5 囚われの参謀
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「騒がしいが誰かいるのか? いるなら大人しく出てこい……ってなんだ。いつもの発作か。いい加減、謝るのはやめろ! 謝ってもてめぇの運命は変わらねえんだよ!」
怒声と共に、湿った石畳に鉄靴の音が響いた。現れた男は腰に剣、手には警棒を握っていた。
険のある目つきと唇の端に浮かぶ歪んだ笑みは、暴力を日常のものとしている証だった。
その視線の先――檻の奥に、怯えた様子で身を縮める獣人族の少女がいた。先ほど、ゼギスの姿を見て何度も謝罪の言葉を繰り返していたあの子だ。
「何度言わせりゃ気が済むんだ。お前みたいな出来損ない、謝ったところで何も変わらねぇんだよ!」
衛兵は怒鳴りながら檻の鉄格子を警棒で叩きつけた。鈍く響く金属音が牢内に反響し、獣人の少女は思わず顔を両腕で覆って縮こまる。恐怖に肩を震わせるその姿に、ゼギスの拳は音を立てて握り締められた。
――自分たちで壊しておいて、なお踏みにじるのか。
血の気の引いた手の甲には、白く浮かび上がった筋が見える。怒りが沸点を超え、もはや冷たさすら帯びていた。奥歯をかみしめた拍子に、ギリリと軋む音が自分の頭蓋に響く。
ゼギスはただそこに立ち尽くしていた。だが、視線だけは、衛兵の背に突き刺さるほど鋭く――静かな怒りが、確かにそこにあった。
ネザルは檻の中から、何気ない口調で声をかけた。
「おい、そこの君。処刑された男が脱走したようだが、探さなくていいのか? 今なら報奨金がつくと聞いたが」
その一言に、衛兵の足がぴたりと止まった。面倒事を嫌うような顔つきのまま、眉をひそめてネザルの方を見やる。
「……報奨金、だと?」
「そうだ。それなりの額だそうだよ。今からなら間に合うだろう?」
ネザルの声音は実に自然だった。煽るでもなく、命令するでもない。ただ、あたかもそこに事実が転がっているかのように提示しただけ。だが、それこそが彼の強みだった。
衛兵はわずかに口角を吊り上げ、納得したように頷いた。
「……捕まえりゃ金か。悪くねぇ」
そう呟くと、鉄靴の音を響かせながら小走りで通路を去っていった。最後にこちらを振り返ることすらない。まるで、言葉ひとつで行動を書き換えられたかのようだった。
ゼギスはその背を無言で見送り、わずかに眉をひそめる。
(……あれだけで動くか。やはり、この男。健在だ。鎖に囚われようとも、思考は鈍っていない。いや、それどころか……)
目の前のネザルは、まるでこの状況すらも観察材料として楽しんでいるようにすら見えた。鋭さと老練さ、そのどちらも失われていない。
足音が去ったのを確認し、ネザルが口を開く。
「他愛もない。して、逃げ込んできた『最低勇者』殿。何をしにここへ? 私の記憶では今日処刑されたはずだが」
牢の鉄格子の向こうから、くぐもった声が響いた。鋭く研がれたような観察の視線。皮肉と関心の入り混じった声音に、ゼギスはわずかに目を細める。
「……どうにも記憶が曖昧でな。お前は知ってるのか?」
「外の情報など知ろうと思えばどうとでもなる」
ネザルは微かに笑った。口角だけがわずかに上がる、獣のような笑みだった。
「ゼギス=レスティエス。王家の長男にして、勇者の名を与えられた男。そして、評判の悪さで名を馳せた反逆者。脅迫文をばらまき、商人から金品を巻き上げ、街角では演説をぶって騒ぎを起こし、終いには貴族を殺して逃走。なかなか破天荒な武勇伝じゃないか。嫌いではなかったぞ」
ゼギスは苦々しく顔をしかめ、舌打ちする。
(ふざけた経歴だな……転生した先がこれとは。魔王としての生が終わってなお、平穏には程遠い)
彼は思い出す。
かつて魔王ゼギスとして戦い、そして死んだ。だがそれは終わりではなく――気づけば、この体の中にいた。
「だが――」
ネザルの視線が鋭くなる。
「貴様、まるで別人のようだ」
「……なんだと?」
「怒りの矛先が違う。自己中心の苛立ちではなく、守ろうとする者の目だった。さっきの牢を見た時、そう感じた」
ゼギスの表情がわずかに動く。その洞察力に、感心よりも先に警戒が浮かぶ。
「……鋭いな」
「でなければこんな場所で生きていけぬよ」
ネザルは淡々と続けた。
「体の中に別の『誰か』がいる……そう思うのは、私だけか?」
ゼギスはその問いをあえて受け流す。代わりに、低い声で切り返す。
「質問に答えろ。ここは……どこだ?」
ネザルは静かに、しかし確かな声で答えた。
「“レスティエス統一王国”。この国の名だ」
ゼギスは眉をひそめた。
「……聞いたこともないな」
「ふむ。では今が何年か分かるか?」
「……いや」
ネザルは牢の奥を見つめながら言った。
「現在は──統一歴三百年」
沈黙。数秒の間に、ゼギスの脳裏を幾つもの可能性がよぎる。
(レスティエス王国……それに統一歴、三百年?)
