 それを手に入れることは、世界を変える第一歩だ。


 ゼギスは足を止めず、崩れかけた外壁の陰へと滑り込んだ。だが、その時だった。


 空気が張り詰めた。風が、静かなる刃のように異質な気配を運んできた。


 瓦礫の山を、何かが越えてきたのだ。


 月光が差す狭間に現れたのは、一人の人影。

 長く流れる髪、外套のすそが静かに揺れ、足取りは異様なほど静か。かすかな魔力の鼓動すら感じさせぬその存在に、ゼギスの本能が即座に反応する。


(――来る)


 気配は、あまりに静かだった。

 剣を抜く音もない。魔力の高ぶりもない。だというのに、空気が異様に張り詰めていく。まるで眼前に、見えない刃が突きつけられているかのような錯覚すら覚える。


 ゼギスは即座に反応した。身を屈め、瓦礫の陰に滑り込むようにして潜む。逃亡の疲労が全身を蝕んでいたが、そんなことは関係なかった。この気配――歴戦の強者のそれだ。警戒せずにすれ違えるような相手ではない。ましてゼギスは追われる身だ。


 そして、視界の端に映ったその女は、ただ静かに歩いていた。


 月の光を背に受け、ゆるやかに揺れる長髪。やや擦れた深緑の旅装に、肩を覆う風除けの外套。腰に細剣を一本。背筋はまっすぐに伸び、音もなく歩を進めていく。


 ……右袖だけが、虚しく揺れていた。


 肩口から先、右腕そのものが存在していないのだ。

 つい先刻、地下牢で見た非人間族を思い出す。

 しかし、眼前の女性の歩みに諦念も悲壮も迷いも一切ない。無力でも不自由でもない。むしろ、腕の欠如が彼女の輪郭を鋭く研ぎ澄ましているようだった。


 ゼギスは知らず、息を止めていた。


 右腕を失った剣士など、本来なら致命的な欠陥だ。しかし彼女から感じる気配には、“隙”という言葉が一切なかった。


(……強い)


 純粋な評価だった。圧倒的な実力を持つ者だけが発する、あの沈黙の重さ。ゼギスは何度も前世でそれを感じたことがある。

 だが、この女から漂う気配には、どこか人間族とは異なる空気が混じっていた。


(人間族ではない……魔人族のそれでもない。ならば――)


 瞼の裏に、古の記憶が蘇る。大樹の下、森の奥深くに息づく誇り高き種族。自然と共に生き、鋼よりも強き意志を宿した一族――


(……森人族か?)


 確信とまではいかない。が、それ以外に説明がつかなかった。


 ――ふと、その女が通りを横切り、灯りの差す角に差しかかる。その刹那、声が響いた。

 ゼギスは身を隠し、様子を観察する。


「あ? おいおい、なんだぁ、耳の長ぇお嬢さんよぉ。こんなとこ一人で歩くとは、肝が据わってんのか、それともただの馬鹿か?」

「……見ろよ、右腕がねえじゃねえか。なるほどなあ、そういうことか」

「でもまあ、使えりゃ腕じゃなくてもいいよな? 他のとこは元気そうだし」


 下卑た笑い声が広がる。森人族の女性は足を止めた。腰の剣には手をかけず、ただ視線を男たちに向ける。


「貴方方のような下賤な者に、与える言葉はひとつだけです」


 静かに、そして冷たく。


「――退きなさい。今なら、命は残る」


 だが男たちは笑うばかりだった。そのうちの一人が、にやついた顔のまま彼女の肩に手を伸ばす。

 首飾りが微かな音を立てた次の瞬間、風が切れた。

 斬撃はあまりに鋭く、音すら残さなかった。男の腕が、肘から先で地に落ちるまで、誰もそれに気づけなかった。


「……ぁ、ああああ!? てめぇっ、てめぇぇっ!!」


 別の男が怒号を上げ、腰の斧を振りかざして突進する。

 森人族の女性は静かに地を蹴り、右足で男の胸を強かに蹴り抜く。斧が手からすっ飛び、男はその場に倒れ込んで痙攣した。


「ま、待て、待てって! 耳長の片腕女って、おい、まさか、あの……!」


 残った者たちの顔から血の気が引く。どうやら名のある剣士のようだ。

 ゼギスは場合によっては手を出そうと考えていたが、その心配はまったくもって無用だった。


「次に出会ったときは、名前すら残さず切り捨てます。今はただ、退きなさい」


 女性の言葉に男たちはそれ以上何も言えなかった。剣を抜くこともできず、喚きながら夜の路地へと消えていった。静寂が戻る。


 女性剣士は一瞬ゼギスの方に視線を向けたが、それだけだった。

 森人族の女性剣士は剣を収め、無言で歩き出した。


 瓦礫の陰からそれを見届けたゼギスは、深く息をついた。


(強いな)


 森人族。かつての戦の時代に、誇り高く剣を振るっていた精鋭の一族。

 そうやら人間族だけが幅を利かせているわけではないようだ。


(……あれが、この時代の“強者”か)


 その歩き去る背は、夜の街の中に溶けていった。

 だがゼギスの胸に刻まれたその存在感は、簡単に消えることはなかった。


 名も、素性も、知らない。

 ただ一人、そして再び――ゼギスは夜の闇に踏み出した。 

次回投稿は7/20午後7時の予定です

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