その言葉の意味が、心臓の奥で鈍く響いた。
(年号が変わっている……俺が……あの時討たれてから、少なくとも三百年が経っているというのか?)
時間の重みが、地中深くに沈むようにゼギスの胸を圧した。世界はすでに、自分の知るものではない。王も、民も、秩序すらも――すべてが変わってしまった可能性がある。
(それでも、ここにはまだ……あの頃の名残りがある)
ゼギスはゆっくりと顔を上げた。目の前の男、ネザルの存在が、それを何よりも物語っていた。
ネザルは静かに続けた。
「力が要るのだろう。ならば教えてやる。王城の隔離保管庫に、《魔王の残滓の欠片》が封じられている。貴様が手にできるのならば、試してみるといい」
ゼギスはその名にわずかに反応した。魔王――自身に関するものなのか?
聞いたことがない代物だ。むろん、魔王だった時には存在していなかった。
であればゼギスが不在だった三百年――あるいはそれ以上――の間に生じた物ということだ。
直に見て確認する必要がありそうだ。
「……だが、今の俺では無理だ。体力も、魔力も、何もかもが足りない。今は無理でも、いずれ必ず取りに行く」
「そうだろうな」
ネザルはわずかに頷き、続けた。
「最後に一つ、抜け道を教えてやろう。第四監視路の奥に、古い通気孔がある。時折、私を訪ねに来る者が使っているようだ。貴様が兵に気づかれずに脱出するなら、そこしかない」
情報の正確さ、無駄のなさ――それは、かつての参謀としての性格を物語っていた。
ゼギスは一拍置いて問いかける。
「……なぜ、俺を助ける? お前には何のメリットもないだろう」
ネザルは視線を牢の奥に向け、囚われた者たちを見やった。
「理由など幾つもある。ここにいる者たちの未来のため。そして……そうだな、時が再び動き始めた気がするのだ。長き停滞が、ようやく終わりを告げたような」
ゼギスはしばし沈黙したのち、振り返らずに言った。
「……必ず、迎えに来る。お前も、この牢に閉じ込められて終わる器じゃない」
その言葉に、返答はなかった。だが背後で、微かに笑う声が聞こえた。肯定か否かも定かではない。ただ、それで十分だった。
ゼギスは教えられた通気孔を辿り、古びた壁を押し開ける。石の継ぎ目は脆く、確かに退路としては残されていた。
そして、王城の裏手――廃屋の並ぶ地帯へと這い出た。
空はすでに夜の帳に包まれている。星と月が浮かんでいる。
ゼギスはしばらくその闇の中に立ち尽くし、深く息を吐いた。
(――三百年。知らぬ間に、時代そのものが変わっていた)
魔王が斃されれば平和になるのではなかったのか。
この国は人間族の国だ。そしてどうやら人間族以外の種族を虐げているようだ。何かの実験をしているのかもしれないし、ただ拷問を楽しんでいるだけなのかもしれない。
(それが平和だと言えるのか……否。答えは否だ。ならばこそ、この時代で……もう一度、抗ってやろうじゃないか)
自分だけが平穏であっても、意味はない。
ぼろぼろの衣を引きずるようにして、ゼギスは歩き出した。その歩みは遅く、足取りも重い。
だが彼の眼差しは、確かに前を見据えていた。
夜の王都――その深い闇の奥へと、彼は再び歩き出す。
次回投稿は7/20正午の予定です